第1話 無能女官は、盆を落として呪いを祓う
賢い女は早く死ぬ。
無能でいることは、後宮で一番安全な才能だった。
「白妙! 盆が傾いています!」
叱責が飛んだ瞬間、白妙は肩を跳ねさせ、両手で持っていた盆を見事に傾けた。碗がからん、と音を立てる。熱い茶が床へ流れ、紅い絨毯に黒ずんだ染みを広げた。
「も、申し訳ございません……っ」
白妙は情けない声を出し、今にも泣きそうな顔で膝をつく。周囲の女官たちが、またか、という目を向けた。
「本当に使えない子」
「白家の遠縁だなんて嘘でしょう。字もろくに読めないのに」
「顔だけ地味で、手際も悪くて、よく後宮に残れたものね」
笑われる。侮られる。忘れられる。
それでいい。
この国の後宮は、朱塗りの柱と板敷きの渡殿が連なり、帝の妃たちが宮ごとに暮らす閉ざされた町だった。白家の連座で雑役に落とされた白妙は、勝手に宮を去れない。役立たずなら追い出されるのではなく、粥を減らされ、誰もしたがらない危険な仕事へ回される。だから無能は、ここに残りながら誰にも使われないための、ぎりぎりの鎧だった。
白妙は濡れた床を拭くふりをしながら、茶に浮かんだ黒いものを袖の内側へ滑り込ませた。人の髪ほど細い、足のある墨の虫。妃の碗に潜んでいた呪虫だ。そのまま供していたら、妃は茶を一口飲み、半刻もしないうちに喉を掻きむしって声を失っていただろう。
白妙は袖の中で指先を軽く折る。無音の火が走り、呪虫は灰になった。白家の秘術、返し火。受けた呪いの道筋を逆にたどり、術者へ返す白狐の火だ。火を大きくすれば白妙の耳と尾が現れ、使い続ければ人の理性まで削られる。だから使うのは、いつも爪先ほどと決めていた。
今日、一人目。
「白妙、ぼさっとしない! 紅玉様の香炉を取り替えておいで。これ以上失敗したら、明日の粥は抜きですからね」
「は、はいっ」
白妙は立ち上がろうとして、わざと裾を踏んだ。よろけた拍子に、通りかかった若い妃の衣の裾へ手をついてしまう。
「きゃっ、無礼者!」
「申し訳ございません、申し訳ございません!」
白妙は額を床に擦りつけるほど頭を下げる。妃は怒りに頬を染めたが、その足元では、刺繍糸に偽装された細い呪符がぷつりと切れていた。この妃は、今夜、池へ歩いていくはずだった。誰かに操られて。眠ったまま、水の中へ。
今日、二人目。
白妙は叱られながら、心の中で静かに数を足した。誰も死なずに済めば、それでいい。自分が愚か者だと笑われるだけで済むなら、安い。
無能は鎧だ。
無能でいれば、利用されない。無能でいれば、期待されない。無能でいれば、あの日のように、誰かの五感を奪うこともない。白妙の脳裏に、幼い妹の顔がよぎった。千世。白い寝衣。血の混じった涙。
何も見えない目。何も聞こえない耳。声にならない悲鳴。
――姉様、どこ?
白妙は指先を握りしめた。爪が掌に食い込む。痛みで記憶を沈める。考えるな。私はただの無能女官。
それでいい。
夕刻、後宮には薄紫の影が降りた。女官たちは慌ただしく灯明を入れ、妃たちの寝所へ香を運ぶ。その中でも、帝の寵愛を一身に受ける紅玉妃の宮は、別格だった。赤い柱。金糸の帳。香の匂いすら、他の宮より濃い。
甘く、重く、喉に絡む。白妙は香炉を抱え、紅玉妃の寝所へ向かった。本来なら下級女官の自分が入れる場所ではない。だが、こういう危うい役目ほど、自分へ押しつけられる。都合がよかった。紅玉妃の宮では、三日前から妃たちの影が薄くなっている。
病ではない。呪いだ。
「失礼いたします。香炉を、お持ちいたしました」
返事はない。白妙は障子を少しだけ開けた。灯明が消えている。月明かりだけが、寝所の奥を青白く照らしていた。その中央に、紅玉妃が立っていた。紅の衣をまとい、黒髪を床まで垂らし、こちらに背を向けている。
彼女の足元には、一人の妃が倒れていた。妃の体から、黒い影が糸のように引きずり出されている。紅玉妃が、その影を食んでいた。唇に影を巻き取り、喉を鳴らす。人のものではない、金色の瞳が月に光った。
背後で、九つの尾が広がる。白い尾ではない。燃えた炭のように赤黒く、先端だけが狐火に濡れている。
九尾。
白妙は息を止めた。
逃げなければならない。
だが、慌てて逃げれば殺される。だから、いつものように。
