第11話 寵妃の身体で目覚める
【ここまでの入れ替わり】
前話(第10話)の終わり、白妙は花鈿鏡の闇へ落ちました。
・白妙の魂 → 寵妃・紅玉の身体を、一時的に借りている
・紅玉本人の魂 → 鏡の中にいる
この回は「寵妃の身体で目覚めた白妙」から始まります。
紅玉の身体で目を開けた瞬間、白妙は自分が死んだのだと思った。天井が、高い。金糸で縫われた蓮の文様。薄絹の帳。甘すぎる沈香。肌に触れる夜具は、女官部屋の薄い布団とは比べものにならないほど柔らかい。指先を動かすと、絹が水のように滑った。
白妙は息を呑む。自分の手ではなかった。細く、白く、爪の先まで紅に染められた手。腕には金の腕輪。袖口には宝石の粒。女官の荒れた指ではない。何もしなくても人に傅かれる者の手だ。白妙は飛び起きようとして、髪の重さに引かれた。
黒髪ではない。紅みを帯びた、艶やかな長い髪。
「……紅玉様」
自分の口から出た声に、白妙は凍った。声まで違う。鈴を転がすような、しっとりと甘い声。後宮中の女官たちが一度は真似してみて、誰一人似せられなかった寵妃の声。白妙は両手で喉を押さえた。
「いけない。これは、非常に、いけない」
呟きは、紅玉の声でこぼれた。花鈿鏡に吸い込まれたところまでは覚えている。葛城の式紙。紅玉の唇。焔の叫び。それから闇。そして今、白妙は帝の寵妃・紅玉の身体で目覚めている。しかも場所は、おそらく紅玉の寝所ではない。
帳の外に立つ几帳。壁に掛けられた龍の刺繍。御簾の向こうに控える無言の宦官。女官の足音すら遠ざけられた静けさ。ここは、帝の御座所に近い。白妙は頬を引きつらせた。
無能女官の演技ならできる。盆を落とし、茶をこぼし、叱られ、泣き、誰にも警戒されずに呪いを潰す。それは白妙の技術であり、鎧であり、息をすることと同じだった。だが寵妃の演技など、したことがない。
紅玉は歩くだけで人が道を開ける女だ。微笑むだけで妃たちが歯噛みし、帝が息を止める。白妙が演じれば、三歩で偽物だとばれる。
「落ち着いて、白妙」
誰もいないはずの寝所で声がした。白妙は反射的に枕元の簪を掴んだ。鏡台の上の小さな手鏡。その銀の面に、紅玉の姿ではない女が映っていた。凛とした眉、強い瞳、唇に薄い笑み。本物の紅玉だ。
「紅玉様」
「声が高い。私なら、もう少し気怠く言うわ」
「そこですか」
「そこよ。後宮では、声色一つで首が飛ぶ」
白妙は黙った。鏡の中の紅玉は、白妙の焦りを見透かすように微笑む。
「私の体は今、あなたに貸している。完全に移ったわけではないわ。葛城が花鈿鏡を開いたせいで、魂の座が乱れたの。しばらくは、あなたが表に出る」
「しばらく、とは」
「長ければ夜明け。短ければ、あの方が帳を開けるまで」
「あの方」
白妙が聞き返した瞬間、帳の向こうで衣擦れの音がした。誰かがいる。白妙の背筋に冷たい汗が流れた。影が揺れ、帳がゆっくりと開く。現れたのは、若い男だった。
淡い月白の衣をまとい、額には疲労の色を残している。整った顔立ちは人形のように静かで、瞳は深い井戸の底のようだった。帝だ。遠目に一度拝したことはあるが、こんな距離で見るのは初めてだった。白妙は本能的に頭を下げようとした。
だが紅玉の身体は、寵妃の身体だ。帝の前で女官のように平伏すれば、終わる。白妙はぎりぎりで動きを止め、紅玉がいつもするように、ゆっくりと視線だけを上げた。
「……陛下」
自分でも驚くほど、甘い声が出た。帝は寝台の脇に立ち、白妙を見下ろした。その瞳に、愛情はあった。けれど同じくらい、諦めもあった。
「紅玉」
帝は静かに言った。
「今夜こそ、私を殺すのか」
白妙は、息を忘れた。鏡の中の紅玉が、わずかに表情を強ばらせる。帝は白妙の沈黙を拒絶とは受け取らなかった。むしろ慣れているように、苦く微笑む。
「そなたが夜ごと私の影を削っていることは、知っている」
違う。
白妙は叫びそうになった。それは殺すためではない。帝の影に巣食う呪いを、焔が喰っていたのだ。だがそれを今、紅玉の声で説明してよいのか。焔の存在を明かせば、紅玉は妖を招いた罪に問われる。白妙自身も、契約者として捕まる。
後宮では真実ほど扱いにくいものはない。白妙は紅玉の顔で、紅玉らしい嘘を吐かねばならなかった。
「陛下は、殺されたいのですか」
帝の眉が動いた。鏡の中の紅玉が小さく頷く。悪くない、という合図だった。
「殺されたいわけではない」
