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第9話 焔の尾が、一本消える

「九尾の匂いがしますね」


葛城の指先は、白妙の首筋に触れる寸前で止まっていた。あと一寸。そこに触れられれば、衣の下に隠した契約痕の熱が暴かれる。白妙は震えた。演技ではない。本当に怖かった。その恐怖を、焔が味わっているのが分かる。胸の奥で狐火がぴりりと疼いた。だが、いつものような愉快げな気配はなかった。


焔もまた、警戒している。


「葛城」


紅玉の体をした焔が、低く名を呼んだ。


「私の前で、私の女官に無礼を働く気?」


葛城は指を引いた。


「まさか。ただ、昨夜の魂替えの残り香がないか確かめただけです」


「確かめるなら、私に断ってからになさい」


「承知しました」


葛城は穏やかに頭を下げる。だが白妙には分かった。彼は退いたのではない。印をつけたのだ。疑いという名の、見えない札を。その直後、帝の殿舎から太鼓が鳴った。一つ。二つ。三つ。夜半の異変ではない。昼日中に三度鳴るのは、帝の身に急変があった時だけだ。


紅玉の鏡が、白妙の袖の中で震えた。


『陛下……!』


鏡の中の紅玉の声が、白妙にだけ届く。焔は扇を閉じた。


「行くぞ」


「紅玉様として、ですか」


「他に何で行く」


「私は」


「お前はいつも通り、無能でいろ」


焔の瞳が一瞬だけ白妙を見た。


「まだ剥ぐな。化けの皮は、使えるうちに使え」


白妙は頷いた。帝の殿舎は、異様な静けさに包まれていた。侍医たちが廊下に膝をつき、女官たちは顔を伏せて震えている。帳の奥から聞こえる帝の呼吸は浅く、時折、別人の声が混じった。


「……葛城を、呼べ」


帝の声。だが言葉の響きは、帝のものではない。まるで、誰かが帝の喉を借りて喋っている。白妙は香箱を抱え、紅玉の後ろに控えた。無能女官として、何も分からない顔をする。その実、足元の術線を目で追っていた。


帝の寝台から、黒い糸が五本伸びている。天井の梁へ、床下へ、屏風の裏へ、そして部屋の中央に置かれた黒塗りの箱へ。御影箱。帝の影を一時的に納めるための祭具だ。だが今、それは魂を吸う箱になっている。


葛城はすでに帝の枕元にいた。いつ入ったのか分からないほど自然に、そこに立っていた。


「紅玉様。お下がりください」


「陛下に何をしたの」


焔は紅玉の声で問う。葛城は悲しげに目を伏せた。


「怪異の影が、陛下を蝕んでおります。私が取り除いているところです」


「嘘ね」


「なぜそう思われます」


「私が、陛下の顔を見ているから」


鏡の中で紅玉が息を呑んだ気配がした。焔の台詞は、焔のものではない。鏡越しに紅玉が言わせたのだ。帝の指が、ぴくりと動く。それだけで、紅玉の感情が鏡から溢れた。愛しさ。恐怖。後悔。帝を守るために妖を招いた女の、切実な嘘。


白妙の胸が痛んだ。葛城は笑った。


「ならば、紅玉様にもご覧いただきましょう。怪異を放置した末路を」


彼が指を鳴らした瞬間、御影箱が開いた。中から黒い影が溢れる。それは帝の影でありながら、形が違った。首に紐を巻かれ、手足を折り畳まれ、箱に収まるよう小さく畳まれた人の形。白妙は吐き気をこらえた。


帝の魂が、少しずつ影へ移されている。このまま箱が閉じれば、帝の体には別のものを入れられる。式か、怪異か、あるいは葛城の都合のいい器。止めなければ。だが返し火を使えば正体が露見する。白妙は香箱を握りしめた。


無能女官として止める。それしかない。


「あっ」


白妙は足をもつれさせた。香箱が手から滑る。箱は床に落ち、香木の欠片が散らばった。欠片は偶然を装って黒い糸の一本に触れる。白妙が袖で慌ててかき集めるふりをすると、袖口に仕込んでいた小さな浄塩が落ちた。


糸が一本、弾ける。帝が大きく息を吸った。


「何をしている!」


侍医が叫ぶ。白妙は青ざめて平伏した。


「も、申し訳ございません! 手が、手が滑って……!」


周囲は白妙の失態に気を取られる。だが葛城だけは、白妙を見ていた。


「また、ですか」


静かな声だった。


「あなたは本当に、よく転ぶ」


葛城が札を投げた。白い札は床ではなく、空中で裂けた。そこから金色の針が無数に生まれ、紅玉の体――焔を囲む。狐檻。九尾を縛るためだけの結界。焔の表情が変わる。初めて、痛みに近いものが浮かんだ。


