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10 嵐の前、やさしい日々

この回は、義経と静が過ごした、つかの間の穏やかな時間を描いています。

やがて動き出す運命の前にあった「静かな秋」を、お読みいただければ幸いです。


 義経と静にとって、この秋は、決して平穏なものではなかった。

 美野が輿入れをする少し前、義経は「左衛門少尉検非違使」という役職に就いた。

 その時の義経は、とてもうれしそうだったのを、静はおぼえている。

 いつも、義経は、静には政事についてはほとんど話さない。それでも、このときは、


「左衛門少尉検非違使に任官した。六位の尉だ。頼朝殿は、右兵衛の佐、正四位下、範頼(のりより)殿は、三河の守で、従五位下。一門の誉れだ。きっと、兄上も喜んでくれるだろう」


 範頼というのは、頼朝の弟、義経の兄にあたる人である。義経とともに、この年の一月、義仲を倒し、また、一ノ谷で平氏を敗走させている。

 静には、義経の言っている位が、どのくらいのものなのかわからない。ただ、兄たちの後を追う形で名を連ねたことが、何より誇らしかったのだろう、と感じた。

 だから、祝いの言葉を述べた。


「おめでとうございます」


 と。

 その夜は、義経は終始機嫌が良く、いつもより少し多く酒を飲み、早々に寝てしまった。その寝顔を見ながら、静は、『この幸せが、いつまでも続けばいい』と思った。だが、このままではすまないことは、静にもわかっていた。

 平氏は屋島というところに行宮を営んで、京都奪回を狙っているらしい。いずれは、源氏と平氏の戦になるのだろう。そうなれば、義経が戦に参加しないはずがない。


『戦ではなく、話し合いで解決はできないのかしら? 同じ日本人なのだもの』


 静は、心ひそかにそう思っていたが、義経に言うことはできなかった。義経が、父の仇として平氏を憎んでいることを知っていたから。

 翌朝、静は物音で目が覚めた。義経が起き出して、身支度をしていた。


「義経さま!」


 静は、飛び起きた。


「すみません。気づきませんで」


 あわてる静に、義経は微笑んだ。


「いや、まだ早い。静は寝ていてよい。急に出かけねばならない用事ができたのだ」


「……戦ですか?」


 静は、全身から血の気が引いていくのを感じながら訊いた。


「そんな大げさなものではない。平氏の残党が、京都に潜伏しているとの知らせがあってな」


 静が黙っていると、義経は、ふたたび微笑んだ。


「静は、何も心配しなくてもよい。遅くとも、明日には帰る。安心して待っていてくれ」


 義経はそう言うと、静の唇に、自分の唇を軽く重ね、出ていった。

 静は、義経の言葉を信じ、待つことしかできない自分を、半分歯がゆく思った。だが、もう半分では、義経がしていること――おそらくは血生臭い――には、目をつぶり、心優しい義経だけを見ていたいと思っていた。

 