帝は寝台の端に腰を下ろした。距離が近い。白妙は思わず後ろへ下がりかけ、寸前で堪えた。紅玉なら逃げない。紅玉なら、帝の近さに怯えない。
「ただ、私が生きているせいで、そなたが苦しむなら。後宮が、怪異の餌場になるなら」
帝の手が、自分の喉元に触れた。その仕草を見て、白妙の目が細くなる。喉ではない。首の奥だ。帝の魂に、何かが巻きついている。肉眼では見えない。だが白妙の内側に残った狐火が、それを感じ取った。黒い糸。帝の首から胸へ、胸から影へ、影から床下へ。その先は後宮全体の呪陣に繋がっている。
帝は呪われている。いや、操られている。
「陛下」
白妙は紅玉の手で、そっと帝の袖に触れた。その瞬間、影が揺れた。白妙の背後から、低い笑い声がした。
「随分と大胆だな、無能女官」
白妙は肩を跳ねさせた。帳の影に、金の瞳が浮かんでいた。焔だ。紅玉の身体から離れた彼は、影の中に潜む形で白妙に寄り添っている。完全な姿は取れていない。尾も少ない。だが声だけは、いつものように白妙の鼓膜を撫でた。
「ほ、焔」
「名を呼ぶな。帝に聞こえる」
帝は焔の声に反応していない。どうやら白妙と契約した者にしか聞こえないらしい。焔の影が、白妙の背中にぴたりと重なる。
「紅玉の体で、帝に触れる。お前、案外悪女の才がある」
「黙ってください。状況を見ています」
「見ているだけで、その糸は解けぬぞ」
白妙は唇を噛んだ。帝が怪訝そうに見る。
「紅玉?」
白妙はすぐに微笑んだ。紅玉の顔は、恐ろしいほど微笑みに向いていた。少し唇を上げるだけで、相手の心を縛る力がある。
「陛下、少しだけお許しを」
「何を」
「痛くはしません」
言ってから、白妙は自分の発言に内心で頭を抱えた。紅玉なら言いそうだ。言いそうだが、今の状況では非常に誤解を招く。焔が影の中で喉を鳴らして笑った。
「白妙。今の嘘は動揺の味がした」
「食べないでください」
「食べていない。舐めただけだ」
白妙は無視した。紅玉の長い袖を滑らせ、帝の喉元へ手を伸ばす。触れる寸前、黒い糸が蛇のように跳ねた。糸は白妙の指に絡みつこうとする。白妙はわざと手を滑らせた。紅玉の腕輪が寝台の縁に当たり、澄んだ音を立てる。
ちりん。音の波が黒い糸を一瞬だけ緩ませた。鈴の音。千世の耳を封じたかもしれない音に似ていた。白妙の胸がきしむ。その隙に、焔の影が帝の足元へ伸びた。黒い糸の一部を噛み切る。帝が小さく息を吐いた。
「今、何をした」
「おまじないです」
「紅玉は、そのような言い方をしない」
帝の声が、急に低くなった。白妙の心臓が止まりかける。鏡の中の紅玉が、舌打ちした。帝は白妙の手首を掴んだ。力は強くない。だが逃がさない意思がある。
「そなたは誰だ」
白妙は口を開いた。言い訳はいくつも浮かぶ。体調が悪い。悪夢を見た。葛城の香に当てられた。どれも紅玉なら言い抜けられる。しかし帝の瞳は、嘘を待っていなかった。この人は、真実を恐れながら、真実だけを求めている。
白妙は小さく息を吸った。
「私は」
そのとき、外から慌ただしい足音が近づいた。
「陛下! 葛城様より急報にございます!」
宦官の声が響く。帝の手が離れた。白妙は帳の向こうに目を向ける。嫌な予感がした。焔の影も鋭く尖る。宦官が御簾の向こうで平伏し、震える声で告げた。
「紅玉様付きの下女、白妙が、寵妃様を呪詛した疑いにて捕縛されました」
白妙は、自分の身体が捕まったことを理解した。宦官は続ける。
「明朝、後宮北庭にて処断の沙汰を賜りたく、葛城様が陛下の御許可を求めておられます」
白妙の視界が、真っ白になった。自分は今、紅玉の身体の中にいる。本来の白妙の身体には、誰が入っている?捕らえられた身体は、何を喋った?葛城は何を仕組んだ?焔の声が、耳元で低く響いた。
「白妙。お前の体から、別の嘘の匂いがする」
帝が、白妙を見た。
「紅玉。そなたは、何を隠している」
鏡の中の紅玉が、静かに言った。
「白妙。ここからは、寵妃の顔で戦いなさい」
白妙は紅玉の唇で笑った。無能女官の笑みではない。後宮で最も愛され、最も憎まれた女の笑みだった。
「陛下」
白妙は帝に向かって、ゆっくりと首を傾げた。
「その処断、私にも見届けさせてくださいませ」
帝の表情が凍る。焔が影の中で笑った。そして白妙は知った。自分の処刑を止めるには、まず自分を殺そうとする寵妃を演じなければならないのだと。