「焔!」


白妙は思わず名を呼びかけ、慌てて唇を噛んだ。しかし遅かった。葛城の目が細くなる。


「ほう」


針が焔の影に刺さった。紅玉の体の背後で、九つの尾の影が現れる。その一本が針に絡め取られ、ぎちりと音を立てた。焔は笑った。


「人間の針で、私を縫えると思うか」


「縫うだけなら十分です」


葛城は淡々と言う。


「尾を一本動かせぬ狐は、次の一本を失う。その次も、その次も。怪異は削れば従う」


白妙の中で、何かが冷たく燃えた。葛城はやはり、同じことを考えている。怖いものは縛る。危ないものは削る。役に立つ形になるまで壊す。それは、白妙が自分自身にしてきたことと似ていた。似ているからこそ、許せなかった。


御影箱がさらに開く。帝の影が箱へ引きずられていく。白妙がもう一本糸を切ろうとした瞬間、葛城の結界が床を覆った。白妙の足が止まる。このままでは届かない。焔が白妙を見た。笑っていた。やめろ、と白妙は目で言った。


焔は聞かなかった。


「白妙」


その名は、白妙にしか聞こえないほど小さかった。


「よく見ていろ」


九つの尾のうち、針に絡め取られた一本が燃え上がった。狐火ではない。尾そのものが、命として燃えていた。焔は自分の尾を、自分で焼き切った。九尾の尾は飾りではない。一本ごとに百年分の記憶と妖力を蓄え、失えば同じ尾は二度と戻らない。焔は白妙が動ける一呼吸を買うために、その百年を燃やした。


消えた尾の痛みが契約を通じて白妙の背へ走った。火傷ではない。積み重ねた季節を一度に失う、空洞の痛みだった。白妙はその空白を忘れまいと、床へついた手に力を込めた。金色の炎が爆ぜ、狐檻の一角が崩れる。


同時に、白妙の胸の契約痕が焼けた。


「っ……!」


声を殺した白妙の目に、涙が滲む。


痛い。


これは焔の痛みだ。白妙は初めて、九尾の尾がどれほど重いものなのかを知った。一本の尾に、歳月があり、力があり、記憶があり、誇りがあった。それが、白妙を動かすためだけに消えた。結界の隙間が開く。


白妙は転んだ。これまでで一番無様に、誰が見てもただの失敗にしか見えないほど派手に。だが落ちた手のひらは、正確に黒い糸の交点を押さえた。返し火を、ほんの一雫だけ流す。白い狐耳が髪の下で一瞬だけ震えた。すぐに消える。尾も出ない。火も見えない。


それでも術線は燃えた。御影箱が閉じ、帝の影が寝台の下へ戻る。帝が咳き込んだ。


「……紅玉」


本物の声だった。鏡の中の紅玉が泣きそうに息をつく。葛城は白妙を見ていた。怒りではない。喜びでもない。観察する目だった。


「なるほど」


白妙は床に額を擦りつけた。


「も、申し訳ございません。陛下の御前で、このような」


「よい」


帝のかすれた声がした。


「その女官を、責めるな」


誰も逆らえなかった。葛城でさえ、その場では頭を下げるしかなかった。


◆


騒ぎが収まった後、白妙は紅玉の寝所へ戻った。焔は榻に腰掛ける前に膝をついた。紅玉の美しい体から力が抜け、白妙の膝に頭が落ちる。


「焔」


白妙は思わず支えた。いつもなら、触れられるのを嫌がったはずだった。紅玉の体であっても、中にいるのは人を喰う九尾だ。近づけば食われる。そう思っていた。なのに今は、離せなかった。背後の影に広がる尾は、八本しかない。


一本、消えている。白妙の指が震えた。


「なぜ、あんなことを」


「必要だった」


「尾でしょう。九尾にとって、命のようなものでしょう」


「そうだな」


「なら、なぜ」


焔は白妙の膝の上で、薄く目を開けた。金の瞳が、いつもより弱い光で白妙を映す。


「その顔だ」


「何を」


「やっと、私を失うのが怖くなったか」


白妙は否定しようとした。


違う。


怖くない。九尾など、どうなってもいい。そう言えば、きっと焔は美味そうに笑う。けれど言えなかった。嘘にすらできなかった。焔の指が、白妙の胸元の契約痕に触れる。衣越しなのに、心臓を直接撫でられたように熱い。


焔は満足げに笑った。


「よい味だ、白妙」


その声は掠れていた。白妙が息を呑んだ次の瞬間、焔の影に黒い札が浮かび上がる。葛城の札。消えた尾の断面から入り込んだ、封じの呪だった。焔の体が、白妙の膝の上で急速に冷えていく。


「焔?」


返事はない。胸の契約痕が、悲鳴のように燃えた。


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