6 謡に託す想い
舞は、ただ美しいだけのものではありません。
言葉にできない想いを、謡に託すこともあるのだと、静はこの夜、知ることになります。
多くの男たちが静に誘いをかけ、それを静が断ったり、時には出かけて行って舞ったりという日々が過ぎていった。
そんなある日、磯禅尼がめずらしく興奮して静のもとに来た。
「静! 静!」
「お母さん、そんなにあわてて、どうなさったのですか?」
静は少し驚いて言った。磯禅尼がこんなに取り乱すのは見たことがない。
どんなに身分の高い人から話があっても、磯禅尼は余裕のある態度を見せていた。
「お呼びだよ! 義経さまから! 静御前の舞が見たいって!」
「義経さま……」
静の脳裏に、義経の顔が浮かんだ。色白で細面の顔、すずしげな眉、優しい光をたたえた瞳、そして澄んだ声……。
「行くだろう? もちろん?」
磯禅尼は、めずらしく心配そうな口調で言った。静が断るのをおそれている様子だった。
「行きます。神泉苑でのお礼も、申し上げなければいけませんから」
静は、きっぱりと言った。
静の舞を、義経は盃を持つ手を止めて、じっと見つめている。その視線を感じながらも、静は心をこめてていねいに舞った。
舞い終わると、静は義経のすぐ隣に座った。他の白拍子たちも、それぞれ義経の郎等のそばに座っている。
ここは、堀川にある義経の館だった。静たちを待っていたのは、義経とその郎等たちだった。
「静、お酌を……」
磯禅尼が小声で言う。静は、瓶子を取って義経に酒をついだ。静は、この酒の酌というのが好きではなかった。できれば、舞を見せるだけですませたいと、いつも思っていた。だが、今日はそれほどいやでもなかった。
「静御前は、どんなときでも同じように舞うのだな」
義経が声をかけてきた。
「同じように?」
意味が分からず静が問い返すと、義経は言った。
「神泉苑での舞も、今日の舞も、同じように心を込めて舞っていると感じたのだ。見せる相手が、法皇さまを始めとするたくさんの人々でなく、ただの武士だけでも、場所が、神泉苑でなく、この堀川の館であっても、決して手を抜いたりしない。静御前の舞は都随一と言われているらしいが……。私は舞に詳しくないのでたいそうなことは言えない。ただ、静の舞は……心に響く」
静は突然、涙があふれてきた。自分の舞をそんな風に認めてくれる人はいなかった。いくら舞上手の評判がたっても、実際に自分を呼ぶ人たちは、舞が目的ではなかった。
だから、舞も真剣には見てくれない。どうしたらそのあと、静を夜の相手にできるか……そんな下心ばかりが見えた。もちろん、白拍子という仕事をしている以上、しかたのないこととは思っていたが、静は、舞を評価してもらいたいと、ずっと思い続けていた。
静の涙を見て、義経はあわてた。
「何か……悪いことでも言ったか?」
「いいえ……いいえ」
静は涙をふき、答えた。
「うれしかったのです。静の舞をそのように見てくださった方は、今までありませんでしたから……」
「いや、私には、舞のことはよく分からない。ただ、静御前は、舞がとても好きなのだなと思っただけだ」
「ありがとうございます。そう思っていただけることが、何よりです」
静は頭を下げた。義経は少し照れたような顔になった。
「神泉苑でのお礼も、まだ申し上げておりませんでした」
静が言うと、義経は、
「お礼?」
と聞き返した。
「神泉苑で、法皇さまのお怒りを受けそうになったところを、助けていただきました」
「ああ……」
義経はうなずき、言った。
「あれは、静御前が正しかったのだから、当然のこと……」
「けれど、義経さまのお口添えがなければ、おしかりを受けるところでした」
義経はそれを聞くと、笑って言った。
「法皇さまは、決して短気なお方ではない。美しい白拍子を、少し揶揄ってみたいと思し召しだったのだろう。けれど、あなたが生真面目に、まっとうな返答をしたから、引っ込みがつかなくなって、私に言葉をかけたのだよ」
「そうでしょうか……」
それから、二人の話ははずんだ。とりとめのない世間話や、天候のことなどだったが、静は楽しかった。
「やはり、春が一番好きです。長い冬の後、突然『ああ、春なんだなあ……』と感じる日が好きなんです」
と静が言えば、義経は、
「そうだな。川に手を入れたとき、水の冷たさが快く感じる時が、春なのかもしれない」
と言う。物の感じ方、受け取り方がとても近い人――。二人はお互いを、そんな風に感じていた。
その夜、義経は静をひきとめなかった。
「静をずいぶんお気に入りのようだったのに、義経さまは、なぜおひきとめにならなかったのだろう」
