第22話「誰も知らない家」
三十二年前の古地図に残された、今は存在しない屋敷。
失われた記録と、消された街の一角。
その場所を見つめたリコは、懐かしい歌の記憶を感じ取る。
少女の過去と、灰の戦争の謎が少しずつつながり始める第22話です。
アンナは笑いながら店へ入り、抱えていた資料を作業台へ置いた。
「今日は修理の依頼じゃないわ」
「なら、何の用だ」
「カインが頼んでいたものでしょ」
アンナが広げたのは、一枚の古い地図だった。
「エルディア旧市街の古地図よ。あの七弁の花について、調べていたんでしょう?」
「……ガリバーから聞いたのか」
「ええ。『私にも話を聞けばいい』って」
「あの爺さん、口が軽すぎる」
「それは本人に言ってちょうだい」
地図に描かれた街並みは、現在のエルディアと明らかに違っていた。
道筋も建物の配置も、広場の形も異なる。今では存在しない区画が、いくつも残されている。
「これは、いつの地図だ?」
「三十二年前。灰の戦争より前のものよ。古書店の地下倉庫に眠っていたの」
「よく見つけたな」
「古書店だもの。伊達じゃないわ」
アンナが少し得意げに顎を上げる。
リコも目を輝かせ、地図を覗き込んだ。
「今と全然違う……」
「戦争のあと、街は大きく造り直されたのよ」
「詳しいな。知っていたのか?」
「戦争があったことくらいはね。この街の人間なら誰でも知っているわ」
「なら、なぜ誰も口にしない?」
アンナは表情を曇らせた。
「触れられたくない人が多すぎるからよ」
「……それだけか?」
「私も戦争のあとに生まれたから、当時のことは詳しくない。でも、古い本を扱っていると妙なことに気づくの」
「妙なこと?」
「戦争そのものについて書かれた記録が、この街にはほとんど残っていない」
カインの眉が寄る。
「戦火で焼けたんじゃないのか?」
「私も最初はそう思ったわ。でも、百年前の市場台帳も、八十年前の議会記録も、もっと古い地図も残っている」
アンナの指が、地図を静かに叩く。
「なのに、三十年前の前後数年だけが、ごっそり抜け落ちているのよ」
カインの脳裏に、羅針盤から流れ込んだ声が蘇る。
『記録を守れ!』
『違う、記録を消せ!』
失われたのではない。
誰かが、意図して消したのだ。
「アンナ。この南側の区画は何だ?」
カインが指したのは、現在の地図では空白になっている南端だった。
入り組んだ路地。その奥に、大きな屋敷の印がある。
「知らないわ。今は倉庫街の裏手になっているはずよ」
「さっき、セレナが近づくなと言った場所か」
「たぶんね。昔は空き地だと聞いていたけれど……」
その時、地図を見つめていたリコの様子が変わった。
「……リコ?」
「ここ」
細い指が、行き止まりの奥にある屋敷を示していた。
「どうした?」
「……知ってる」
カインとアンナが、同時に息を止める。
「何を知っている?」
「分からない。でも……ここ、知ってる」
リコは屋敷の印から目を離せない。
胸の奥で、遠い残響が揺れている。風の音。眩しい光。そして、誰かの声。
「……歌」
「歌?」
「ずっと前に、ここで聞いた気がする」
リコが頭を押さえた。
「無理に思い出すな!」
カインが制すると、リコはゆっくり首を振り、壁を指さした。
そこには、二人で決めた三つの言葉がある。
三、一人で決めない。
「カインも、一緒にいてくれるんでしょ?」
まっすぐな問いに、カインは息を呑んだ。
昨日は、リコがカインを一人にしないと告げた。
今度は、カインがリコを一人にしない番だった。
「……ああ」
リコの肩から、わずかに力が抜ける。
アンナは二人を見つめたが、何も追及しなかった。
カインは古地図を丸め直す。
カインは地図とリコを交互に見た。
「……行って確かめたいか?」
リコは少しだけ迷い、それでも頷いた。
「うん。怖いけど、知りたい」
その答えを聞いてから、カインは古地図を丸め直した。
「分かった。行くぞ」
「どこへ?」
「この屋敷だ」
「今から?」
アンナが眉を跳ね上げる。
「まだ昼だ」
「そういう問題じゃないでしょう。セレナ行政官にも止められたばかりよ」
「だからこそ、今のうちに確かめる。危険なら引き返す」
「……あなたが素直に引き返す姿、想像できないんだけど」
「奇遇だな。俺もだ」
「自覚があるなら直しなさいよ」
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