第3話 髪を喰う櫛と、笑う寵妃
朝、後宮で一番よく響く音は、悲鳴だった。
「いやああああっ!」
翡翠宮の奥から上がった叫びに、女官たちが一斉に走り出す。白妙も桶を抱えたまま、わざと一拍遅れて廊下へ出た。急ぎすぎては、無能らしくない。遅すぎても、怪しまれる。転ばず、走らず、役に立たない程度に慌てる。
それが白妙の日常だった。
「何があったのですか」
「翠蘭様の髪が……!」
女官の顔は紙のように白い。白妙は桶を抱え直し、部屋の中を覗いた。妃の翠蘭は、鏡台の前で震えていた。昨日まで艶やかな黒だった髪が、根元から毛先まで雪のように白く変わっている。しかも白くなっただけではない。
櫛を入れるたび、髪がひと房ずつ床に落ちていく。床には、黒い髪と白い髪が混じり、蛇の抜け殻のように積もっていた。
「誰かが呪ったのよ! 私を妬んで、こんな……!」
翠蘭の視線が周囲を走り、最後に白妙へ止まった。
「あなた、昨日ここへ来たわね」
「は、はい。お花の水を替えに……」
「その時に何かしたのでしょう!」
「わ、わたくしは何も……」
白妙は震える声を出しながら、鏡台を見た。銀の鏡。白粉の箱。紅の小皿。そして、黒檀の櫛。櫛の歯の間に、髪ではないものが絡んでいる。細い黒い舌。肉眼ではほとんど見えないほど薄いが、確かに櫛の歯が生き物のように動いていた。
髪を喰っている。いや、髪に宿る若さと寿命を吸っている。このままなら翠蘭は半日で老いる。髪が抜けきった後、肌が萎み、声が掠れ、最後は鏡の中の自分に魂を吸われる。白妙は心の中で息を吐いた。面倒な呪具だ。
だが、壊すだけなら難しくない。問題は、人前だということ。
「白妙! ぼさっとしていないで床を掃きなさい。翠蘭様のお目に髪が入ったらどうするの」
「は、はいっ」
叱られた白妙は、慌てて箒を手に取った。わざと柄を鏡台にぶつける。かん、と軽い音がして、紅の小皿が跳ねた。
「きゃっ、何をするの!」
「申し訳ございません!」
白妙は慌てるふりで手を伸ばす。指先が黒檀の櫛へ触れた。その瞬間、櫛が白妙の指を噛んだ。鋭い痛み。血が一滴、黒い歯の間へ吸い込まれる。白妙の視界がぶれた。遠くで鈴の音がした。ちりん。あり得ない音だった。
この部屋には鈴などない。だが白妙はその音を知っていた。千世が幼い頃、眠る時に握っていた小さな鈴。見えない夜を怖がる妹のために、白妙が鳴らしてやった鈴。
――姉様、ここにいる?
白妙の指から力が抜けた。
「白妙?」
青鈴の声が遠い。櫛の歯の隙間から、黒い糸が伸びる。それは白妙の指の傷へ入り込もうとしていた。呪具が、白妙の中にあるものを嗅ぎつけたのだ。返し火が反応する。封じたはずの火が、胸の奥で白く燃え上がる。
耳の付け根が熱い。白家の者は返し火を限界まで使うと、術の源である白狐の形へ近づく。耳が出れば警告、尾が出れば封印の綻び。その先では、敵と味方を分ける理性まで火に喰われる。白妙が力を隠すのは、罪悪感だけが理由ではなかった。
尾の骨が、皮膚の下で疼く。駄目だ。ここで出してはいけない。人前で狐耳を晒せば、白妙は終わる。千世も終わる。白妙は自分の足を踏んだ。爪先に痛みが走り、意識が戻る。
「ひゃっ!」
白妙は情けない悲鳴を上げ、桶をひっくり返した。水が床いっぱいに広がる。女官たちが怒鳴った。
「何をしているの!」
「この役立たず!」
白妙は半泣きで床を拭くふりをしながら、水の流れを操った。水は髪の山を避け、鏡台の脚へ回り込む。黒檀の櫛から垂れた呪いの糸だけを濡らし、白妙の血を薄める。水は火を隠すのに向いている。袖の影で、白妙はほんの小さな返し火を灯した。
濡れた呪いの糸を辿って、火が櫛の内側へ入る。櫛が悲鳴を上げた。人間には聞こえないはずの音。けれど白妙には、千世の鈴の音と重なって聞こえた。ちりん、ちりん。
――姉様。
白妙の息が詰まる。櫛はただの呪具ではない。何かが入っている。誰かの感覚。誰かの記憶。誰かの耳。
「白妙、どきなさい!」
青鈴が白妙の肩を掴む。その拍子に、白妙は大げさに倒れ込んだ。倒れる途中で、袖の中の火をもう一度だけ強める。黒檀の櫛に、白い亀裂が走った。ばきん。櫛が二つに割れる。翠蘭の髪から、黒い煙が抜けた。
