表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/9

3 花散る橋

戦争が終わっても、すべての人に春が来るわけではありませんでした。


 家族と数人の隣人たちしか見送りのいない駅のホームから、信一は旅立って行った。


「微力ながら、皇国のために尽くしてまいります」


 の言葉を残して。


 だが、静は、それが信一の本心ではないことを知っていた。

 昨夜、信一は静の耳もとにこうささやいたのだった。


「俺は死なないよ。卑怯と言われようと、逃げ回ってでも行き延びる。静ちゃんの綿帽子姿を見るために、必ず帰ってくる」


「ええ。帰ってきて。無事で、帰ってきて」


 静は泣きながら、信一の胸にすがりつき、そう答えたのだった。


 静は、川に架かる橋の上で、深い谷底を流れる川を見つめていた。


 昭和二十一年も終わろうとしている冬の日のことだった。

 静の意識は、霞がかかったようにもうろうとしていた。鮮明に思い出せるのは、信一が出征した日のことまで。後は、ぼんやりとした記憶しかない。


 信一が出征して間もなく、静は自分が妊娠していることを知った。

 そのことは、手紙で信一に知らせることができた。信一は、まだ内地にいたので、『男の子なら信夫(しのぶ)、女の子なら、桜』という名前を手紙で知らせてきた。


 年が明けて、昭和二十年になると、大阪、神戸、名古屋あたりの空襲がひんぱんになってくる。

 静と、信一の両親である佐々木夫妻は、母方の実家のある淡路島へ疎開することになった。佐々木夫妻は、疎開先のない静の両親も、一緒にと誘った。しかし、静の父は、首を縦には振らなかった。


「生徒が一人でもいる限りは、私は神戸を離れられません」


 国民学校の校長をしている父は、そう言って佐々木夫妻の申し出を断った。

 そして、三月十七日、神戸は三時間にわたって夜間空襲を受ける。炎は、おりからの突風にあおられ、神戸の西半分が消失したという。 

 二日後の十九日、身重の静に代って様子を見に行ってくれた佐々木の義父は、疲れはてた顔で帰ってきて、こう言った。


「何も、残っていなかった」


 静は、一瞬にして、両親を失った。

 それでも、まだ静は希望を失ってはいなかった。


『帰ってくる……信一さんは、無事で帰ってくる……』


 そう、胸の中で何回も繰り返し、自分を勇気づけた。そして、何より、おなかの中には信一の子どももいた。

 五月に子供が産まれた。男の子だった。信一の言葉通り『信夫』と名前を付けた。信夫が生まれたことを手紙で知らせたが、届いたかどうかはわからなかった。信一は、すでに外地に発ってしまっていたから。

 静は、


『帰ってくる……信一さんは、無事で帰ってくる……』


 と胸の中で繰り返しながら、信夫を育てた。


 だが、信一は帰ってはこなかった。


『逃げ回ってでも生き延びる』と言っていた信一は、戦地で結核が再発し、病死したのだった。

 帰ってきた白木の箱を見つめていた静は、一か月ほど、魂がぬけたようだった。時にはおかしなことを口走り、信一の両親を心配させた。だが、ハイハイをし始めた信夫が、静の心のささえとなり、なんとか立直ることができた。

