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第6話 九尾だけが、私を間違えない

藍の身体で目覚めた白妙は、まず自分の魂がまだここにあることを確かめた。まず、喉が痛かった。次に、背中が痛んだ。手首には焼けた輪の痕があり、足首には鈴の重みがある。息を吸うたび、肋の奥が軋んだ。


藍という罪舞の体は、白妙が思っていたよりずっと傷だらけだった。


足裏には舞の稽古で裂けた傷が重なり、肋には治りきらない打撲がある。舌の裏には、空腹を紛らわせる苦い草の味が残っていた。宴で一言『助けて』と告げるまでに、藍がどれほど罰を飲み込んだのか。白妙はこの身体を逃走の道具にはしないと決めた。戻る時は、藍の魂も探す。誰かを救うために別の誰かを器へ変えるなら、葛城と同じだからだ。


「起きろ、罪人」


頬を叩かれ、白妙は薄く目を開けた。石の床。湿った壁。鉄格子。花換えの宴の広間ではない。後宮の端にある懲罰房だ。白妙はゆっくり息を吐いた。落ち着け。体は藍でも、魂は白妙だ。ならば考えられる。だが、五感がうまく噛み合わない。


目に映るものは少し遅れて意味を持ち、耳に届く音は水の中のように鈍い。舌には血と古い薬の味。肌は、衣の擦れる感触さえ痛みとして拾う。魂と器がずれている。このまま長くはもたない。


「宴を乱した罪は重い。中宮様のお慈悲がなければ、今夜にも首が落ちていたところだ」


格子の外で、兵が吐き捨てる。白妙は藍の声で、か細く言った。


「水を……」


「罪人に水?」


「踊れなくなれば、葛城様が困ります」


兵の顔色が変わった。葛城の名は、後宮では呪符よりよく効く。


「待っていろ」


兵が背を向ける。白妙はその瞬間、倒れ込むように床へ手をついた。石の隙間に溜まった灰。古い藁。爪の先ほどの砂鉄。材料は足りない。けれど、無能女官として十年生きた白妙は、足りないもので術を組むことに慣れていた。


指先で砂鉄を弾く。灰を吐息で流す。藁一本を格子の影へ滑らせる。見えないほど小さな返し火が、鍵穴の中で灯った。かちり。鍵が外れる。兵が水桶を持って戻ってきた時、白妙はわざと立ち上がろうとして、派手に転んだ。


「あっ……!」


「何をしている!」


兵が格子を開ける。その足元へ、白妙は水をぶちまけた。


「申し訳……ございません……!」


藍の体で、白妙は泣き真似をした。無能女官の演技は、別の体でも使える。滑った兵が壁に肩を打つ。白妙はその隙に、懲罰房を飛び出した。走る。だが、思うように走れない。白妙の体なら三歩で曲がれる角を、藍の体は五歩かけても崩れそうになる。肺が焼ける。足首の鈴が鳴るたび、魂が体から剥がれそうになる。


ちりん。足首の鈴は花換えの術路に繋がったままだった。鳴るたびに、白妙の魂は奪われた本来の身体へ一瞬だけ引き戻され、その身体が見ている景色を拾った。音と同時に、別の景色が流れ込んだ。北の離宮。


自分の手。千世の頬。白妙の体を奪った何者かが、妹の眠る顔を覗き込んでいる。


「姉様……?」


千世の唇が動いた気がした。白妙は歯を食いしばった。やめて。その声で千世に近づかないで。廊の角を曲がったところで、女官二人と鉢合わせた。


「きゃっ、罪舞の藍よ!」


「どうして牢から!」


「違います、私は――」


白妙だ。そう言えば、楽になれる気がした。けれど、女官たちの目に映るのは、罪人の体をした女だけだ。無能女官の白妙を信じる者さえいない後宮で、罪舞の言葉を誰が信じる。白妙は口を閉じた。


本当の名を叫ぶだけでは、目の前の二人に危険を背負わせる。白妙は言葉を引っ込めた自分を卑怯だと思った。だが、卑怯でも先へ進む。真実を口にする時と伏せる時を選ぶことまで、葛城に奪わせる必要はない。


代わりに、泣きながら頭を下げる。


「ごめんなさい、道に迷って……!」


「罪人が道に迷うものですか!」


女官が叫ぶ。その背後の壁に、監視符が貼られていた。白妙は転んだふりで女官の裾を掴む。


「いや、お願い、助けて……!」


情けない声。すがる手。無能で、愚かで、みっともない仕草。女官が嫌悪して身を引いた瞬間、白妙の爪が壁の符を裂いた。監視の目が、ひとつ消える。白妙はそのまま廊へ転がり出た。向かうべきは北の離宮。


