第7話 戻った身体に、逃げられない印
「お前の体を取り戻すには、一度その体を殺すしかない」
焔の言葉は、寝所の空気を凍らせた。藍の体に閉じ込められた白妙は、喉の奥からかすれた息を漏らす。自分の喉ではない。自分の声ではない。けれど、そこからこぼれた怒りだけは、まぎれもなく白妙のものだった。
「……殺す、ですって」
「言い方が悪かったか」
「最悪です」
「なら、丁寧に言おう」
焔は紅玉の美しい顔で、ひどく残酷に微笑んだ。
「お前の器に結びついた“白妙”という名を、一度だけ死なせる。鼓動を止め、名の糸を断ち、入り込んだ式を追い出す。お前の魂が戻るより先に器が冷え切れば、お前は本当に死ぬ」
「やっぱり最悪ではありませんか」
「だから急ぐ」
焔が視線を上げる。几帳の外、遠い離宮の方角で、細い鈴の音が鳴った。白妙の背が粟立つ。千世の鈴だ。妹の眠る離宮には、白妙しか入れない結界が張ってある。正確には、白妙の血と名にだけ反応する。ならば今、あの場所へ向かっている“白妙の体”は、何の妨げもなく妹の寝所へ入れる。
「行きます」
白妙は榻から降りようとした。だが藍の体は弱り切っていて、足が床に触れた瞬間、膝が崩れた。倒れる前に、焔の腕が腰をさらう。
「その体で走るな。壊れる」
「壊れている場合ではありません。千世が」
「分かっている」
焔の声が低くなる。
「お前の妹に触れられるのは気に入らん」
それは慰めではなかった。所有欲に近い、牙の見える声だった。なのに白妙の胸は、ほんの一瞬だけ熱を帯びた。こんな時にまで、何を感じているのだと自分を叱る。その小さな揺らぎを、焔は見逃さなかった。
「今の嘘も甘いな」
「味わっている暇があるなら運んでください」
「命令か?」
「取引です」
「よろしい」
焔は笑い、白妙を抱えたまま寝所の障子を開けた。夜の後宮に、白い霧が流れている。花換えの宴で入れ替わった魂の名残だ。妃の声で泣く女官、女官の顔で笑う宦官、猫の瞳で人の言葉を話す侍女。廊下の影には、あちらこちらで名を失ったものたちがうずくまっていた。
白妙は歯を食いしばる。後宮が壊れかけている。葛城は、この混乱を最初から狙っていたのか。離宮へ近づくにつれ、鈴の音ははっきりしていった。ちりん。ちりん。それは、幼い頃の千世が遊び疲れて眠る前に鳴らしていた音と同じだった。目を閉じても笑っている妹。白妙の袖をつかみ、「姉様の火は綺麗」と言った妹。
次の瞬間、記憶の中の千世の顔が、血の気のない眠り顔に変わる。白妙は吐き気をこらえた。離宮の戸は、開いていた。寝所の奥、薄絹の帳の向こうで、白妙の体が千世の頬に触れていた。自分の顔。自分の手。自分の黒髪。
けれど、その立ち姿は白妙ではなかった。背筋が伸びすぎている。指の角度が美しすぎる。何より、無能女官なら絶対にしないほど、隙がなかった。白妙は思わず呟く。
「下手……」
焔が薄く笑う。
「何がだ」
「私のフリが、下手です」
白妙の体がゆっくり振り返った。その瞳の奥で、薄い鈴の影が揺れている。
「姉様」
白妙の声で、式が言った。
「この耳、返して」
胸の奥を、古傷ごとえぐられた気がした。藍の体は震えた。けれど白妙の思考は、冷たく沈んでいく。泣くのは後だ。壊れるのも後だ。今するべきことは、妹に触れている自分の体を取り戻すこと。白妙は焔の腕から降りた。
「一度、離れてください」
「立てるのか」
「立てないなら、転びます」
白妙はぎこちなく一歩踏み出した。案の定、藍の足がもつれる。床に置かれていた水差しに足先が当たり、派手な音を立てて倒れた。水が床を走る。式の足元へ、まっすぐに。白妙の体が半歩下がる。その動きに、白妙は笑った。
「私なら、そこで下がらない」
水に溶かしておいた塩は、離宮の結界を一時的に歪める。倒した水差しは偶然ではない。藍の体で使える力は少ない。だからこそ、白妙はいつも通り失敗した。無能女官として。式の足元に、銀の輪が生まれた。