 そして、すぐに終戦の日がやってきた。


「なぜ、もう少し早くやめてくれなかったの? せめて半年早ければ、父も母も、信一さんも死なずにすんだのに!」


 静は、心の中で叫んだ。


 両親の死も、信一の死も、なんとかのりこえてきた静だった。


 しかし、今、静は橋の上に立っている。


 数時間前までは、静は花雪大劇場の客席にいた。

 戦後しばらくの間、進駐軍に接収されていた花雪大劇場の公演が再開されたのが、二十一年の春。だが、その知らせは静の心には届かなかった。


 劇場の再開を知らせる七重の手紙が着く一週間前に、信夫が死んだのだ。

 もともとあまり丈夫な子ではなかったが、長引いていた風邪が治らないまま、ある日、突然高熱を出し、そのまま意識不明となってしまった。

 医者に見せても、よく分からず、飲ませる薬も手に入らないままに、本当にあっけなく逝ってしまった。


 そして、信夫は静の生きる希望も、一緒に持っていってしまったらしい。信夫の身体が焼かれた煙をながめながら、静は自分の気持ちも、煙となっていくような気がしていた。


 そして、静はその日から、一言も話をしなくなってしまった。

 何も言わず、放っておけば食事さえ摂らない毎日を過ごす静を、佐々木夫妻が実の娘のように見守る日々が半年続いていた。


 公演のたびに、七重から招待券が届いたが、静は封を開けることさえしなかった。そんな冬のある日、七重の八回目の手紙を開けた信一の母・文が、ふと声を上げた。


「『桜散る里』が、再演されるんですって」


「桜散る里?」


 それは、静が半年ぶりに出した声だった。


「静ちゃん!」


 文は、喜びと驚きの混ざった表情で叫んだ。


「信ちゃんが、見たって言ってた……」


 静がぽつんと言うと、文は、早口で言った。


「そうよ。見に行ってたわ。静ちゃんの花嫁姿は、この世のものとは思えないくらいきれいだって、何度も言ってたわ。もう一度、綿帽子を見たいって……」


「戦争が終わったら、信ちゃんのためにもう一度着ようと思ってたのに……」

 

