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第12話 帝の首に巻かれた見えない紐

夜明け前の宮中は、死者の腹の中に似ていた。誰もが息を潜めている。火の気はあるのに温かくない。香は焚かれているのに、どこか焦げ臭い。白妙は紅玉の身体で廊を歩きながら、自分の足音がいつもより重く響くのを聞いていた。


女官だったころ、この廊は掃除をする場所だった。柱の傷。床板の軋み。右から三番目の灯明だけ油が切れやすいこと。白妙は全て知っている。けれど今、彼女は誰にも頭を下げられる側にいた。すれ違う女官たちは、白妙の顔を見て膝をつく。


「紅玉様」


敬意と恐怖が混じった声。白妙は微笑む。紅玉なら、ここで誰も安心させない。美しい微笑みを浮かべ、相手がその意味を考え続けるように仕向ける。無能を演じるより、難しい。


「背筋を伸ばして」


鏡の中から紅玉が囁いた。小さな手鏡は袖の中に隠している。銀の面に映る紅玉は、白妙の姿勢をいちいち直す。


「顎を下げすぎない。私が女官に怯えると思う?」


「思いません」


「なら、怯えない」


「紅玉様は、いつもこんなに疲れることをなさっているのですか」


「寵愛される女は、眠っている時も敵に見られているのよ」


その言葉に、白妙は何も返せなかった。白妙は無能を演じて身を守ってきた。誰にも見られないための嘘だ。紅玉は寵妃を演じて身を守ってきた。誰からも見られ続けるための嘘だ。正反対なのに、同じ匂いがした。


「感心している場合か」


背後の影から焔の声がした。焔は白妙の影に潜んでいる。弱っているせいで姿は曖昧だが、口だけは相変わらず悪い。


「お前の本体は北庭へ運ばれている。中身は別物だ」


「分かっています」


「分かっている顔ではない。紅玉の顔で泣きそうになるな。なかなかそそるが、今は不利だ」


「弱っているのに、そういうからかい方をしないでください」


焔が低く笑う。その笑いに、白妙はわずかに安堵してしまう。尾を失い、影にしかなれないほど弱っているのに、焔は白妙をからかう余裕を手放さない。手放さないのではない。白妙を不安にさせないために、手放さないのだ。


そう気づいて、白妙は胸が苦しくなった。


「また甘いな」


「食べないでください」


「勝手に漏れてくる」


白妙は袖の中で拳を握った。帝は、白妙の隣を歩いている。表向きには、寵妃の願いを聞き入れ、処断を見届けるため北庭へ向かっている形だ。だが帝の足取りは、自分の意思だけではない。時折、首が見えない糸に引かれるように僅かに傾く。


白妙には、それが見える。黒い糸。帝の首の奥に巻きつき、喉を締め、胸を貫き、影へ落ちる。影の先は後宮の地下に広がる呪陣へ繋がっている。昨夜、焔が噛み切った部分はわずかに解けているが、全体から見れば一筋に過ぎない。


この糸が、帝の言葉を奪う。糸は一本ずつ帝の五臓と影へ結ばれている。まとめて断てば、帝の魂まで裂ける。白妙と焔が遠回りをしているのは、力が足りないからではなく、帝を生かしたまま解くには一筋ずつ焼くしかないからだった。


残る糸は四本。白妙は黒い流れを目で数え、どの糸が帝の声を、どの糸が勅命を引いているかを覚えた。今ここで全部は救えなくても、次に切る場所だけは見失わない。勅命を歪める。後宮を葛城の箱庭に変える。


「陛下」


白妙は足を止めた。帝も止まる。宦官と女官たちが数歩後ろで控えた。


「少し、庭の梅を見てもよろしいでしょうか」


帝は怪訝そうに白妙を見る。


「今、梅を?」


「ええ。夜明け前の梅は、嘘を吐きませんもの」


紅玉が袖の中の鏡で小さく笑った。


「悪くないわ。私なら、もう少し嫌味を足すけれど」


帝はしばらく白妙を見ていたが、やがて頷いた。


◆


庭へ降りる。梅はまだ硬い蕾をつけていた。白妙は帝を誘うように、灯籠の前まで歩く。右から三番目の灯明。油が切れやすい場所。火は今にも消えそうに揺れている。白妙はわざと裾を踏んだ。紅玉の身体は、驚くほど優雅に倒れた。


倒れる直前、腕輪が灯籠に当たる。ちりん。音が鳴る。帝が反射的に白妙を支えた。


「紅玉!」


その瞬間、帝の首に巻かれた黒い糸が緩んだ。心配。焦り。愛情。葛城の術は、帝の感情を完全には支配できない。特に紅玉への感情が動いた瞬間、糸に隙ができる。白妙は紅玉の手で帝の胸元を掴んだ。


