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9 正妻という名の影

想い合っているからこそ、受け入れねばならない現実もあります。

静にとって、忘れられない選択の夜です。


「静、この堀川の館で、私と一緒に暮らさないか?」


 義経がそう言ったのは、静が堀川の館で三度目の朝を迎えた日だった。


「舞を捨てろと言っているのではない。ただ、今のように時々でなく、静と毎日を共に過ごしたい。……それだけなのだ」


 静はしばらく考えた。義経と愛し合うようになってから、他の館へ招かれることが、ますますいやになっていた。実際、ほとんど出かけてはいなかった。

 静は、思う。

 人間の運命はわからない。「卑怯者と言われてでも生き延びる」と言っていた信一でさえ、あっけなく死んでしまった。

 自分がもう少し早く決心していれば、信一ともっと長く暮らせたのだ。そのことは、今でも静の心の痛みになっていた。今度は、同じ失敗を繰り返したくはない。後悔しないように、少しでも長い時間、義経と一緒にいたい。


 自分は、この世界に来てから、まだ一年と経っていない。その上、義経は、源氏の御曹子と言われている人だ。そんなことを考えると、不安はないとは言えない。

 だが、不安よりも、義経とともに暮らしたいという思いの方が強かった。

 それでも、静はすぐにうなずけなかった。


「……母に……磯禅尼に相談してみませんと……」


 この世界では、静は磯禅尼の娘である。彼女に、母親に対するような愛情を感じているわけではない。しかし、身よりもなく、何も知らない静を助け、白拍子として生活できるまでに育ててくれた恩を考えれば、自分一人で決めるわけにはいかなかった。


「静自身の気持ちはどうなのだ?」


 義経は、静をじっと見つめる。そのまなざしは真剣だった。いいかげんな答えはできない静はそう考えた。


「静も、義経さまと同じ気持ちです。少しでも長く、義経さまと一緒に過ごしたいと思っています」


 義経は、静を抱きしめた。そして静の耳もとにささやいた。


「嬉しいことを、言ってくれる」


 静は義経の胸に顔をうずめた。幸せが身体じゅうに満ちてくる。その時、静は『もうこの人と離れることはできない』と悟った。


「たとえ母が反対しても、こちらへ……。私は、義経さまのおそばにまいります」


「静……」


 義経の静を抱く腕の力が一層強くなった。だが、次の瞬間、義経は静からはなれ、顔をそむけた。


「義経さま……?」


 静は、おそるおそる聞いた。何か機嫌をそこねるようなことをしてしまったのだろうか。

 ふりむいた義経の表情は暗かった。


「すまない、静」


「……何か?」


「静に隠していることが一つある。隠したまま、静にこの館に来てもらおうと思っていた。だが、やはりそれでは卑怯だ。だから言う。それを聞いて、静がいやになれば、この話、断ってくれ」


 静は聞くのがこわかった。何か、おそろしいことを義経が言うのではないか――と思った。


「私は、まもなく正妻を迎えねばならない。鎌倉の兄上が選んだ娘だ。河越重頼という武士の娘だと聞いている。九月には、この館にやってくる」


 静は、磯禅尼が以前に言っていたことを思い出した。

『あんたはしょせん白拍子。義経さまは源氏の御曹子。少しでもお情けがいただけるのなら、ありがたいと思わなくちゃいけないところを……まるで、御正妻にでもおさまる気持ちでいるみたいじゃないか』


