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第4話 妹の声を覗いた九尾

櫛の破片からこぼれた声は、音ではなかった。骨の内側を、幼い指先で掻かれるような感覚だった。


「姉様」


白妙は息を止めた。指先に乗せた銀の粒が、月明かりを受けて淡く震えている。


「私の耳を、返して」


聞き間違いではない。記憶の中でしか聞けないはずの妹の声だった。


「千世……?」


喉から漏れた名は、あまりにも弱かった。白妙は慌てて唇を噛む。無能女官の声でも、冷静な陰陽師の声でもない。十年前の夜から一歩も動けずにいる、姉の声だった。焔は隣で、じっと破片を見下ろしていた。


紅玉の美しい顔をしているくせに、その金の瞳だけが、人ではない深さをしている。


「今のは、耳だな」


「……何を」


「人間の耳そのものではない。聴くという働きだけを、呪具に移したものだ。ずいぶん丁寧に裂いてある」


「裂く?」


白妙の手が震えた。焔はその震えを見逃さない。


「お前の妹は、五感を失ったと言ったな」


「私が奪いました」


「また、それか」


「事実です」


言った瞬間、首筋から鎖骨にかけて契約痕が熱を帯びた。嘘をついた時の疼き。けれど白妙は、歯を食いしばって視線を逸らさなかった。自分がやった。そうでなければならない。そう信じていなければ、この十年の無能の仮面は何のためだったのか分からなくなる。


焔は舌先でゆっくり唇を湿らせた。


「今の嘘は苦いな。お前自身も信じ切れていない味がする」


「食べないでください」


「食わずとも分かる」


焔は白妙の手から櫛の破片を摘み上げた。白妙は反射的に取り返そうとしたが、金色の尾がふわりと手首に巻きつく。


「放して」


「逃げるな」


「逃げてなど」


「なら、確かめろ。お前の妹の耳が、なぜ後宮の呪具に封じられていたのか」


白妙は何も言えなかった。後宮の夜は、昼とは別の顔を持っている。妃たちの笑い声が消え、灯籠の火が細くなり、廊の隅には人の形をした影が溜まる。白妙は焔に引かれる形で、紅玉の殿舎を出た。


「どこへ行くのです」


「破片が鳴っている」


「私には何も」


「お前の耳では、まだ聴けない。あれは魂で聴く音だ」


焔の手の中で、銀の粒が薄く光る。行く先は、後宮の北端にある雨音殿だった。かつては楽人たちが稽古に使っていた建物だが、帝が即位して以来、誰も近づかない。夜風に破れた御簾が揺れ、古い琴や笛の影が、梁から吊られた死体のように見えた。


その途中、白妙は見回りの女官と鉢合わせた。


「白妙? こんな夜更けに何をしているのです」


「ひゃっ、あの、そ、その、紅玉様の御香を……」


白妙は慌てふためいた顔を作り、抱えていた布包みを落とした。中の香木が廊下に散らばる。


「ああもう、本当に役立たずね」


「申し訳ございません、申し訳ございません」


白妙は床に這いつくばり、香木を拾うふりをした。その指先が床板の隙間をなぞる。薄い灰が線となり、見回り女官の足元に張られていた監視符を崩した。女官は鼻で笑って去っていく。焔は御簾の陰から白妙を見ていた。


「お前の無能は、本当に忙しいな」


「うるさいです」


「褒めている」


「最悪の褒め方です」


雨音殿の扉は、内側から閉じられていた。白妙が袖口から細い紙片を出そうとすると、焔がそれより先に扉へ指を添えた。紅玉の白い指が、木目を撫でる。ぎしり、と扉が開いた。中は埃と湿気の匂いで満ちていた。


崩れた楽譜。折れた笛。糸の切れた琵琶。奥の棚に、小さな鈴が置かれていた。鈴の表面には、白家の紋に似た文様が刻まれている。ちりん。今度は白妙にも聞こえた。耳からではない。胸の奥から聞こえた。


「……千世」


白妙はふらりと歩み寄る。止める焔の声も聞こえなかった。鈴に触れた瞬間、世界が爆ぜた。水滴が瓦を叩く音。虫が壁の裏を這う音。遠くの妃が寝返りを打つ衣擦れ。誰かの心臓。誰かの嘘。誰かの爪が畳を掻く音。


