第2話 嘘を吐くたび、九尾が疼く
首筋に灯った火は、熱くなかった。熱くないのに、痛い。針でも刃でもなく、名前を刻まれているような痛みだった。
「っ……!」
白妙は焔の手を振り払おうとした。だが、紅玉妃の細い指に見えるそれは、鉄の枷より強い。九つの尾が帳の内側で揺れ、灯明のない寝所を赤く照らしている。
「契約など、結ぶとは言っていません」
「言わせる気もない」
焔は楽しげに答えた。
「逃げる人間ほど、縛った時に良い声で鳴く」
「悪趣味ですね」
「今のは本音だ。少し酸い」
焔が目を細めた。白妙は唇を噛む。白妙の首筋から鎖骨へ、赤い狐火の紋が走った。細い蔓のように肌の下を這い、心臓へ届く寸前で止まる。それだけで、息が浅くなった。
「この契約は何です」
「お前が嘘をつくたび、その嘘から生まれた感情を私が喰う。代わりに、私はお前の正体を黙っていてやる」
焔が喰うのは言葉の真偽ではない。嘘を守るために押し殺した恐怖、怒り、願い。その感情が強いほど契約痕は熱を持ち、焔の力へ変わる。白妙が理解できたのは、そこまでだった。
「そんなもの、契約ではなく脅迫です」
「人間の言葉では、そうとも言うな」
焔は満足そうに白妙の顔を覗き込んだ。紅玉妃の唇が美しく弧を描く。その顔でそんな笑い方をされると、後宮一の寵妃ではなく、獲物を前にした獣にしか見えない。白妙は呼吸を整えた。泣き喚いても無駄。力任せに術を使えば、寝所ごと焼く。
そして何より、紅玉妃の体を傷つけるわけにはいかない。この体の本当の持ち主は、どこにいるのか。生きているのか。それすら分からない。
「……紅玉様は」
「眠っている」
「殺したのでは」
「殺してほしいのか」
「そんなわけがありません」
答えた瞬間、首筋の契約痕が淡く光った。焔が喉を鳴らす。
「今の嘘は薄い。人を助けたいという気持ちは本物だが、私を責める怒りを隠したな」
白妙は背筋を冷やした。嘘を見抜かれるのではない。味わわれる。心の奥で隠したものを、舌で舐め取られるような不快さがあった。
「覗かないで」
「ならば嘘をつくな」
「後宮で本当のことだけ言って生きられる者などいません」
「だからここは美味い」
焔は帳を指先で払った。結界がほどける。倒れていた妃は、咳き込みながらも呼吸を取り戻していた。影は半分ほど体に戻っている。
「あなたは妃を襲っていた」
「妃に植えられた呪いを喰っていた」
「信じろと?」
「信じなくていい。お前は信じない顔の方が美味い」
白妙は眉をひそめる。焔は何もかもを煙に巻く。だが、倒れた妃が生きているのは事実だった。そして香炉の灰で焼いた黒札は、白妙の知らない術式だった。あれは後宮の陰陽師が作る札に似ていた。それも、かなり高位の。
「後宮で、何が起きているのです」
「それをお前が調べる」
「嫌です」
「なら、白家の娘だと叫ぶ」
「卑怯者」
「褒め言葉だ」
焔は白妙の額を指で弾いた。額に触れた指は軽いのに、侮られた悔しさだけが奥歯に残った。
「条件を追加する。お前は今まで通り無能女官を演じろ。盆を落とし、茶をこぼし、叱られ、笑われながら怪異を祓え。私はその嘘を傍で味わう」
「傍で?」
「紅玉は寵妃だ。女官一人を呼びつけることなど、容易い」
白妙は眩暈を覚えた。
最悪だ。
今までは目立たないことで生きてきた。その自分が、寵妃に目をつけられた女官になる。
「断れば?」
「千世、といったか」