 この時代に来て一年足らずの静でも、知っていることがある。それは、有力な武士が何人もの妻を持つのは、家の存続のため。ごく当然のことなのだということだ。

 そして、源氏の御曹子ともなれば、正室に迎えるのは、由緒正しい家の娘でなければならない。

 自分のような白拍子が、正妻になどとなれるはずはない。そのことは、十分理解しているつもりだった。


 理性ではわかっていた。

 ――しかし、感情はそうはいかないらしい。静は胸の中にもやもやしたものがわき上がるのを感じていた。その感情の名前を、静は知っていたけれど……。

 静はそれを押さえ込んだ。決して、この感情に名前をつけてはいけない。そう自分に言い聞かせた。


「何という方ですの?」


 いろいろな思いの末、静が口にしたのは、この言葉だった。


「え?」


 予想していなかった静の言葉に、義経はとまどった。


「正妻になられる方のお名前です……」


「ああ。……美野(みの)という」


「お歳は?」


「……たしか、十七」


「私より、五つもお若いのですね」


「静! 私は、歳のことなど……」


 気にしたことはないと続くはずだったろう言葉を、静は遮り、ふっと微笑んだ。


「私は白拍子です。もとより、義経さまの御正妻になれるなどとは思ってはおりません。武家のお姫さまが、御正妻になられるのは当然のこと」


「静……」


 義経は、複雑な顔をした。


「そんな風に言われると……。自分から言い出したことなのに身勝手だと、自分でも思うが。……情けない気分だ」


「情けない?」


「私が、別な女を妻にすると言っているのに、静は笑っていられるのだな。少しは、嫉妬してくれるかと思った」


 義経は、自嘲気味に笑った。

 静が、必死で名前をつけるのを拒んだその言葉を、義経にいともあっさり言われて、静は思わず叫びそうになった。


『嫉妬するに決まっているではありませんか!』


と。

 しかし、静は、さらに強い気持ちで、その言葉を押さえ込んだ。


「私は、義経さまを困らせたくはありません。頼朝さまのご命令と、私との板挟みになって、義経さまが苦しむところを、見たくないのです」


「すまない」


 義経は、ほっとした様子を見せた。その姿を見て、静は、自分の言ったことが間違いなかったのだ、と思った。

 そう思うことで、義経が名付けてしまったその気持ちを抑えようとした。それは、ほとんどうまくいったが、わずかだけ、外に漏れた。

 それは、静のこんな言葉となった。


「……美しい……方なのでしょうか?」


 ほとんどひとりごとのようにつぶやいたのにもかかわらず、義経はその問いに答えた。


「分からない。会ったこともない」


 その言葉に嘘は感じられなかった。『兄上が選んだ娘』と言っていたから、全く面識はないのだろう。けれども、源氏の御曹子の妻として選ばれた娘だ。


「きっと、武家の御正妻にふさわしい方なのでしょうね」


「知らん! だいたい、美野がここに来る目的は……」


 義経は不意に言葉を切り、表情を曇らせた。それがあまり唐突だったので、静は急に心配になった。


「何か、あるのですか?」


「いや、なんでもない」


 そう言って義経は笑った。しかし、その笑顔にどこか無理があると静は感じていた。


「静……」


 義経は、静を抱き寄せてきた。

 静の脳裏には、表情を曇らせた義経の顔と、無理に笑った顔が交互に浮かんだ。

 それが気になって、素直に義経の腕に身をまかせられない思いがあった。しかし、一度演じてしまった物わかりのいい静の演技をやめるわけにはいかなかった。

 静は、まるで自分が舞台の上に立っているような気持ちになりながら、義経に向かって微笑んで見せた。


 夜中に、静は目が覚めた。

 隣では、義経が規則正しい寝息をたてていた。

 喉の所に、何か塊がつかえているような気がする。それは、美野の話を聞いてから、ずっとそうだった。


「御正妻……」


 つぶやいた瞬間、喉元の塊が溶けだした。それは、涙となって静の頬を流れた。


『声を出してはいけない』


 静はそう思ったが、嗚咽はどうしても抑えられない。

 胸の中で渦巻いていたものは、明らかに美野に対する嫉妬だった。それを無理に押さえて、物わかりのいい女を演じてはいたが、もう限界に来ていたのだ。


 つい、昨日まで、静は、自分は恋に溺れる女ではない、と思っていた。舞台上で、情熱的な女性を演じるとき、どこか違和感を感じていたから。

 だから、現実で人を愛することがあっても、それは、静かな感情で、燃えるような恋ではないだろうと思っていた。嫉妬に狂う自分を、想像したこともない。