「あっ」
白妙は間の抜けた声を出し、香炉を落とした。香灰が床へ散り、灯明皿へかかる。火が跳ねた。火の粉は畳の目を一筋だけ走り、倒れた妃の胸元に貼られていた黒札だけを焼いた。妃の呼吸が戻る。影の糸が切れる。
白妙は顔を青ざめさせ、膝をついた。
「も、申し訳ございません! 暗くて、足元が見えず……わ、わたくし、何も見ておりません!」
無能女官としては、申し分のない怯え方だった。声は震えている。目は焦点をずらしている。指先も、恐怖で冷えた女官そのもの。紅玉妃はゆっくり振り返った。美しい顔だった。後宮中の妃が羨む、艶やかな紅い唇。
けれどそこから洩れた声は低く、男とも女ともつかない。それでも白妙の耳には、不思議と『彼』の声として響いた。
「転ぶ角度が綺麗すぎる」
白妙の背筋が凍った。
「灯明を倒す位置も、灰の撒き方も、札を焼く火加減も。偶然にしては、あまりに行儀がいい」
「な、何を……おっしゃって……」
「無能のふりは上手い。だが、私の前では下手すぎる」
次の瞬間、紅玉妃の姿が目の前から消えた。気づけば、白妙の背後に立っている。冷たい指が首筋を掴んだ。逃げられない。結界が降りている。寝所の外の女官たちは、何も聞こえないだろう。白妙は涙を浮かべた。
演技ではない。恐怖は本物だった。この妖の目は、白妙を一人の女ではなく、使える兵器として測っていた。あの日、白妙の力を見た大人たちと同じ目だった。
「わ、わたくしは、本当に、何も……」
「嘘」
耳元で囁かれた一言に、心臓が跳ねた。紅玉妃――いや、九尾は、白妙の首筋に顔を寄せた。息が肌を撫でる。
「お前の嘘は甘いな。恐怖と罪悪感と、隠しきれない怒りが混じっている。極上だ」
白妙は袖の中で印を結ぼうとした。だが、その指を尾が絡め取る。柔らかく、熱く、強い。
「その細い指で、この後宮ごと焼き払えるくせに」
九尾の声が、笑う。
「よくもまあ、盆ひとつ持てない女官を演じ続けたものだ」
白妙の喉が引きつった。封印の奥で、火が揺れる。
使ってはいけない。
力を使えば、また誰かを壊す。妹の目。妹の耳。妹の声なき悲鳴。白妙は震える唇を開いた。
「……あなたは、紅玉様ではありませんね」
九尾は満足そうに目を細めた。
「ようやく、少し本当の声を出したな」
「何者です」
「名を聞くなら、跪け」
「お断りします」
言ってから、白妙は自分の失策を悟った。無能女官なら、こんな返事はしない。だが、もう遅い。九尾は喉の奥で笑った。
「気に入った」
尾が一本、白妙の腰をさらう。体がふわりと浮いた。次の瞬間、白妙は紅玉妃の寝台へ投げ出されていた。柔らかな褥が衝撃を吸う。帳が落ち、外界が消える。九尾は紅玉妃の美しい顔で、白妙を見下ろした。金の瞳だけが、人ではない。
「私は焔。紅玉の体に宿る、九尾の狐だ」
「……わたくしを、食べるのですか」
「食うとも」
焔は白妙の顎を持ち上げた。だが、唇ではなく、彼が見ているのは白妙の瞳だった。
「肉ではない。お前の嘘を食う」
白妙は息を呑む。
「お前が無能を演じるたび、胸の奥で軋むもの。妹を思い出して、喉の奥に押し込むもの。誰かを助けたいくせに、助けたと知られるのを恐れるもの」
焔の指が、白妙の首筋をなぞった。
「それを寄越せ」
「嫌だと言ったら」
「今ここで、後宮中に叫んでやる。白家の生き残りが、力を隠して女官に紛れているとな」
白妙の血が冷えた。白家。陰陽師の名門。そして、禁術を暴走させた罪人の家。知られれば、千世のいる離宮まで調べられる。妹は守れない。
「あなたの目的は何です」
「退屈しのぎ」
焔は即答した。それが嘘でないことが、なぜか分かった。
「それから、少しばかり腹が減っている。後宮の妃どもに植えられた呪いは苦い。だが、お前は違う。嘘を着込んだ人間は、香りがいい」
「化け物……」
「そうだ。だから、お前も化けの皮を剥げ」
焔の爪が、白妙の首筋に触れる。赤い火が一点、肌に灯った。契約の火だ。白妙はそれを見た瞬間、全身の血が逆流するような恐怖を覚えた。
「やめ――」
「さあ、無能女官」
焔が笑う。帳の外では、倒れた妃が小さく咳をした。助かった命の音が、やけに遠く聞こえた。
「今夜から、お前の嘘は全部、私のものだ」