磯禅尼は首をかしげ、不満そうだった。しかし、静はほっとしていた。
義経に心惹かれている。今まで会ったどの男性よりも……。けれど、今日、すぐというのは、やはりためらわれた。誘われれば、断っていただろう。
断りの言葉を口にしなくてすんだことに、静はほっとしていた。しかし、それ以上に、白拍子にさえ簡単に手を出そうとしない義経の真面目さにも、好感を持っていた。
暑い夏だった。
静の評判は衰えることはなく、毎日のように、どこかの館に呼ばれていた。
義経が、二度目に静を呼んだのは、はじめての日から、十日も経ったときだった。
「あまりお声がかからないから、このままお見限りかと思ったよ」
磯禅尼は、また、興奮した顔をして言った。
義経は、今や、京の花形、時代の寵児なのだ。計算高い磯禅尼さえ、誰に呼ばれるより、義経に声をかけてもらえることを喜ぶ。
しかし、静は素直に喜べない自分を感じていた。
はじめて堀川の義経の館に行ってから、十日が経っていた。
その十日間、静は、いつもいつも義経のことばかり思っている自分に気づいていた。自分は、義経に惹かれているのだろう。
義経が名もない武士なら、静は、自分のそんな気持ちを素直に受け入れたかもしれない。だが、そうではない。義経は、今、京で知らない人はいないくらいの人気者、いや、それ以上だ。雲の上の人と言っても過言ではない。
――自分はただの白拍子。
「磯禅尼の娘」ということになってはいても、真実は、時代の流れを越えて、不意にこの世界に来た異邦人だ。そんな自分が、義経を想ってみて、どうなるのだろう。
静は、堀川の館に行くことをためらった。会えば会うほど、自分は義経を好きになってしまうだろう。想ってもかなわない人を恋いこがれる苦しさは、舞台の上では何度も演じてきたけれど、自分自身の経験はない。
静は、その苦しさを受け入れるだけの勇気がまだ出なかった。
「もちろん、行くだろう?」
当然のことのように、磯禅尼は言った。
「どうしようかしら?」
静が言うと、磯禅尼は、本心から驚いたように、声を上げた。
「行かないってのかい! どうして?」
「……」
静が黙っていると、磯禅尼はたたみかけるように言った。
「義経さまのどこが不満だって言うのさ? あんたのいやがるようなことは、何一つなさらなかったじゃないか!」
「義経さまに、不満なんてありません。噂通りの、素晴らしい方だと思っています」
「そうだろ。あんただって、義経さまとお話ししているときは、とても楽しそうだったじゃないか。舞を舞っているとき以外で、あんたのあんな楽しそうな顔は、はじめて見たよ。あたしは、てっきりあんたも義経さまを好きなんだと思ってたけど」
「私もって……?」
磯禅尼は、にやっと笑った。
「義経さまだって、あんたのことをお気に入りだったと思うよ。だいたい、あの方は堅物との評判で、白拍子を招くなんてことは、今までになかったんだ。だけど、この前は、静をお側からはなさなかったじゃないか」
「それは……お話しをしていただけです」
静はうつむいた。
「話だけじゃ、不満だったってことかい?」
「そんなこと!」
静が抗議の声を上げようとすると、磯禅尼は、ふたたび笑って言った。
「何を小娘のようなことを言ってるんだい。子どもまで産んだことのある女がさ。あたしの前で、うぶなふりをしたって無駄さ」
「そんな……」
静は悔しかった。
信一を愛したこと、信夫を産んだこと、どちらも、静にとっては美しい思い出でしかない。恥じてもいない。
だが、磯禅尼の口からそのことが出ると、まるで、汚らわしいことのように響く。
ますます、自分が義経にふさわしくない人間のような気がしてくる。
「やはり、お断りして下さい」
静が言うと、
「何でだよ? わけを言っとくれ!」
磯禅尼は、怒りの表情をあらわにして言った。
静が誰の申し出を断っても、決して怒らなかった磯禅尼の、はじめての怒りに戸惑いながら、静は答えた。
「義経さまは、私のような者には、もったいないお方です。畏れ多くて……」
静にみなまで言わせず、磯禅尼は大笑いした。
「何を考えているんだろうね、この子は」
「は?」
磯禅尼が何を笑っているのかわからずに、静は問い返した。
「その通りだよ。あんた、自分を何様だと思ってたんだい。いくら都一の舞上手といったって、あんたはしょせん白拍子。義経さまは、源氏の御曹子。少しでもお情けがいただけるのなら、ありがたいと思わなくちゃいけないところを……まるで、御正妻にでも、おさまる気持ちでいるみたいじゃないか」
「あ……」
静はうろたえた。
ここは、静のもといた世界ではなかったのだ。身分の違いなどほとんどなく、一夫一妻制の世界にいたせいで、それが当たり前と思っていた。