だが今の体で妹のもとへ走れば、葛城の罠に飛び込むだけだ。


焔。


あの妖なら、魂を見分けられるかもしれない。いや、見分けてもらわなければ終わる。白妙は紅玉の殿舎へ向かった。途中、何度も捕まりかけた。厨の下男に腕を掴まれ、洗濯場の女官に箒で打たれ、宦官に道を塞がれた。藍の体は痛みに弱く、何度も意識が遠のいた。


それでも白妙は、無能を演じ続けた。転ぶ。泣く。謝る。物を落とす。そのたびに、監視符を裂き、廊下の結界を乱し、追っ手の足を一瞬だけ止めた。


無能は鎧だ。


体が変わっても、それだけは白妙のものだった。紅玉の殿舎の前にたどり着いた時、白妙はほとんど立っていられなかった。


「止まれ!」


門番が槍を交差させる。


「紅玉様に……会わせて……」


「罪人が何を」


「お願い……」


白妙は膝をついた。額が石畳に触れる。惨めだった。けれど惨めさなど、妹の頬に偽物の手が触れることに比べれば何でもない。


「私は、白妙です」


ついに言った。門番たちは一瞬黙り、それから笑った。


「あの無能女官? 笑わせるな」


「罪人が今度は妄言か」


槍の柄が白妙の肩を打つ。白妙は倒れた。その時、殿舎の奥から声がした。


「何の騒ぎ?」


紅玉の声。けれど中身は焔だ。白妙は顔を上げた。簾の向こうから現れた紅玉は、いつも通り美しかった。艶やかな黒髪。赤い唇。眠たげな瞳。門番が頭を下げる。


「罪舞の藍が、白妙を名乗っております」


焔は白妙を見た。金の瞳が、少しも揺れない。見抜いて。白妙は声にならない声で願った。だが焔は冷ややかに言った。


「白妙を名乗る?」


心臓が落ちた。


「誰が、お前にその名を許した」


違う。


この妖でも分からないのか。白妙は唇を震わせた。


「……私は、藍です」


生き延びるための嘘。諦めるための嘘。誰にも見つけてもらえなかった時の、最後の嘘。その瞬間、焔の表情が変わった。紅玉の顔のまま、彼はゆっくり笑った。


「今の嘘」


焔が白妙の前へ膝を折る。白い指が、血の滲む顎を持ち上げた。


「……甘いな」


白妙の喉が震える。焔の瞳が金に染まる。


「器が変わっても、お前の嘘だけは私のものだ」


白妙は息を呑んだ。見つけた。この妖だけが。


「白妙」


名を呼ばれた瞬間、白妙の中で張り詰めていた糸が切れた。


「焔……!」


門番たちがざわめく。焔は白妙を抱き上げ、誰にも触れさせないよう尾の影を広げた。


「この罪舞は私が預かる」


「しかし、葛城様が――」


「私に逆らうの?」


紅玉の笑みは美しかった。だからこそ、恐ろしかった。門番たちは青ざめて道を開ける。殿舎の奥へ運ばれる間、白妙は焔の衣を掴んでいた。藍の体の指は力が弱く、すぐに滑り落ちそうになる。


「妹が」


「分かっている」


「私の体が、千世のところへ」


「見た。お前の体に入っているものは、人間の魂ではないな。鈴に残っていた耳の影だ。葛城が仕込んだ式の欠片だろう」


白妙は息を呑む。


「では、藍は」


「おそらく別の器に飛ばされた。今は追えん」


奥の寝所に入ると、焔は白妙を榻の上へ下ろした。几帳の向こうで狐火が灯り、結界が部屋を包む。白妙は起き上がろうとした。だが藍の体は言うことをきかず、肩が震えるだけだった。


「戻してください。今すぐ」


「無理だ」


「無理では困ります」


「魂替えの術は、器と魂と名を三つ結ぶ。お前の名はまだ白妙に残っているが、器は奪われ、魂は藍にある。力ずくで戻せば、どちらかが裂ける」


「なら、どうすれば」


焔は少しだけ黙った。その沈黙に、白妙は嫌なものを感じた。


「言ってください」


「お前は怒る」


「怒っている暇はありません」


焔は白妙の顔を見た。紅玉の美貌に、九尾の残酷さが重なる。


「お前の体に入った式を追い出すには、器と名の結び目を一度断つ必要がある」


「断つ?」


「簡単に言えば」


焔の指が、白妙ではない白妙の喉元に触れた。


「お前の体を取り戻すには、一度その体を殺すしかない」


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