第10話 無能女官、初めて命令する
焔の尾が一本、白い灰になって崩れた。狐火は音もなく消え、寝殿の奥に甘い香だけが濃く残る。白妙の膝の上で、紅玉の姿をした焔は目を伏せていた。乱れた黒髪。薄く開いた金の瞳。口元だけは、いつものように意地悪く笑っている。
「その顔だ」
焔はかすれた声で囁いた。
「やっと、私を失うのが怖くなったか」
「黙ってください。喋ると傷が広がります」
「狐に医者の真似か。無能女官にしては手際がいい」
白妙は返事をしなかった。返事をすれば声が震える。震えれば嘘になる。嘘を吐けば、焔に味わわれる。それが嫌なのではない。今の焔が、それを食べる力さえ残していないと認めるのが怖かった。
床に刻まれた黒蓮の陣はまだ燻っている。帝の魂替えを止めるため、焔は自分の尾を焼き切った。九尾にとって尾は命だ。一本失えば、百年分の妖力が剥がれ落ちる。
「白妙」
焔の指が、白妙の袖を掴んだ。
「逃げろ」
命令のあとに、短い沈黙が落ちた。白妙は焔の呼吸を数えた。三つに一つ、浅い。いつもなら相手の弱みを笑う妖が、自分の弱り方だけは白妙に数えさせまいとしていた。たった三文字が、胸を冷たく切った。
「……嫌です」
「いい子ぶるな。お前は、生き延びるためなら盆も落とす。茶もこぼす。泣く真似もする。無能の皮を被って、誰にも捕まらずに逃げる。それがお前だ」
その通りだった。白妙は逃げるために生きてきた。力から逃げた。家名から逃げた。妹の五感を奪った夜から逃げた。誰かに必要とされることからも、誰かを必要とすることからも逃げた。なのに、足が動かない。
「あなたは、私の嘘を食べるのでしょう」
「ああ」
「なら、勝手に消えられたら困ります。私はまだ、あなたに吐く嘘を山ほど残しています」
白妙は焔の冷えた指を両手で包んだ。紅玉の身体であることも、妖の手であることも、その瞬間だけは脇へ置いた。触れたものを道具の名で呼ぶのは葛城のやり方だ。白妙は、ここにいる者を焔として離さなかった。
焔が薄く笑う。
「今のは嘘か」
「嘘です」
「まずい嘘だ」
焔の指が白妙の首筋に触れた。契約痕が熱を帯び、赤い狐火の紋が鎖骨へ流れる。いつもなら、焔が白妙の感情を吸い上げる。だが今は逆だった。尾を失った痛み。それでも笑っている意地。そして、白妙だけは逃がそうとする、どうしようもない傲慢な優しさ。
焔の感情が、白妙の胸へ染み込んでくる。嘘ではなかった。廊の向こうで、鈴の音がした。ちりん。
「感動的ですね」
障子の外から声がした。白妙は瞬時に涙を引っ込めた。膝の上の焔を抱き起こす手つきは、慌てた女官のものに変わる。肩を縮め、背を丸め、目線を床へ落とす。無能の皮が、肌に貼りつく。障子が開いた。陰陽師長・葛城が立っていた。白い狩衣。墨色の袴。朝廷の誰もが信じる、正しい者の微笑。
彼の背後には、黒い札を額に貼られた護衛たちが控えている。
「紅玉様が倒れ、下女がそのお体に触れている。しかも九尾の気配が濃い。説明が必要ですね」
「わ、わたしは、その、紅玉様がお倒れになって、それで、医官を……」
白妙は噛みながら言った。いつもの白妙なら、ここで盆を落とす。泣く。謝る。相手を苛立たせ、場の主導権を渡したように見せる。だが葛城は笑わなかった。
「お上手です」
その一言で、白妙の背筋が冷えた。
「あなたの無能は実に美しい。香炉を倒す角度も、茶をこぼす位置も、妃の裾を踏む間合いも。偶然にしては整いすぎている」
護衛たちが左右に開く。葛城の手には、黒い骨でできた長い釘があった。表面にびっしりと呪文が刻まれている。封妖釘。妖の尾を地に縫いつける禁具。白妙は焔を庇うように身を乗り出した。その動きを見て、葛城が満足げに目を細める。
「やはり。あなたは、この九尾を守るのですね」
「違います。わたしは、ただ……」
「まだ嘘を?」
葛城が一歩近づく。
「白家の長女、白妙。あなたは妹君の五感を奪った罪を抱き、誰からも価値を見出されぬよう無能を演じている。実に都合がいい。国のために使うには、罪悪感の強い者ほど扱いやすい」
白妙の喉が詰まった。焔が身じろぎする。白妙の袖を掴む手に、わずかな力が戻った。
