8 明けぬ夜の約束
まだ、夜は明けていません。
けれど、二人の心は、もう引き返せないところまで来ていました。
その後、静は、何度も義経の館に呼ばれた。
義経の館を訪れる回数が増すごとに、静は、他の人の館に行くのが嫌になっていた。
義経と過ごす時間が、今の静にとって一番心休まる時間になっていた。そして、それは、義経にとっても同様のはずだった。
しかし、二人きりになるということは、一度もなかった。いつも、義経の郎等たちは大勢いたし、磯禅尼や仲間の白拍子たちも同席していた。
仲間の白拍子の中には、義経の郎等と親しくなって、恋人同士になるものもいた。
しかし、義経は、静に話し相手以上のことは望まなかった。夜が更けると、義経は自室に戻り、静も自宅に帰っていった。
『義経さまが求めていらっしゃるのは、心を慰めてくれる舞を舞う私』
それは、静自身が求めていたことで、喜ばしいことのはずだった。けれど、舞手としか求められていないことを淋しく思う自分にも、静は気づいていた。
義経に呼ばれれば嬉しい。けれど、それと同じくらい苦しい。
それでも、義経に呼ばれれば、堀川の館を訪れないわけにはいかない。
そんな日々を重ねていたある日――。
静が、自室でぼんやりもの思いにふけっていると、磯禅尼が入ってきた。
「静、今日はお二人からお誘いがかかっているんだよ」
「どなたですか?」
「猫間さまと、義経さま……もちろん、義経さまの方だよねぇ……」
磯禅尼は、からかうような口調で言う。静は黙ってうなずいた。
「けどさ、いったいあんたたち二人はどうなってるんだい? お館へ伺えば、義経さまは静を片時もおそばからお放しにならないというのに、夜になるとさっさと帰してしまう」
それは、静自身が知りたくもあり、また、絶対に聞きたくないことでもあった。
静が答えられずにいると、磯禅尼は続けて尋ねた。
「二人で、いつも何の話をしてるのさ?」
「いろいろなことです。義経さまの子どもの頃のお話とか、鞍馬の山の木や、動物や鳥のこととか……」
「はぁ……」
磯禅尼はあきれてため息をついた。
「義経さまからお誘いがないのなら、静の方からほのめかしてみたらどうなのさ」
「そんなこと……」
「また……。あたしの前でうぶなふりをすることはないって言ってるだろ」
静は、腹立たしくなった。
磯禅尼は、ことあるごとに『うぶなふりをするな』と言う。しかし、静は「うぶな」ふりをしているつもりは、全くない。子どもを産もうが、夫に死なれようが、静は恋愛に慣れてはいない。
男っ気のない女性ばかりの劇団で青春を過ごした。
信一が初恋で、しかも、夫婦だったのは五日足らず。
舞台の上で恋を演じたことは多々あったけれど、相手は男を演じている女性。しかも、描かれていることは、現実ではなく夢物語。そんな自分に、何ができるというのだろう。
静が黙っていると、磯禅尼は、重ねて言った。
「前の男の時は、どうだったのさ?」
「え?」
「あんたの死んだ子どもの父親さ。どっちが誘いかけたんだい?」
静は、ふたたび口を閉じた。磯禅尼の口から出ると、信一との関係も、何か汚らわしいもののようになってしまう。
「どうなのさ?」
そんな静の気持ちにおかまいなしに、磯禅尼はしつこく訊いてくる。
「それは……」
『お見合いです』と言おうとして、この時代にはなかったかもしれないと思いなおした。
「……家が隣同士で……小さい頃から一緒に遊んでいて……」
静は、言葉を選びながらぽつりぽつりと言った。だが、磯禅尼は、勝手に納得してしまった。
「筒井筒ってわけか」
磯禅尼の言葉の意味が、静にはよくわからなかったが、聞き返す気にもならずに、黙っていた。
「だけどさ、あんた、義経さまのことは好きなんだろ?」
単刀直入に磯禅尼は訊いてきた。
静はうなずいた。他人に言うことではないと思いながらも、静にはうそはつけなかった。
「義経さまなら、お相手としても申し分ないし。ご様子から見て、静のこともお気に召しているようだし。自分から、言ってみたらいいのさ」
「そんなこと……できません」
「まったく、こういうことになると、まるで意気地がないんだね。法皇さまにたてついたあの勇気は、どこへいったのさ」
「あれは、舞のことでしたし」
磯禅尼は、突然大声を出した。
「そうか! わかったよ!」
「何がですか?」
静がびっくりして問い返すと、磯禅尼は言った。
「あんたたち二人が、気の合うわけがさ。静は都一の舞の名手……これは間違いないよ。このあたし、磯禅尼が言うんだからね。舞なら誰にも負けない。だけど、他のことはだめ……特に恋はね。義経さまもきっと同じなんだよ。あの方は戦の天才。戦に出れば、どんな相手でも倒してしまう。だけど、やっぱり不器用なんだよ。他のことは、きっとだめなのさ」
「そんな……」
自分はともかく、義経には失礼だと思い、静が反論しようとするのを、磯禅尼はさえぎった。
「恋に不器用な者同士じゃ、仕様がないね。あたしらが、何とかしてやんなくちゃね」
磯禅尼はそう言い残すと、部屋を出ていってしまった。残された静は、ぼんやりと、
「何とかするって……どうするつもりなのかしら……」
と考えた。見当もつかなかった。しかし、自分と義経の関係を、磯禅尼がぶちこわしにしてくれないことだけを、祈っていた。
その夜、静は一度だけ舞うと、いつものように義経の隣に座った。
今日は、子どもの頃の川遊びに話が興じた。二人とも、夏は川で遊んだことがあり、泳ぎもかなり上手ということがわかった。
話が一段落ついて、ふと気づくと、部屋には義経と静の二人だけになっていた。