 だが、そうではないということが、今日思い知らされた。

 義経が自分以外の女をその胸に抱く――。そう考えただけで、嫉妬で気も狂いそうになる。切なくて、涙があふれてくる。

 だが、この気持ちは義経には隠さなければならない。正妻を迎えることは、義経の意思ではどうにもならないことなのだから、義経を困らせてはいけない。

 そう思っても、涙は止まらなかった。


『ここにいては、義経さまを起こしてしまう』


 静は、そうっと、床の上に起きあがった。


「どこへ行く?」


 その瞬間、義経が声をかけた。

 静は、返事ができなかった。声を出せば、泣いていることがわかってしまう。

 黙っていると、義経は起きあがり、静の顔をのぞき込んだ。

 暗闇の中で目を凝らしているらしい。不意に、義経は静の頬に手をふれた。


「泣いているのか?」


 義経に言われ、静はあわてた。


「い、いいえ」


 しかし、声は静の答えを裏切っていた。


「正妻を迎えると聞いて……もう、義経のことがいやになったか?」


「いいえ!」


 静は、言った。義経のそばを離れるなど、決してできないことを、静は知っていた。


「御正妻のこと、不満になど、少しも思っていません。静は、義経さまのおそばにいられれば、それだけで……」


 言葉はそれ以上続かなかった。押し殺していたものが、一気に吹き出たように、静は声を上げて泣き始めていた。


「静……」


 その時、はじめて義経は、静の本心を悟ったのだろう。その苦悩する表情から、静の心中を見抜けなかった自分を責めているのが分かる。

 義経は、ふたたび静を抱きしめた。


「私が妻と思っているのは、静一人だ。兄の命令だから、美野を正妻として迎えるが、本当の妻は静ただ一人だ。それだけは、信じてくれ。それでも、静が許せないというのなら、堀川館に移る話は、断ってくれていい」


 言葉はそう告げていたが、義経の声音からは「断らないで欲しい」という思いが伝わってくる。

 静は、義経の胸に顔を埋めたまま言った。


「まいります、堀川館に」


 静の言葉に、義経がほっと安堵するのを感じた。

 それでも、静は、義経の言葉通りになると信じてはいなかった。義経自身を信じていないのではない。この時代の武家の習いが、義経にそうさせないだろうと、考えたからだ。

 ただ、今だけでもそう言ってくれる義経の気持ちはうれしく、この館に住むことを選んだ自分は、正しかったのだと、思っていた。


 『恋に不器用』と言われた義経だったが、決断を下した後の行動は早かった。

 義経は、翌日のまだ早い時間に、磯禅尼のもとへ行き、承諾を得た。

 それは、正妻よりも、一日でも早く静を堀川館に迎えよう、という義経の配慮からだった。


 まもなくやってくる北の方と一つ屋根の下では居心地が悪いだろうと、義経は、堀川の館の敷地内に、静の住む小館を作るよう指示した。

 約半月後、静は堀川館の中の小館に移る。

 身の周りの世話をする少女が二人、一緒に暮らすことになった。それは、静が一人でも淋しくないように、との義経の心遣いだった。けれども、その心遣いは無用だった。ほとんどの夜、義経は、本館ではなく静のいる小館で過ごしたから……。


 九月に、正妻の美野が輿入れして来た。武家の娘というので、静は、なんとなく女丈夫を思い浮かべていた。けれど、静の予想ははずれていた。

 遠目に見た美野は、まだあどけなさを残す大きな瞳の持ち主で、黒髪もつやつやと美しかった。意外な姿に、静は自分がうろたえているのを感じた。

 義経の「愛するのは静だけだ」という言葉は信じている。

 信じているが……美野の姿は、静の胸に不安をよぎらせるには十分なくらい、愛らしかった。


 輿入れの夜、静は早々に寝支度をした。今夜、義経が来るとは思えなかったし、いつまでも起きていると、嫉妬からよくない想像ばかりしてしまいそうだったから。

 早く床について、できるだけ早く寝てしまおう。静はそう考え、床に入り目を閉じたが……。やはりなかなか眠れなかった。床の上でさんざん寝がえりをうっていた静が、ようやく眠りについたのは夜更けだった。


 その浅い眠りも、すぐに物音でさまたげられた。静が起き上がり様子を見にいくと、義経が立っていた。


「義経さま!」


 静が驚き声をかけると、義経は何も言わず、静を抱きしめた。静が何か言おうとすると、その唇を自分の唇でふさいだ。


ご覧いただき、ありがとうございます。

正妻を迎えるという現実と、想いを交わした二人の関係が、これからどのように揺れていくのか――

見守っていただけたら嬉しいです。

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