「聞くな」
「聞きます」
葛城が封妖釘を掲げる。釘の先から黒い蓮の蔓が伸び、床を這った。それは焔の足元へ向かい、消えかけの尾の跡に絡みつく。
「九尾は危険です。人を惑わし、国を傾け、愛などという不確かな感情で秩序を壊す。だから飼う。飼えぬなら殺す。これは悪ではありません。管理です」
「管理……」
「あなたにも分かるはずだ。力は野放しにしてはいけない。あなたが妹君を壊したように」
その言葉が、刃になって刺さった。幼い千世の顔が脳裏をよぎる。姉様、と呼ぶ口。音を失った耳。光を失った目。葛城の言うことは、正しいのかもしれない。力は怖い。暴走する。誰かを壊す。白妙が無能を演じてきたのは、その証だ。
なら、ここで逃げるべきだ。焔を置いて逃げれば、白妙はまだ無能女官に戻れる。葛城は焔を封じ、後宮は表面上の平穏を取り戻す。その方が安全だ。その方が、白妙らしい。
「白妙」
焔が呼んだ。紅玉の唇で、焔の声が白妙の名を紡ぐ。
「命令する。逃げろ」
白妙は焔を見下ろした。いつも白妙の嘘を暴き、舌先で弄び、楽しそうに笑っていた狐が、初めて本気で白妙を遠ざけようとしている。その顔が、腹立たしかった。勝手に見つけたくせに。勝手に暴いたくせに。
勝手に契約して、勝手に心の奥まで踏み込んできたくせに。最後だけ、白妙のいないところで消えるつもりなのか。
「嫌です」
声は震えなかった。白妙は立ち上がった。封印していた力が、足元からせり上がる。白い狐火が畳の目を走り、黒蓮の蔓を焼いた。空気が裂け、廊の灯明が青白く揺れる。
「白妙様」
葛城が、初めて名に敬称をつけた。
「それ以上は、あなたが怪異になります」
「知っています」
白妙は髪を結っていた紐を外した。黒髪が肩に落ちる。頭の上に、白い耳が生えた。腰の後ろから、一本の白い尾が揺れる。焔の尾よりずっと小さく、頼りなく、それでも確かに妖の気を帯びていた。護衛たちがざわめいた。
無能女官が、消えた。
「消えないで」
白妙は焔へ振り返った。
「焔。命令よ」
契約痕が燃え上がる。これまで白妙が嘘を吐くたび、焔が感情を喰らっていた。だが今、流れが逆転した。白妙の命令が狐火の鎖となり、焔の魂へ食い込む。消えかけていた焔の輪郭が、白妙の火で縫い止められる。
焔が目を見開いた。
「お前……」
「私を見つけた責任を取りなさい。私の嘘を食べ尽くすまで、勝手に消えることは許しません」
葛城が封妖釘を投げた。白妙は盆を落とすような軽さで、袖を払う。白い狐火が咲いた。釘は空中で灰になり、黒蓮の陣が根から燃える。護衛たちの額の札も焼き切れ、正気に戻った彼らはその場に膝をついた。
葛城だけが、笑っていた。
「素晴らしい。やはりあなたは、鍵にふさわしい」
「黙れ」
焔の声だった。白妙の背後から、紅玉の姿をした焔がゆっくりと立ち上がる。失った尾の跡は痛々しい。それでも金の瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。焔は白妙の肩越しに葛城を見て、唇を吊り上げる。
「惜しかったな、陰陽師。私は今、飼われた」
「焔」
「ただし、お前にではない」
焔の影が広がった。葛城の足元を呑み込む寸前、彼の姿が紙片に変わる。式神だった。燃え残った紙には、細い字で一文だけが書かれていた。
――花鈿鏡を開け。
白妙がその文字を読んだ瞬間、胸の契約痕が激しく熱を持った。焔が白妙の手首を掴む。
「まずい。紅玉の魂が揺らいでいる」
「紅玉様が?」
「葛城は、契約反転まで読んでいた。次の器を開く気だ」
視界が傾く。足元から畳が消え、紅玉の寝所にあったはずの花鈿鏡が、闇の中で大きく開く。鏡面に、紅い唇をした女が映った。紅玉だ。その唇が、白妙に向かって動く。
「ごめんなさい。少し、私の体を貸して」
「え?」
聞き返す前に、紅い光が溢れた。最後に見えたのは、焔の金の瞳だった。怒っているような、焦っているような、ひどく人間らしい瞳。
「白妙!」
呼ばれた名が遠ざかる。白妙は闇の底へ落ちた。そして、落ちながら聞いた。焔が低く笑う声を。
「今の一言で、私はお前から逃げられなくなった」