話の途中で一人出ていき、二人減り……というようで、結局全員姿を消していた。静もそれには気づいていたが、いずれ戻ってくるものとばかり思っていた。義経も同じように考えていたらしいし、話を中断したくもなかったのだろう。
話が、一区切りついてみて、もう誰も戻っては来ないということに、ようやく二人とも気づいたのだった。
「みんな。どうしたのでしょう」
静はうろたえた。義経と話し始めると、周りが見えなくなるくらい夢中になるけれど、実際誰もいないというのは、また別だった。
「……継信たち……はかったな……」
「継信さま?」
「私の郎等の佐藤継信です。弟の忠信と二人で、しめしあわせて、こんなことをしたのだろう」
静が黙っていると、義経は続けて言った。
「継信たちは、私のことを歯がゆいと思っているのです」
「歯がゆい?」
義経は静をじっと見つめた。親しげに言葉をかわすことは多くても、こんな風に見つめられたことはなかった。
頬が熱くなるのを、静は感じた。
「私に、勇気を出せと、継信たちはいつも言っていたのです。静御前と、ただ世間話をするだけでなく、自分の想いを告げるべきだ――と」
静は、自然に涙があふれてきた。でもうつむきはしなかった。まっすぐに義経を見つめた。
義経は、そっと静の手を取った。
兼実の館では、静の肩を抱いてくれたが、その後、義経は静に触れることはなかった。
あれは、泣いている自分を慰めてくれただけだと、静は思っていた。
義経は、静の涙を拭いながら言った。
「ずっと、静のことを想っていた。神泉苑で静の舞を見てから」
「静も……。私の舞を認めてくださったときから、義経さまが」
消えいるような小さな声だった。けれど、義経の耳にはちゃんと聞こえていた。
「静……」
義経は、静の身体を自分の方へ引き寄せた。少しも強引なところのない、優しいやり方だった。
静も、自分から義経に身をあずけた。そのとき、静は磯禅尼の『あたしらが何とかするから』という言葉を思い出した。だが、もうどうでもいいことだった。静はその言葉を心の隅に押しやった。今、静の心は、義経でいっぱいだったから……。
義経の寝所の床の中で、帯にかけられた義経の手を、静はそっと押さえた。
「……いやか?」
義経は穏やかにたずねた。静は首を横に振った。
「この前、右大臣さまのお館で、お話ししましたように……」
義経は、帯にかけた手を引いて、言った。
「……子どもを亡くしたことか?」
「……それでも、よろしいのでしょうか?」
「何が?」
義経は、本当に分からない、という顔をしていた。
「私は、母の、磯禅尼が皆さまに言っているような女ではないのです」
「磯禅尼が?」
義経は、言葉を切った。磯禅尼の言ったことを思い出そうとしているようだった。
「ああ……」
義経は、ようやく思い出した、と言う風に言った。
「静はうぶだとか何とか……」
「はい」
「それでは、訊くが……」
義経は真剣な目をして言った。
「静は、死んだ夫以外の男と、契ったことはあるのか?」
「いいえ!」
静は、思わず大きな声を出した。義経に、そんなことを訊かれるとは、思ってもみなかった。
「死んだ夫に操を通していた。そうだな?」
「……はい」
「私が、いかに世事に疎くとも、白拍子の身でそれを守り通すことが、どんなに難しいかくらいはわかる。ならば、何を恥じることがある?」
「私は、恥じてなどいません」
静は、きっぱりと言った。信一を愛したことも、信夫を産んだことも、一度だって後悔したことはない。
「では、何故、私に、自分でもいいのかなどと訊くのだ?」
「それは……」
義経は、静の答えを待たなかった。
「夫がいたことも、子どもを産んだことも、どちらも恥になることではないだろう。二人とも亡くなってしまったのは哀れだが……。静の罪ではあるまい」
「義経さま……」
「そういう悲しみを乗り越えてきたから、今の静があるのだろう? そして、私は、今の静に惹かれた」
静はそのとき悟った。
義経という人間は、静が想像していた以上に、広い心の持ち主なのだ。過去や形式にとらわれない、人間の本質を見抜くことができる人だということを。
静が物思いにふけっているのを、義経は勘違いをしたらしい。
「それとも……やはり、私ではだめなのか? 亡くなった人が、忘れられないか?」
と、たずねた。静は、首を横に振った。
「いいえ。義経さまと出会えて、静は幸せだったと……そう思います」
「私も……静と出会えて、幸せだったと思っている」
義経は、静を抱きしめた。静も今度は逆らわなかった。
義経の動きは、どこまでも優しさにあふれ、そして何より誠実だった。
静は、その優しさに身を委ねる幸せを感じ、義経が与えてくれる温かさを心の奥深くに受け止めた。
義経の手でぬぐわれて、静は初めて自分の頬の涙に気づいた。
義経は、優しく微笑んでいた。静が微笑み返すと、義経は唇を重ねた。
鳥の鳴き声が、朝を告げていた。
静は目をあけた。昨夜は暑かったし、ほとんど寝ていなかった。
昨夜の出来事を思い出し、静は一人で頬を染めた。
静が、そっと身を起こすと、となりに寝ていた義経が目をあける。
「申し訳ありません。起こしてしまいましたか?」
静は言った。昨夜は、義経もほとんど寝ていないはずだった。
「かまわないさ」
義経は言い、静を後ろから抱きしめた。
「いけません。もう朝です」
静が言うと、義経は笑った。
「まだ、明けていないよ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次回から、物語は少しずつ、歴史の流れに飲み込まれていきます。