 そう言って、静は泣いた。涙も、半年ぶりだった。

 文と二人で、亡くなってしまった信一と信夫のことを思い、その夜は泣き明かした。


 翌日、静は文に言った。


「この公演、見に行ってもいいですか?」


 佐々木夫妻は快く許してくれた。

 そして、舞台を見に来たのが、今日。数時間前のことだった。

 終演後、七重の楽屋に行った。七重は、相変わらず男役のトップスターだった。


「戻ってらっしゃいよ、劇団に」


 七重は言った。


「無理よ。私、結婚したのよ。今は未亡人だけど……」


 静は、弱々しく笑って言った。


「もちろん、劇団員としてじゃないわよ。音楽学校の方で、日舞の先生をさがしてるの。静なら、できるわ」


「ありがとう。考えてみる」


 そう答えて、静は楽屋を出た。

 しかし、「考える」つもりなど、まるでなかった。静は、公演を見る前から、いや、淡路島を出るときから、決心していたのだ。

 信夫が死んで半年間、静の感覚は麻痺していた。それが戻ったのが「桜散る里」の再演を聞いたとき。

 静にはもう、舞台への情熱はない。「桜散る里」に反応したのは、それが、信一にとって思い出の舞台だったから。


 信一も信夫も失った今、静に生き続ける理由はなかった。

 もう、私の人生は終わった――そう静は考えた。

 悲しいとも思わない。すべての感情はなくなっていた。

 劇場を去った静は、その近くを流れる川の上流まで着ていた。

 何故、川なのかと聞かれてもよくはわからない。しかし、川は海に通じている。海は、信一が亡くなった南の島へも続いているだろう。

 すべての感情のなくなった静には、ただ、目の下に見える川の流れと一体になりたいという願いだけが残っている。


 恐いとも思わなかった。


 静は、まるで息をするのと同じくらい自然な気持ちで、橋から身を躍らせ、深い谷底の川へと、落ちていった。



「気がついたかい」


 声をかけたのは、三十代半ばの女だった。静は身を起こし、周りを見た。古めかしい造りの家だった。

 声をかけた女も、静自身も、着物を着ている。静が自分の着ているものを見つめているのに気づくと、女は言った。


「あんたの着ていた変テコな物は捨てちまったよ。どのみち、あっちこっち、岩や木の枝にひっかかったらしくて、ぼろぼろたったしね」


 静は黙ってうなずいた。


「あんた、名前は?」


「静……」


「いい名前じゃないか……」


 女は言った。


「どうしてまた、死のうなんて気になったんだい?」


「子どもが、死んでしまったので」


 静は、自分でも驚くほど素直に答えていた。そっけない口調でポンポン物を言うが、この女は悪い人ではない……そう感じたせいだろう。


「子ども……。そりゃ気の毒に。でも死ぬこたぁないよね。また産めばいいんだから」


「夫も死にましたから……」


 静が言うと、女は今度は大笑いした。


「……ごめんよ。笑ったりして。だけどさ、男なんて、いくらでもいるじゃないか。ましてあんたくらいの器量よしならさ」


 笑われても、静はなぜか腹が立たなかった。そんな様子を見て安心したのか、女は続けた。


「あんた、静さんとやら、しばらくあたしのところにいちゃどうだい? あんたみたいにきれいな娘をさがしていたところなのさ」


「あなたのところ?」


「あたしはね、磯禅尼(いそのぜんに)さ」


 女はちょっと自慢そうに言った。


「磯禅尼?」


「知らないのかい?」


 女――磯禅尼は派手にがっかりして見せた。


(みやこ)じゃ、ちょっと有名なつもりだったんだけどね。白拍子を束ねているんだよ。磯禅尼のところの白拍子は舞上手って評判なんだからね。白拍子は知ってるだろ?」


 静が首を横に振ると、磯禅尼は驚くのを通りこしてあきれた。


「まったく、何にも知らないんだねぇ。よっぽどの田舎から出てきたとみえる。ま、おいおい分かるさ。とにかく、元気になるまでゆっくりお休み。後のことは、それからだよ」


 そう言うと、磯禅尼は立った。部屋を出ていこうとして、振り返った。


「もう、変な気おこすんじゃないよ。せっかくあたしが助けてやったんだから」


 静はうなずいた。もう死ぬ気はなかった。と言うより、静は一度死んだのだ。一度死んだものは、二度は死ねない――そう思っていた。


 静が歩けるようになると、磯禅尼は静を連れて町の中を歩いた。静が半ば予想していた通り、この町は静の生きていた町ではなかった。

 おそらく、何百年か昔だろう。ただ、ここが都――京都であることだけは確からしい。


 静は驚きもうろたえもしなかった。

 以前の静なら、それを不思議だと思っただろう。しかし、今の静には、当然のことのように思えた。

 自分は一度死んだのだ。生まれ変わった先が、何百年か昔の世界でも、別におかしくない……そう感じられた。


 これが、もとの世界だったら一命をとりとめたとしても、きっと静はもう一度、あの川に飛びこんだだろう。

 ここが、静のいたあの時代ではなく、全く違う世界であるということが、静に、もう一度生き直してみようという意欲を取り戻させていた。


「見てごらん」


 磯禅尼が言った。


「みんな、あんたのことを振り返って見ているよ。あんたが美しいからさ」


「……」


 みんなが振り返ること自体は、静にとっては喜びでも何でもなかった。そもそも、花雪歌劇団時代に慣れている。

 しかし、静は磯禅尼の心遣いがうれしかった。そう言って自分の気持ちをひきたててくれようとしているのが分かったから。


「もう、死ぬ気はありませんから、安心してください」


 静が言うと、磯禅尼は満足そうに笑った。


「そうだよ。まだ若くて、こんなにきれいなんだから、楽しまなくちゃね」


 町は活気にあふれていた。静がそのことを言うと、磯禅尼は言った。


「それもこれも、義経さまのおかげだよね。木曽の人がいた頃は、安心して眠ることもできなかったけど。義経さまのおかげで、平和がもどったし、義経さまの御郎等は、乱暴なこともしないしね」


「義経さま?」


「源九郎義経さまのことじゃないか。全く世間知らずだね、あんたは」


第3話は、静の「前の人生」の終わりです。

次回から、舞台は一変します。

静が目を覚ますのは、彼女の知る時代とはまったく違う世界――。

ここから物語は本編に入ります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