白く変わっていた髪の根元に、わずかに黒が戻る。
翠蘭は抜け落ちた髪を拾い、震える指で握った。『母が毎朝、梳いてくれた髪なの』と誰にともなく呟く。妃という身分より先に、一人の娘がそこにいた。白妙は返し火の残りを水へ溶かし、黒が戻った根元へそっと流した。すべては戻せない。それでも、明日また伸びる髪まで奪わせはしない。
「あ……髪が……!」
翠蘭が鏡に縋りついた。完全に戻ったわけではないが、命は取られずに済む。白妙は床に転がったまま、ぼんやりした顔で笑った。
「よ、よかったです。桶のお水が、役に立ちました……?」
「あなたは黙っていなさい!」
青鈴に叱られ、他の女官たちには笑われた。いつものことだ。白妙は頭を下げ、割れた櫛の破片を拾い集める。その時、破片の奥から小さな鈴の音がこぼれた。ちりん。白妙は破片を握りしめた。指の傷が痛む。
血が滲む。だが、手放せなかった。
◆
昼過ぎ、白妙は罰として洗濯場へ回された。誰も来ない裏庭の井戸端で、山のような衣を洗う。手は冷たい水で赤くなっていた。白妙は周囲に人の気配がないことを確かめ、懐から櫛の破片を取り出した。黒檀の内側には、小さな銀の粒が埋まっている。
鈴の舌に似ていた。だが、普通の金属ではない。感覚を封じるための核。白家の古い書で見たことがある。人から奪った五感を、物に留める術。白妙の胃が冷たく沈んだ。
「千世……?」
声に出した瞬間、背後から返事があった。
「当たりか」
白妙は振り向きざま、濡れた衣を投げつけた。衣は宙で燃えも濡れもせず、赤い尾に絡め取られる。焔が井戸の縁に座っていた。紅玉妃の姿ではない。影で形作った、男とも女ともつかない美しい姿。黒髪に金の瞳。
人の形をしているのに、瞬きの仕方だけが獣だった。
「覗き見は趣味ですか」
「お前が隠すから見たくなる」
「最低です」
「知っている」
焔は白妙の手の中の破片へ視線を落とした。ふざけた笑みが、少しだけ消える。
「それは、耳だな」
白妙の心臓が止まりかけた。
「……何を」
「音を聞くための肉ではない。音を世界と繋ぐ感覚の核だ。人間の耳を丸ごと奪って、呪具に仕込んだもの」
「黙って」
「妹のものか」
「黙って!」
水桶が震えた。井戸の水面に、白い火が映る。焔はじっと白妙を見た。いつものように笑わない。それがかえって、白妙を追い詰める。
「お前は、自分が妹の五感を奪ったと思っている」
「事実です」
「今のは嘘が混じった」
「事実です!」
契約痕が熱く光る。焔がわずかに眉を寄せた。
「白妙」
名を呼ばれ、白妙は唇を噛んだ。やめて。その声で呼ばないで。責められるより、優しくされる方が怖い。
「あなたに何が分かるのです。私は、あの夜、術を暴走させた。千世は泣いていた。何も見えないと、何も聞こえないと、何も感じないと……私のせいで……!」
言い終える前に、焔の尾が白妙の手首を包んだ。強引ではない。逃がさない程度に、温かい。
「なら、なぜ妹の耳が後宮の櫛に入っている」
白妙は答えられなかった。分からない。考えたくない。考えてしまえば、自分の十年が崩れる。自分が罪人だから、無能でいなければならない。自分が壊したから、二度と力を使ってはいけない。そう信じることで、どうにか生きてきた。
もし、それが全部、誰かに仕組まれていたのなら。白妙の膝が崩れた。焔が支える。触れられた瞬間、契約痕が疼いた。
「今の感情は、食わないで」
「……食わん」
意外な答えだった。白妙は焔を見上げる。焔は気まずそうに目を逸らした。
「その味は、腹に重い」
「妖にも、食べられないものがあるのですか」
「ある。お前が壊れたら、つまらない」
白妙は笑いそうになった。優しさではない。所有欲だ。それでも、なぜか胸の奥が少しだけ緩んだ。その時、手の中の櫛の破片が震えた。ちりん。鈴の音が、今度ははっきり聞こえた。白妙だけではない。焔も顔を上げる。
破片の銀の粒から、幼い声がこぼれた。
「姉様」
白妙の呼吸が止まる。
「私の耳を、返して」




