第5話 花換えの宴、魂が入れ替わる
【ここまでの入れ替わり】
第5話の花換えの宴で、魂の入れ替わりが起きました。
・白妙の魂 → 罪舞・藍の身体の中
・白妙の本来の身体 → 何者かが動かしている
・藍の魂 → 行方不明
・紅玉の身体 → 九尾の焔が宿っている(第1話から)
魂と身体がずれているため、五感もうまく噛み合いません。
この回は「藍の身体で目覚めた白妙」から始まります。
「あなた、誰です?」
葛城の問いに、白妙は泣きそうな顔で固まった。もちろん、固まったふりだった。
「あ、あの、私は白妙です。御膳所の下働きで、字もあまり読めなくて、よく叱られていて……」
「ええ。評判は聞いております」
葛城は手首を離さない。狩衣の袖から漂う香は、白檀に似ていた。白妙の胃が冷える。十年前の記憶の中で、千世の耳元へ伸びていた男の手。その指に巻かれていた数珠も、同じ香をまとっていた。気づくな。震えるな。
無能でいろ。白妙は顔を真っ赤にし、いきなり深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません! 実はその、紅玉様のお部屋に戻る道を忘れてしまって……!」
言いながら、わざと持っていた香袋を葛城の足元に落とす。袋の口がほどけ、粉香がぱっと舞った。普通の人間なら、くしゃみをするだけの香。けれど陰陽師なら、その粉の中に混ぜた微細な灰が、術視の流れを一瞬だけ濁らせる。
葛城の目が細くなった。その一瞬に、焔が笑った。紅玉の姿で、白妙と葛城の間へ滑り込む。
「葛城。私の女官に、何か用?」
「これは紅玉様。夜歩きは御身に障ります」
「退屈でね。無能な女官を連れて歩くと、少しは笑える」
焔は白妙の顎を指で持ち上げる。白妙は怯えた顔を保ったまま、内心で舌打ちした。近い。余計なことをするな。だが焔は愉快そうに目を細めるだけだった。
「この子は私のお気に入りよ。叱るなら、私の前でなさい」
「紅玉様のお気に入りでしたか」
葛城は穏やかに微笑む。
「では、花換えの宴にもお連れください。ちょうど、女官の手が足りぬと聞いております」
「花換え?」
焔の声が低くなる。葛城は白妙を見た。
「妃と女官が花を交換し、厄を移して清める古い儀です。今宵は中宮様のご命で、後宮中の方々が集まります」
花を交換する。厄を移す。白妙の袖の中で、雨音殿から持ち帰った鈴が、かすかに震えた。葛城はそれを聞いたように、にこりと笑った。
「白妙殿にも、よい花が与えられるとよろしいですね」
◆
翌日の後宮は、朝から異様な華やぎに包まれていた。回廊には季節外れの桃の枝が飾られ、妃たちの髪には色とりどりの造花が挿されている。女官たちは花盆を運び、宦官たちは香炉を並べ、楽人たちは雨音殿から持ち出された古い楽器を調律していた。
白妙は花盆を抱えながら、わざと何度もよろけた。
「白妙、今日は絶対に失敗しないでよ」
「は、はいっ、気をつけます……!」
周囲はいつも通り笑う。
それでいい。
白妙の目は、花の芯に仕込まれた札を追っていた。桃の花の中に、黒い紙片。蓮の花の中に、白い髪。牡丹の花の中に、細い銀糸。花換えの儀などではない。魂の縁を一時的に緩める、大掛かりな術式だ。
花の札は魂を抜くだけではない。鈴の音で名を揺らし、銀糸で別の身体へ縫いつける。発動後に誰がどの器へ入ったかを決めるのは、術の中心に立つ者だった。問題は、どこで発動するか。そして、誰と誰を入れ替えるつもりか。
「見えるか」
紅玉の姿をした焔が、低く囁いた。白妙は盆に目を落としたまま答える。
「花の芯が全部、同じ音をしています。昨日の鈴と同じです」
「なら、耳を使った術だな」
「千世の耳を」
言いかけて、白妙は唇を閉じた。怒りで指先が熱くなる。返し火が漏れそうになる。駄目だ。ここで力を使えば、葛城に正体を確信される。無能でいろ。無能のまま、術を壊せ。宴は夕刻に始まった。正殿の中央には、中宮が座している。紅玉より高い身分を示す深紫の衣。その笑みは優雅だが、目は冷え切っていた。
「今宵は、花に厄を預けましょう。妃も女官も、等しく花の前では清らかであるように」