『遅くとも明日には……』と言っていた義経だったが、その日の深夜には、戻ってきていた。

 もの騒がしさに目覚めた静が、小館の玄関まで出たとき、戸が開き、義経が入ってきた。


「義経さま!」


 静が驚いたのは、義経が鎧兜に身を包んでいたからではなかった。静が驚いたのは、その目だった。義経の瞳は異様に光り、いつもの優しさがみじんも見られなかった。

 そして、明らかにわかる血の臭い……。


「どうした?」


 義経は微笑んだ。その瞬間、義経の瞳は、いつもの優しい色に戻っていた。しかし、静は、少し前までのあの異様な光が、自分の見間違いでないことは、確信していた。


「そうか。鎧姿は、静は初めてか」


 義経は部屋に入りながら言った。


「一度、向こうに戻って着替えてからとも思ったが、早く静に会いたくてな」


「ご無事で、何よりです」


 そうつぶやくように言うと、静は義経が鎧を脱ぐのを手伝った。

 劇団にいたとき、男役の七重が鎧を着るのを手伝ったことがある。しかし、それは舞台衣装だったので、軽くて、しかも脱ぎ着がしやすいようにできていた。

 義経の鎧は、頑丈で、かなり重かった。その上、いたるところに、点々と血がついている。


「女には、無理だ」


 静が鎧を持ち上げようとすると、義経がさえぎり、それを自分で片づけた。


『人を……誰かの命を、奪ったのだろうか……?』


 そんな考えが静の頭をよぎった。だが、その疑問を口にすることはできなかった。

 風呂場で、義経の背中を流しているとき、静は、彼の腕に刀傷を見つけた。静が気づいたことを悟ると、義経は言った。


「大丈夫、かすり傷だ」


 静が黙っていると、義経は笑った。


「この程度の傷は、武士には、日常茶飯事。すぐに治る」


 風呂から出て、やっと血の臭いのしなくなった義経に、ほっとしながら、静は傷の手当をしていた。その静を見つめていた義経は、ぽつりと言った。


「静は、何も訊かないのだな」


「え?」


「普通は、首尾はどうだったかと訊くものだが……」


「すみません」


 静は謝った。

 しかし、今日義経がしてきたことは、聞きたくなかった。平氏の残党がどうとか、と言って出ていき、血の臭いをさせて帰ってきたのだ。義経のしたことは、世事にうとい静にも、推察できる。

 そんな血生臭い話には、目をつぶりたい――というのが静の本音だった。


「謝ることはない。静はそれでいいのだ」


 そう言うと、義経は静を抱き寄せた。

 静の脳裏に、一瞬だけ義経が見せた、あの異様な光の目が浮かび上がった。しかし、静はかたく目をつぶり、その光景を頭の中から追い払った。

 義経の胸に顔をうずめ、静に見せる義経の優しい目、笑い声、抱き寄せるあたたかな腕、そんなものだけで心の中をうめようと、静は、必死になっていた。


 義経のしたことは知りたくないと思っていた静だったが、その願いは、次の日にあっさりと破られてしまった。

 磯禅尼が「お祝い」と称してやってきたのだった。


「もう、都中、義経さまの噂で持ちきりですよ。どうか、ご活躍のご様子を、お聞かせ下さいましな」


 遠慮なく、静の小館にずかずかと入ってきた磯禅尼は、そこに義経がいることを知ると、媚びた笑みを見せながら、そう言った。


「お母さん」


 静は、磯禅尼をたしなめた。


「義経さまは、昨夜遅くお帰りで、お疲れなのよ」


 それはもちろん、義経のことを気遣っての言葉だったが、半分は、昨日のことを聞きたくないと言う思いからだった。


「かまわないさ」


 磯禅尼が返事をする前に、義経が言った。


「あの程度のことで、疲れたりはしない」


「ほら、ごらん」


 勝ち誇ったように磯禅尼は言い、義経の話を待っている。

 義経は、昨日の一部始終を話し始めた。磯禅尼が根ほり葉ほり訊くので、聞きたくないと思っていた静でさえ、昨日のことが手に取るようにわかってしまった。


 それは、こういうことだった。

 前月の七月に、以前から不穏な動きを見せていた平家の残党である伊賀平氏が、叛乱を起こした。それは、伊賀守護が鎮定したのだが、その叛徒の中で、京都に隠れたものが何人かいた。

 義経は、頼朝から、平氏の残党が京都にいれば直ちに捕殺するようにとの命令を受けていたので、昨日の早朝、出かけていったのだ。


「それで……」


 磯禅尼は身を乗り出した。


「もちろん……」


 義経が言いかけたとき、静はもう耐えられなくなり、席を立った。このあとは、どうしても聞きたくなかった。

 言い訳もせずに、部屋を出た静を見て、磯禅尼はあきれたように言った。


 「いったい、どうしたっていうんだろうね。これからいいところだっていうのに」


「静は、血生臭い話が嫌いなのだ」


 義経は微笑んだ。


「おやまあ。そんなことじゃ、義経さまのお相手はつとまらないだろうに」


 磯禅尼は『仕方のない娘だ』といった顔をして見せたが、義経は、首を横に振った。


「静は、あれでいいのだ。殺戮は、静には似合わない。静には、花や鳥、草木といった美しいものが似合うのだから……」


 静は、庭の水辺まで駆けていった。池の水面をながめると、そこに、昨夜の義経の顔が浮かぶ。静は、それを消すために、水面に手を入れ、波を立てた。

 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。静が水辺で魚を見つめていると、聞き慣れた足音が背後から聞こえた。