白妙の息が止まった。焔の金の瞳が、すっと細くなる。この瞬間、寝所の温度が下がった気がした。
「お前の記憶の端に、ずっと寝ている娘がいる。目も耳も、鼻も舌も肌も、世界から切り離されたような娘だ」
「……それ以上、言わないで」
「大事なのだな」
白妙の指先に、無意識に火が集まる。だが焔は逃げない。むしろ嬉しそうに笑った。
「そうだ。その顔だ。無能の仮面の下に、ようやく本物が見えた」
白妙は火を握り潰した。掌が焼ける。痛みは自分のものだからいい。
「妹に手を出したら、あなたを殺します」
「いい」
焔は囁く。
「その殺意は、蜜の味がする」
◆
夜が明ける前、白妙は紅玉宮から追い出された。表向きは、失敗続きの女官が寵妃の寝所で香炉を倒し、厳しく叱責されたことになった。白妙がよろよろと廊下へ出ると、待っていた先輩女官の青鈴が眉を吊り上げた。
「生きて戻っただけありがたいと思いなさい。紅玉様の寝所で粗相なんて、普通なら舌を抜かれますよ」
「も、申し訳ございません……」
「もういいです。今朝は記録庫の墨を整えなさい。どうせあなたに任せられることなど、それくらいしかありません」
記録庫。白妙はわずかに目を伏せた。偶然ではない。昨夜、紅玉宮の妃に貼られていた黒札。あの札の材料に使われた墨の匂いが、記録庫の墨に似ていた。焔が仕組んだのか。それとも、呪いの流れがそこへ導いているのか。
記録庫は後宮の奥、古い帳簿と書簡が山のように積まれた場所だった。下級女官たちは嫌がる。埃っぽく、暗く、何より字が読めなければ叱られるからだ。白妙は字が読めないことになっている。だからこそ、監視されにくい。
「これと、これと、あちらの棚を拭いておきなさい。中身は触らないこと。読めもしないくせに汚したら承知しませんよ」
「はい……」
青鈴が出ていく。戸口の脇には、固い握り飯が一つ置かれていた。青鈴は口より先に叱る女だが、罰の粥だけで一日働けとは言わない。白妙は見なかったふりをして、それを袖へ入れた。足音が遠ざかった瞬間、白妙は顔を上げた。
棚の隙間に、墨の虫がいる。昨夜焼いた呪虫より小さい。だが数が多い。帳簿の文字を少しずつ喰い、別の文字へ変えている。人事記録。薬の配分。妃の寝所へ入る女官の名。文字を変えれば、人も薬も簡単に動かせる。
後宮を内側から組み替えられる。白妙は雑巾を手に取った。無能女官らしく、棚の壺へぶつかる。壺が倒れ、古い水が帳簿へ跳ねる。白妙は袖の内で熱を絞り、水を紙に染み込む直前で薄い蒸気へ変えた。
「ああっ、またやってしまいました……!」
誰もいない記録庫で、白妙は情けない声を出す。念のためだ。どこに耳があるか分からない。湿り気は文字を滲ませず、墨虫だけを紙面から浮かび上がらせた。白妙は雑巾で水を拭う。その動きに合わせ、袖の内側で印を切る。
返し火。受けた呪いを辿り、元へ返す白家の術。本来なら一息で記録庫中の呪いを焼ける。だが白妙は火を米粒ほどに絞った。大きく燃やせば、耳が出る。尾が出る。理性が剥がれる。小さく。弱く。無能に見えるように。
墨虫が一匹、二匹、三匹と灰になる。その灰が、濡れた紙の上に文字を残した。
『花換え』
『器』
『白家』
白妙の指が止まった。その時、背後の影が揺れた。
「見事だな。壺を倒して後宮の帳簿を救う女官など、千年生きても初めて見た」
白妙は振り向かない。振り向かなくても分かる。
「紅玉様の御身で、こんな埃っぽい場所へ来ないでください」