磯禅尼は、確かに計算高くて、静をできるだけ身分の高い人間の想い者にしようと狙っていたが、それは、妻にするという意味ではなかったのだ。
白拍子が、公家や武士の妻になれるはずがない。
「で、どうするんだい? 行くのかい? 行かないのかい?」
磯禅尼は冷たく訊いた。
「伺います」
静は、ゆっくりと答えた。
自らが望んだことでないにせよ、今の自分は白拍子なのだ。それから逃れることはできない。いつまでも、舞を舞うだけですませるわけにはいかない。
いつかは、誰かと夜をともにしなければならないのなら……せめて、最初に考えていたとおり、自分が愛している人を選びたい。そして、自分を少しでもいとおしいと思ってくれる人に。
義経が、自分をどう思っているのかはわからない。しかし、少なくとも静の舞を認めてくれ、静を遊女としてではなく舞い手として見てくれた義経が、自分を夜の相手として望むのなら、それに応えようと、静は決心したのだった。
「静と話をしているときが、一番心安まる」
堀川の館で、義経は言った。
静が堀川の館を訪れるのは、五度目になっていた。三度目に訪れたあたりから、義経は静を「静御前」ではなく、「静」と呼ぶようになっていた。
舞を舞い終わった静は、そのままずっと義経の側で話をしていた。そして、義経の顔色が今一つさえないのに気づいていた。
「静は、戦のことを訊かない。だからほっとする」
義経は、そう付け加えた。
「私は、戦のことはよくわかりませんから」
静はそう答えたが、それは真実ではなかった。静にとって「戦争」は口に出すのもいやなことなのだ。だから、話題に自分から乗せることはない。
しかも、義経は武士、いわば「戦」を生業としている人間なので、あからさまに「静は戦が嫌いです」と言うわけにもいかない。
義経自身も、戦の話はしたがらない。だから、二人の会話は、もっぱら季節の花鳥風月や、子ども時代の話が主だった。
「戦や、政事の話は、もうたくさんなのだ」
義経は、はき捨てるような口調で言った。
静が、心配そうな顔で見ていると、義経は笑った。
「そんな顔をするな」
「でも……今日の義経さまは、何か……」
義経は、ふっと息を吐いた。
「静にはごまかせないか……」
「おっしゃりたくないことなら、無理に、お話しにならないでください」
義経は、淋しげに微笑んだ。
「まわりの者が、皆、静のように言ってくれればいいのだが。あれやこれやとうるさくてな」
静は黙っていた。日の出の勢いであるはずの義経にも、悩みはあるのだということが、はじめて分かった。
「情けないのは、兄が私を信用してくれないということなのだ」
義経は、ぽつんと言った。前後の事情がまるで分からないので、義経がどうしてそんなことをいうのかも分からない。第一、義経に兄がいることも、はじめて知った。
「お兄さま?」
「鎌倉の頼朝どのだ。私は、兄の命を受けて、木曽義仲を討った。一ノ谷で、平氏とも戦った。どちらも、勝利をおさめた」
静は黙って聞いていた。「勝利をおさめた」と義経は言ったのだから、普通の人間なら「よかったですね」とか「おめでとうございます」とか言うのだろう。
しかし、静はどうしても言えなかった。「戦争」は、勝っても、負けても、「よいこと」でも「おめでたいこと」でもないと、静は思っていた。
「それなのに、兄は私を信頼してくれない。いや、私のことを弟とも思ってないのだろう。その理由が、私には分からない。母親が違うからだろうか。私の母の身分が低いからか。知っているかもしれないが、私の母・常盤は九条院の雑仕だった。頼朝どのの母上は、熱田大宮司の娘御で御正室だ」
「そんな……」
静は言葉に詰まった。それが、戦や政治上の悩みなら、静はさほど同情しなかっただろう。しかし、兄弟関係に心を痛めている――兄の信頼が得られなくて悩む義経を、静は心からいたわしいと感じていた。
その時、ふと、静の心に浮かぶ今様があった。静は、すっと立ち上がった。不思議そうな顔をする義経に、静は言った。
「舞をご覧下さい」
静が中央に進み出ると、同席していた義経の郎等や、磯禅尼をはじめとする白拍子たちも、話をやめた。
みんなが静の舞を待つ中、静は、謡を始めた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この回から、静の今様が少しずつ「物語を動かすもの」になっていきます。
史料に残る今様と、物語としての静の心情とを、重ね合わせながら書いています。
次回は、静の謡が、思いもよらぬ形で波紋を広げていきます。
よろしければ、引き続きお付き合いください。




