第8話 陰陽師長は、正しい顔で人を壊す
戻った翌朝、白妙はまた盆を落とした。乾いた音が廊下に響き、湯呑みがころころと転がる。湯は妃の裾すれすれを流れ、廊下の端に置かれていた香炉の灰を濡らした。
「白妙! またあなたなの!」
先輩女官の叱責が飛ぶ。白妙は床に額がつきそうなほど頭を下げた。
「も、申し訳ございません。手が滑りまして」
「あなたの手は一日に何度滑れば気が済むの!」
「数えたことがなく……」
「数えなさい!」
周囲の女官たちが笑った。白妙も困った顔で笑う。胸の奥では、契約痕が脈打っていた。昨夜、魂を戻すために一度死なせた体は、まだ冷たさを覚えている。息を吸うたび、心臓のすぐ近くで焔の火が揺れた。痛みではない。熱でもない。ただ、そこに誰かがいるという、逃げ場のない感覚だった。
白妙は濡れた灰を袖で拭うふりをしながら、床に隠れていた黒い線を見た。やはり。廊下の下に、魂を引くための細い術線が走っている。昨夜の花換えの宴で使われたものと同じ系統だ。今朝の盆を落とした場所は偶然ではない。湯で灰を流し、灰で術線を塞いだ。
これで少なくとも、ここの妃たちの魂は今日一日ずれずに済む。白妙は叱られながら、胸の内で数えた。今日、五人。五人、壊れずに済んだ。
「白妙」
名を呼ばれた。叱責ではない。穏やかで、よく通る声。白妙は顔を上げる。廊下の向こうに、白い狩衣の男が立っていた。後宮陰陽師長、葛城。白妙の背に、昨夜の記憶が蘇る。鏡の中で紅玉が告げた、帝の魂替え。千世の鈴。幼い記憶の奥に映った、不自然な白い手。
あれは、この男の手だったのではないか。だが白妙は、いつものように目を泳がせた。
「か、葛城様。何か、私に御用でございますか」
「昨夜は大変でしたね。花換えの宴で魂を乱された者が多い。あなたも、少し顔色が悪いようだ」
「わ、私は何も。少し眠れなかっただけで」
「では診ましょう」
葛城は歩み寄り、白妙の手首を取ろうとした。白妙は反射的に一歩下がりそうになる。だが、それでは無能女官らしくない。怖いものを怖がるだけの女官なら、逃げるより先に固まる。だから白妙は、固まった。
葛城の指が手首に触れる。冷たい。皮膚の下で、契約痕がぴりりと疼いた。白妙は喉まで出かかった息を呑み込む。ここで反応すれば見抜かれる。焔の気配を隠さなければならない。葛城は目を細めた。
「脈が速い」
「き、緊張しておりまして」
「私が怖いですか」
「陰陽師様は、少し」
「正直でよろしい」
その笑顔は優しかった。優しいからこそ、白妙はぞっとした。葛城は人を壊す時、きっとこの顔をする。
「昨夜の魂替えは、怪異によるものです」
葛城は周囲の女官たちにも聞こえる声で言った。
「皆、安心しなさい。怪異は人の弱さにつけ込む。ゆえに、我らが正しく管理しなければならない」
「管理、ですか」
白妙は思わず聞き返した。葛城の視線が白妙に戻る。
「ええ。怪異を野放しにすれば、人は死ぬ。ならば檻に入れ、名を縛り、役目を与える。犬が人を守るように、狐も鬼も使役すればよい」
「私は十五の時、名もない怪異に母を奪われました。泣いて呼び戻そうとした者から死んだ。最後に村を救ったのは、情ではなく封印です。以来、善意より仕組みを信じています」
葛城の声は一度も揺れなかった。白妙は、その過去が本当なら同情できると思った。同時に、同じ傷を持つからこそ、この男に自分たちの選択を預けてはいけないとも思った。痛みは理由にはなる。だが、他人を道具にする許しにはならない。
周囲の女官たちは感心したように頷いている。正しい言葉だった。人を守るという形をしていた。だから、恐ろしい。白妙は幼い頃の自分を思い出す。力が怖かった。暴走が怖かった。妹を傷つけたと思い込んで、二度と力を使わないと誓った。
力は檻に入れるべきだ。葛城の言葉は、白妙の罪悪感とよく似た場所を刺してくる。
「白妙?」
葛城が覗き込んだ。白妙は慌てて頭を下げる。
「す、すみません。難しいお話で、少しぼうっとしてしまいました」
「そうでしょう。あなたには難しい」