「お前の嘘が恋しくてな」
焔は棚の影から現れた。紅玉妃の姿のまま、足音もなく白妙の隣に立つ。寵妃の衣が埃を払うように揺れた。
「人に見られたら」
「見せていない」
焔が指を鳴らす。記録庫の外の音が、遠くなった。結界だ。白妙は小さく舌打ちした。その音を聞いて、焔が笑う。
「今のは本音だ。良い」
「あなたは、何を知っているのです。花換えとは何ですか。器とは。白家の名がなぜここに」
「質問が多い女は嫌われるぞ」
「あなたに好かれたくありません」
契約痕が熱を持つ。焔が目を細めた。
「嘘だな」
「……っ」
「完全な嘘ではない。好かれたいわけではない。だが、私に見捨てられるのは少し困ると思った」
白妙は顔を背けた。悔しい。何より、図星だから腹が立つ。この妖は危険だ。信用してはいけない。なのに、今この後宮で、自分の正体を知りながら殺さずにいる唯一の存在でもある。
「勘違いしないでください。あなたは脅迫者です」
「その通りだ。だが、脅迫者は役に立つ」
焔は濡れた帳簿に残った文字を見下ろした。赤い爪が『白家』をなぞる。
「花換えは、魂の座を移す術だ。器は、その魂を入れる肉の器。後宮では昔から、妃の体と女官の体を入れ替える禁術が囁かれている」
「魂を……入れ替える?」
白妙の喉が乾いた。
「誰が、何のために」
「さあな。だが、黒札の味は同じだ。紅玉の宮で妃に貼られていたもの。記録庫の墨虫。どちらも、同じ人間が飼っている」
「陰陽師長の葛城……?」
口にした瞬間、白妙は失敗したと思った。焔が笑ったからだ。
「お前はやはり賢い。無能のふりが泣いている」
「聞かなかったことにしてください」
「嫌だ」
焔は白妙の首筋へ手を伸ばした。契約痕に触れる寸前で止まる。
「白妙」
初めて、名を呼ばれた。その声は、からかうでも脅すでもなかった。だから余計に、白妙は身構えた。
「お前の妹は、本当にお前が壊したのか」
心臓が嫌な音を立てた。白妙は答えられない。答えたくない。だが、沈黙もまた、嘘の形をしている。焔の瞳が、獣のように光る。
「今の沈黙は濃いな。罪悪感だけではない。疑いを押し殺している味がする」
「黙って」
「いいや」
焔が耳元で囁いた。
「妹のことを隠した嘘は、もっと美味そうだ」
ここまでお読みいただきありがとうございます。
物語の前提を簡単にまとめました。
【舞台】
朱塗りの柱と渡殿が連なる後宮。帝の妃たちが宮ごとに暮らす、閉ざされた町です。
妃や女官の間では、不審な呪いが静かに広がっています。
【返し火】
白家に伝わる秘術。受けた呪いの道筋を逆にたどり、術者へ返す白狐の火です。
大きく使うほど、使い手は人の理性を失っていきます。
【契約】
白妙が嘘を吐くたび、その嘘から生まれた感情を焔が喰います。
代わりに焔は、白妙の正体を黙っています。
【登場人物】
白妙
無能を装う下級女官。白家の連座で雑役に落とされた。
返し火を爪先ほどだけ使い、誰にも知られず呪いを祓っている。
焔
寵妃・紅玉の身体に宿る九尾の妖狐。
嘘を喰う代わりに、白妙の秘密を握る。
紅玉
帝の寵愛を一身に受ける妃。後宮では別格の存在。
千世
白妙の妹。幼い頃のある出来事から、離宮で眠り続けている。
青鈴
白妙の先輩女官。口より先に叱るが、根は冷たくない。
葛城
後宮の陰陽師を束ねる長。呪いの専門家。
次回もよろしくお願いします。