聞こえる。聞こえすぎる。


「あ……っ」


白妙は耳を押さえて膝をついた。頭蓋の中に、後宮中の音がなだれ込む。幼い千世が感じたであろう恐怖が、白妙の体を内側から裂いていく。


――姉様、うるさい。


――姉様、何も聞こえないのに、全部聞こえるの。


――助けて。


首筋の契約痕が燃えた。白妙の髪の間から、白い狐耳がわずかに覗く。


「まずいな」


焔が白妙の肩を掴む。


「白妙、私を見ろ」


「いや……やめて、千世、泣かないで……私が、私が……!」


「お前ではないものまで背負うな」


焔の声だけが、騒音の中で刃のように届いた。紅玉の顔が近づく。白妙の額に、冷たい指が触れる。


「記憶を開け」


「いやです」


「開け。食うのではない。見るだけだ」


「あなたに、見られたくない……っ」


「壊れるよりはましだ」


焔の尾が白妙を包んだ。次の瞬間、白妙の視界が真っ白に染まる。


◆


十年前の白家。雨の夜だった。庭の桃の木が風で折れ、屋敷の結界が悲鳴を上げている。八つの白妙は、泣いている妹を背中に庇っていた。


「姉様、こわい」


「大丈夫。私が返すから」


幼い白妙の掌に、白い火が灯る。返し火。受けた呪いを映し、倍にして返す白家の秘術。外から黒い影が押し寄せた。父も母もいない。大人たちは皆、別棟の儀式に呼ばれていた。白妙は火を放った。守るためだった。


妹だけは守りたかった。火が、屋敷を白く照らす。千世が叫ぶ。そこで、記憶はいつも途切れていた。だが焔の視線は、記憶の端を裂いた。白い袖が見える。子どもの白妙でも、泣き叫ぶ千世でもない。大人の男の手だった。


その手が、千世の耳元にかざされている。指には、白檀の数珠。袖口には、葛の葉を模した銀糸の紋。男が囁いた。


「よい鍵だ。姉の罪にしておけば、よく締まる」


白妙の記憶が砕けた。現実に戻った時、白妙は焔の腕の中で息を荒げていた。鈴は床に落ち、ひびが入っている。だが壊れてはいない。


「見ましたか」


声が震えた。


「見た」


「嘘です」


「嘘ではない」


「違う。私は、私が千世を……」


「お前が火を使ったのは事実だ。だが、耳を奪ったのは別の手だ」


「やめて」


白妙は焔を突き飛ばした。自分が罪人でなかったかもしれない。その可能性は、救いではなかった。白妙が十年かけて築いた檻を、足元から崩す音だった。


「そんなこと、今さら」


「今さらでも、真実は真実だ」


焔はそれ以上、白妙の記憶へ入らなかった。嘘を暴くことを楽しむ妖が、閉じた扉の前で待っている。白妙は初めて、自分が欲しかったのは『お前は悪くない』という赦しではなく、千世に何が起きたかを知る権利だったのかもしれないと思った。真実は十年を返さない。それでも、次の十年を誰かの嘘に渡さずに済む。


「真実で妹が治りますか。真実で、千世の十年が戻りますか!」


叫んだ声が、雨音殿の梁にぶつかった。埃が舞う。焔は黙っていた。その沈黙が、白妙をさらに苦しくさせた。白妙は床に落ちた鈴を拾い、袖に隠す。


「帰ります。夜が明ければ、私はまた無能女官です」


「まだ続けるのか」


「続けます。私には、それしかありません」


雨音殿を出た時、東の空はまだ黒かった。後宮の廊は濡れたように光っている。その先に、白い狩衣の男が立っていた。端正な顔。穏やかな微笑。後宮陰陽師長、葛城(かつらぎ)。白妙の幼名も、白家の返し歩きも知る男。千世の居場所を隠してきたつもりだった白妙は、その思い込みまで見透かされていたのだと悟った。


「おや。紅玉様に、白妙殿」


葛城は丁寧に頭を下げた。白妙は瞬時に背を丸め、怯えた無能女官の顔を作る。


「あ、あの、私、道に迷ってしまって……紅玉様にご迷惑を……」


「道に迷って雨音殿へ?」


葛城の目が笑っていない。


「面白い迷い方をなさる」


白妙は慌てて一歩下がり、わざと裾を踏んで転びかけた。だが葛城の手が、彼女の手首を正確に掴む。その指先が、白妙の脈ではなく、術の流れを探った。


「今の足運び」


葛城が柔らかく言う。


「白家の返し歩きに、よく似ていますね」


白妙の喉が詰まる。焔の金の瞳が細くなる。葛城は、まるで懐かしい人に再会したように微笑んだ。


「白家の長女は、十年前に心を壊して死んだと聞いていましたが」


指の力が、ほんの少し強くなる。


「あなた、誰です?」


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