白妙はさらに転ぶ。袖で燭台を引っかけ、火が畳へ落ちる。普通なら火事になる。だが火は畳を焼かず、床下に隠された名縛りの糸だけを燃やした。焔が低く口笛を吹く。
「器が変わっても、転び方は見事だな」
「褒めないでください。腹が立ちます」
「それも嘘だ」
白妙の体に入った式が、初めて顔を歪めた。
「返して」
その声は千世に似ていた。似すぎていた。
「私の耳。私の音。私の姉様」
「違う」
白妙は息を吸った。
「あなたは千世じゃない」
式が、白妙の顔で泣きそうに笑う。
「ひどい。姉様は、私から全部奪ったのに」
胸が裂ける。それでも白妙は、首を横に振った。
「千世は、そんな言い方をしない」
焔が白妙の体へ近づいた。紅玉の手が、白妙の胸元に触れる。自分の体なのに、遠い人形のように見えた。
「始めるぞ」
白妙は頷く。怖くない、と言えば嘘になる。自分の体が死ぬのを見ることが、怖くないはずがない。だから白妙は、正直に言った。
「怖いです」
焔の金の瞳が、ほんのわずかに揺れた。
「……今の本音は、味がしないな」
「美味しくありませんか」
「腹立たしい」
焔の指先に狐火が灯る。
「戻ってこい、白妙」
その声が、命令ではなく祈りに聞こえた瞬間。焔は、白妙の体の心臓へ狐火を沈めた。体が崩れ落ちる。白妙は叫んだつもりだった。けれど藍の喉からは声が出なかった。世界が反転する。水の音。鈴の音。火の匂い。千世の眠る気配。焔の焦げるような感情。
白妙という名が、一度ほどける。何も聞こえない場所に落ちる寸前、細い声がした。
――姉様、落ちないで。
白妙はその声に手を伸ばした。次の瞬間、胸が焼けた。
「っ、あ……!」
白妙は自分の喉で息を吸った。冷たい床に倒れている。指先が動く。髪が頬に張りつく。心臓が、遅れて思い出したように打ち始める。
生きている。
戻った。
白妙は震える手で胸元を押さえた。そこに、赤い狐火の印があった。首筋から鎖骨にかけて刻まれていた契約痕が、今は胸の奥まで根を張っている。皮膚の下で、焔の火が心臓を抱いているようだった。
「何、これ」
焔は膝をつき、白妙の顔を覗き込んだ。
「代償だな」
白妙は胸へ耳を当てるように息を止めた。自分の鼓動の下に、もう一つ、遅い火の脈がある。焔の気配だった。拘束は怖い。けれど、誰かが痛めば分かる距離にいることを、初めて安堵とも感じてしまった。
「軽く言わないでください」
「軽くない。お前が死ねば、私も痛む。私が消えれば、お前の封印は崩れる」
白妙は息を止めた。
「……逃げられない、ということですか」
焔は笑った。
「ようやく理解したか」
床の上では、藍の体が浅く息をしていた。魂はまだ戻り切っていないが、死んではいない。白妙は安堵しかけた。藍の魂は花換えの鈴網のどこかに繋がれている。身体を守れたからといって、藍を救えたわけではない。白妙はその借りを忘れないと決めた。
白妙は自分の袖を裂き、藍の手首の焼け跡へ巻いた。『勝手に使って、ごめんなさい』。返事はない。それでも言葉を置いた。焔は何も笑わず、影の尾で藍の身体を冷たい床から榻へ移した。二人とも、救えていない命を救えたことにしなかった。
そのとき、離宮の隅に置かれていた古い鏡が、薄く光った。鏡面に、紅玉の顔が映る。白妙は反射的に焔を見た。焔は紅玉の体で目の前にいる。では、鏡の中の紅玉は。
「……本物の、紅玉様?」
鏡の中の寵妃は、疲れたように笑った。
「ええ。ようやく、あなたに届いた」
白妙は言葉を失う。紅玉は、鏡の向こうから白妙と焔を見つめた。
「責めるなら責めなさい。私は、自分の意志で焔をこの体に招き入れた。帝を守るために」
「帝を?」
紅玉の瞳が暗く沈む。
「葛城は、後宮の魂替えを実験で終わらせるつもりはないわ」
鈴の音が止んだ。代わりに、遠くの宮から太鼓が一つ鳴る。帝の殿舎で異変が起きた時にだけ打たれる、夜半の合図。紅玉は告げた。
「次に入れ替わるのは、帝です」