 静は立ち上がり、ゆっくりとふりかえった。

 そこには、いつもの優しい義経の笑顔があった。


「よい形の鯉がいるか?」


「はい」


 静は答え、水中の一匹の鯉を指した。


「なるほど、いい形だ。泳ぐ姿も美しい」


 水辺に座りこんだ義経の隣に寄り添う。

 悠々と泳ぎ回る鯉の影が、池の底で同じように泳いでいた。

 たとえ、昨日人を殺していようとも、今のこの優しい義経が、義経本来の姿なのだ――そう信じたい。いや、信じよう、静は自分に何度も、言い聞かせていた。


 八月の半ば過ぎから、義経の機嫌は目に見えて悪くなっていった。

 義経は、静には何も言わなかったし、静も訊かなかった。二人の間では、政事や戦の話をしないというのが、二人の暗黙の了解となっていた。

 だが、静は知っていた。まわりの様子でも何となく察せられたし、頼みもしないのに、磯禅尼はときどきやってきて、京の噂話を事細かに教えてくれた。

 それらを総合すると、こういうことだった。


 義経が、平氏の残党を捕殺したのと同じ頃、範頼が鎌倉を発った。源氏軍を率いて、西国の平氏を討つためだった。

 これには京都の庶民までもが驚き、不満をもらした。二月の一ノ谷の戦いで活躍したのは義経だった。その義経を京都に残したまま、大した戦功のなかった範頼だけに追討の将軍を命じるのはおかしいと、誰もが思った。

 この軍勢は、朝廷から追討使の官符を下され、西海へ向けて、京都を出発した。

 義経は、見送りに出ていたが、帰ってきた夜は、いつになく荒れていた。


 美野が嫁いできたのは、その半月後。

 その後、義経は従五位下という位を受け、昇殿を許されている。また、新天皇の即位の大嘗会の先陣も務めた。

 美野という正妻が来ても、義経の生活は変わらず、ほとんど毎晩を静の小館ですごしていた。


 そうやって秋も深まり、冬がやってきた。

 相変わらず二人の話題は、とりとめのない世間話や子どもの頃のこと、季節の風物のことなどだった。

 義経の暇な午後などは、義経の笛に合わせて静が鼓を打ったりもした。鞍馬山での稚児時代に習ったという義経の笛は、なかなかのものだった。


「静といるときが、一番心が休まる」


 笛をしまうと、義経が言った。


「周りの者はうるさすぎる。いつ戦へ発つのかとか、任官についての不満はないのか、とか」


「静は、戦のこととか、全くわかりませんから」


「静はそれでいいのだ。静といるときくらい、めんどうなことは忘れていたい」


 静は、ほっとした。戦に行けずに鬱々としている義経には悪いと思うが、今が一番幸せだった。

 磯禅尼が何と言おうと、世間が何と言おうと、静は義経に戦に行ってほしくなかった。誰か別の人が戦って、それで戦が終わるのなら、それが一番いいと思っていた。

 庭の紅葉を眺めながら、とりとめのない平凡な……だが、心安まる言葉を交わし微笑む――そんな義経の姿だけを、見ていたかった。

 もちろん、そんなことは義経には言えない。

 義経が、いつ命令が来てもいいように、戦の準備を秘かにしていることも、薄々感づいてはいる。けれども、静は、こんな日がずっと続けばいいと、心の中で願っていた。


 年が明けて間もなく、まだ目覚めたばかりの静と義経のもとへ、郎等の佐藤忠信が駆けこんできた。


「御大将! 御大将!」


「何事だ、騒々しい」


「御出陣の命にございます! たった今、鎌倉よりの使者が!」



静は、義経のすべてを知ることを選びませんでした。

それが弱さなのか、優しさなのか――

次回、その選択が試されることになります。

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