笑われた。いつもなら、白妙はそこに隠れる。無能を笑う声は、安全な幕だ。誰も幕の内側を見ようとしない。けれど今は、その幕のすぐ裏側に葛城の指が伸びてきている気がした。その日の昼、帝の殿舎から呼び出しがあった。
理由は、紅玉への香の届け物。もちろん表向きの理由だ。実際には、鏡の中の紅玉が白妙に合図を送ったのである。小さな手鏡を袖に隠し、白妙は紅玉の殿舎へ向かった。寝所の奥で、紅玉の体をした焔は退屈そうに肘をついていた。
「遅い」
榻の脇には、一口だけ齧られた胡麻饅頭が三つ並んでいた。どれも餡のところだけが消えている。白妙が無言で見ると、焔は『皮は味が薄い』と言い訳した。紅玉の身体で食べ物を粗末にしないでください、と叱れたことが、その日初めての息継ぎになった。
「葛城様に捕まっていました」
「触られたのか」
「手首だけです」
焔の金の瞳が細くなる。
「その手首、洗え」
「そういう問題ではありません」
白妙が言うと、手鏡の中から紅玉がため息をついた。
「二人とも、戯れている場合ではないわ」
「戯れていません」
「私は戯れてもよいが」
「黙ってください」
紅玉は鏡の中で、疲れたように微笑む。
「帝の言葉が、昨夜から時折変わるの。声は陛下のものなのに、言っていることが陛下ではない」
「魂替えの前兆ですか」
「ええ。けれど完全には移っていない。首に見えない紐を巻かれて、少しずつ引かれている状態よ」
帝の魂は、都を覆う結界の印でもある。帝の身体を奪えば、葛城は勅命だけでなく、都の結界そのものへ命令できる。紅玉が恐れていたのは、一人の死ではなく、国中が一つの檻になることだった。白妙は袖の中で指を握った。
「葛城が?」
「おそらく」
焔が嗤う。
「人間は面白いな。帝まで飼おうとするとは」
紅玉は鏡の中から焔を睨んだ。
「あなたに人間を笑う資格はないわ。あなたも私の体を使っている」
「お前が招いた」
「ええ。だから責任を取る」
白妙は二人の間にある奇妙な緊張を見た。紅玉は焔を憎んでいる。だが、殺したいだけではない。焔も紅玉を器として扱っているくせに、彼女の声だけは邪険にしない。この二人にも、まだ見えていない事情がある。
白妙が考え込んだ時、殿舎の外から宦官の声が響いた。
「紅玉様。葛城様がお見えです」
空気が変わった。焔は紅玉の顔でゆっくり笑う。
「通せ」
「焔」
白妙は小声で咎めた。
「逃げてはつまらん」
「つまらないかどうかで判断しないでください」
「お前の怯える味が濃くなる」
「最低です」
「知っている」
葛城が入ってきた。彼は紅玉に礼を取り、次に白妙を見た。
「またあなたですか、白妙」
「も、申し訳ございません。香をお届けに」
「よく転ぶ女官に、寵妃様の香を持たせるとは不用心ですね」
白妙は縮こまる。その足元で、白い粉がわずかに光っていた。狐縛りの塩。葛城は、白妙の通る場所にそれを撒いていた。九尾の契約を持つ者が踏めば、火傷のように印が浮く。白妙は気づかないふりをして進む。
そして、予定通り転んだ。
「あっ」
手にした香壺が宙を舞う。蓋が外れ、香の粉が塩の上にこぼれた。香は湿り気を帯び、狐縛りの力を鈍らせる。白妙は床にへたり込み、涙目で頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
葛城は黙っていた。長い沈黙だった。白妙は額を伏せたまま、背中に視線を感じる。やがて葛城が言った。
「運がいいですね」
「はい?」
「転ぶたびに、都合よく悪いものを避ける」
白妙の心臓が、焔の火ごと跳ねた。焔が紅玉の姿で扇を開く。
「葛城。私の女官を怖がらせないで」
「失礼しました。紅玉様」
葛城は微笑んで白妙に近づいた。逃げられない。彼の指が、白妙の襟元に伸びる。契約痕は衣で隠してある。だが、魂の匂いまでは隠せない。葛城の指先が、白妙の首筋すれすれで止まった。
「妙ですね」
焔の笑みが消える。白妙は息を止めた。葛城は、正しい人の顔で囁いた。
「九尾の匂いがしますね」