「失礼します」


小声で呟き、袖の中に隠していた符を帝の襟裏へ滑り込ませる。女官時代、香袋に紛れ込ませていた小さな返し火の符だ。紅玉の身体でも、白妙の術は完全には失われていない。符が黒い糸を焼く。帝が苦しげに息を吐いた。


宦官たちが駆け寄ろうとする。


「来ないで」


白妙は紅玉の声で命じた。誰も動けなくなる。寵妃の命令は、女官の叫びより重い。白妙はその重さに、今さらながらぞっとした。焔の影が地を這い、帝の足元から伸びた黒い糸を噛んだ。ぷつり、と音もなく一本が切れる。


帝の目に、わずかな光が戻った。


「紅玉……いや」


帝は白妙の手首を掴んだ。


「そなたは、紅玉ではないな」


白妙は動けなかった。昨夜と同じ問い。だが今度の帝の目には、恐れよりも祈りがあった。


「名を聞かせてくれ」


紅玉が鏡の中で息を呑む。焔の影も黙った。ここで名乗れば、全てが崩れる。だが名乗らなければ、帝は葛城の糸に戻される。白妙は唇を開いた。


「私は、白――」


最後まで言えなかった。帝の首に残った黒い糸が、突然強く締まった。帝の瞳から光が消える。白妙の手を掴んでいた指が冷たく離れた。帝が、無表情に立ち上がる。その口が、帝の声で、帝ではない言葉を発した。


「処断を急ぐ」


白妙の血の気が引いた。


「陛下」


「寵妃を呪した下女を、北庭にて裁く。陰陽師長・葛城に一任する」


違う。


これは帝の言葉ではない。葛城が糸の向こうから喋らせている。白妙は帝の袖を掴もうとした。だが宦官たちが一斉に間へ入る。彼らの額に札はない。けれど目の奥が薄く濁っている。後宮全体が、見えない糸に少しずつ引かれている。


「白妙」


焔が低く呼んだ。


「今ここで焼くか」


「駄目です。帝ごと焼くことになる」


「なら、間に合わないぞ」


焔の言う通りだった。北庭の方角から、太鼓の音が響いた。一打。処刑ではなく、祓いの開始を告げる太鼓。罪人にされた白妙の身体を、呪物として処分するつもりだ。紅玉の身体のままでは走りにくい。長い裾。重い髪飾り。香りの強い衣。全てが白妙の足を鈍らせる。


白妙は髪飾りを一つ抜いた。金の簪。先端に小さな刃が仕込まれている。


「紅玉様」


鏡の中の紅玉を見た。


「この衣、裂いてもよろしいですか」


紅玉は一瞬目を丸くし、それから美しく笑った。


「高かったのよ」


「すみません」


「でも、走れない寵妃よりは、走る悪女の方がましだわ」


白妙は簪で裾を裂いた。絹が悲鳴のような音を立てる。周囲の女官たちが青ざめた。紅玉が自分で衣を裂くなど、後宮中の噂になるだろう。かまわない。白妙は走り出した。焔の影が足元で伸びる。


「似合っているぞ、寵妃殿」


「今それを言いますか」


「お前は無能の時より、追われている時の方が綺麗だ」


「黙ってください」


息が上がる。北庭が近づくにつれ、呪いの匂いが濃くなった。焦げた髪の匂い。濡れた土の匂い。血ではないが、血に似た鉄の気配。門の手前で、葛城の声が響いた。


「罪人、白妙。寵妃・紅玉様への呪詛、ならびに後宮への怪異招来の咎により、ただちに祓い清める」


白妙は門の陰から北庭を見た。中央の柱に、自分の身体が縛られていた。女官の粗末な衣。黒髪。俯いた顔。間違いなく白妙の身体だ。だが、その身体の周りに漂う気配は、白妙自身のものではない。甘く、腐った花の匂い。


焔が舌打ちした。


「やはり別物だ。魂が薄い。何かの抜け殻を入れている」


「抜け殻?」


「人の執着だけを煮詰めたものだ。器を得れば、人の真似をする」


葛城は白妙の身体の額に札を貼った。


「この無能女官、寵妃を呪った罪で処刑します」


その言葉に、庭の女官たちがざわめいた。処刑。白妙は、自分の身体が殺される場面を、紅玉の目で見ていた。そのとき、縛られていた白妙の身体が、ゆっくりと顔を上げた。白妙の顔で、白妙ではないものが笑う。


そして、口だけを動かした。


――来た。


白妙の背筋に、氷の針が走った。葛城が振り返る。まるで、白妙がそこにいることを最初から知っていたように。


「お待ちしておりました、紅玉様」


彼は穏やかに微笑んだ。


「どうぞ、ご自分の下女に最後の慈悲を」


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