等しく。白妙はその言葉に、ぞっとした。後宮で等しさを口にする者ほど、身分の差を利用する。葛城は中宮の背後に控えている。その視線は、時折白妙の手元へ落ちた。見られている。白妙は、運んでいた酒杯をわざと傾けた。
杯の中身が床に広がれば、南側の符を濡らして術式を一つ潰せる。だが液体が床へ落ちる寸前、葛城の扇がひらりと動いた。酒は空中で丸くまとまり、何事もなかったように杯へ戻る。
「危ないですね、白妙殿」
「も、申し訳ございません……!」
白妙は青ざめた顔を作る。内心では舌を噛みそうだった。ならば、足元。白妙は次に、敷物の端へ足を引っかけた。転べば、床下の銀糸を切れる。その瞬間、中宮が微笑んだ。
「その無能女官を、こちらへ」
白妙の動きが止まる。
「紅玉。あなたのお気に入りなのでしょう? 近くで見せてちょうだい」
焔の瞳が、一瞬だけ金に揺れた。だが紅玉の顔のまま、優雅に笑う。
「お気に召すかしら。とても鈍くさい子よ」
「鈍くさいものほど、見ていて飽きないわ」
白妙は中宮の前へ進むしかなかった。その時、楽の音が変わった。雨音殿の古い琴が鳴る。笛が重なる。そして、踊り子が一人、広間の中央へ進み出た。足首に、鈴をつけている。白妙の胸が跳ねた。踊り子はまだ若い。痩せた頬。唇の端に古い傷。衣は華やかだが、手首には罪人に焼きつける薄い輪の痕があった。
その娘が、白妙とすれ違う一瞬、かすれた声で囁いた。
「助けて」
白妙は目を上げた。踊り子の瞳は、恐怖で濡れていた。藍。そう呼ばれていた罪舞だと、白妙は昼の噂で聞いていた。失敗すれば処刑、成功すれば罪を許すと言われて宴に出された娘。鈴が鳴る。ちりん。
後宮中の花が、一斉に揺れた。
「焔!」
白妙が叫ぶのと、葛城が扇を閉じるのは同時だった。床下の銀糸が光る。花の芯の札が燃える。妃たちの影が伸び、女官たちの影と重なり、魂の輪郭がふっと緩む。白妙は返し火を起こそうとした。だが足首に、見えない鎖が巻きついた。
葛城の術だ。
「白妙!」
焔が手を伸ばす。その指が白妙に届く寸前、罪舞の鈴が耳の奥で破裂した。世界が裏返る。白妙の魂は、罪舞・藍の身体へ引きずり込まれた。
最初に分かったのは、藍の右膝が古傷で曲がりきらないことだった。次に、空腹で指が震えていること。白妙は自分の身体へ戻ることばかり考えかけ、歯を食いしばる。この身体にも持ち主がいる。藍を壊して脱出することだけはできない。白妙は痛みの位置を一つずつ確かめ、借りた身体で動ける範囲を測った。
落ちたはずなのに、床に膝をついていた。息が苦しい。胸が重い。視界の端が赤い。両手を見れば、指が細い。だが、白妙の手ではない。手首に焼き痕がある。爪は割れ、掌は舞の稽古で硬くなっている。藍の体だった。
「……嘘」
声も違う。かすれ、低く、喉の奥に血の味がする。白妙は顔を上げた。広間の向こうで、自分の体が立っている。地味な女官衣。黒髪を低く結い、伏し目がちな顔。だが、その目は白妙のものではなかった。白妙の体を使う何者かが、にこりと笑った。
それは、白妙が絶対にしない笑い方だった。無能女官の怯えでも、陰陽師の冷静さでもない。自分のものを手に入れた者の笑み。
「その罪舞を捕らえなさい!」
中宮の声が響く。白妙は逃げようとしたが、藍の体は思うように動かなかった。足首の鈴が重い。膝が笑う。胃が空で、力が入らない。
「私は……!」
白妙だ、と言いかけた瞬間、葛城の視線が突き刺さった。言えば終わる。誰も信じない。むしろ白妙の体を奪った罪人として処分される。白妙は唇を噛み、転んだふりで床に手をついた。指先が銀糸に触れる。まだ術は完全ではない。
ならば切れる。だがその前に、白妙の本来の体が、広間の出口へ向かって歩き出した。無能女官らしく背を丸めて。けれど、一度もつまずかずに。その行く先を、白妙は知っていた。北の離宮。千世が眠る場所。
「待って……!」
白妙は叫んだ。自分の声ではない声で。兵に腕を掴まれ、床に押さえつけられる。遠ざかる自分の背中。袖の中で、千世の耳を封じた鈴が鳴っている。ちりん。視界が一瞬、白妙の体の方へ繋がった。冷たい廊。
北の離宮。眠る千世。白妙の顔をした何者かが、妹の頬に指を滑らせる。
「この体」
それは白妙の声で、楽しそうに言った。
「便利ね」




