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2 幻の花嫁

戦時下の少女歌劇団を生きる一人の娘が、初めて「役」ではなく「自分」として下す決断の物語です。


 次の日の早朝、静は劇団に戻るため、神戸の実家を後にした。


「佐々木さんに、なんてご返事するのよ?」


 朝食を作りながら、母の弥生は訊いた。


「考える時間を下さい……信ちゃんには、そう言ってある」


 支度をしながら、静は答えた。


「信一さんは優しいから何も言わないだろうけど、あちらのご両親は……」


 弥生は、鍋の火を弱めた。


「何言ってるのよ!」


 静は、信玄袋の口をきゅっと結び直した。


「何にも知らせずに呼び出して、不意打ちでお見合なんかさせといて、そんなにすぐ答えが出せるわけないでしょう? 私にだって、一生の問題なんだから」


「そうは言っても……」


 弥生は、静の剣幕にうろたえながらも言った。


「信一さんにだって、時間がたっぷりあるってわけじゃないのよ」


「……わかってる。でも、信ちゃんはそれでいいって言ってくれたから」


 静は、ふっと微笑んだ。昨日の信一の笑顔を思い出したのだ。


「私、八月には、北海道へ慰問公演に行くことになってるの。急に抜けたら、迷惑がかかるし……」


 と静が言うと、信一はあわててこう言った。


「そんな、俺は、劇団を無理に辞めさせようとか、そんなつもりはなかったんだ。本当だよ。本当に、静ちゃんと、話ができれば、それでいいって……」


「話だけ?」


 静は、信一をじっと見つめた。信一は真っ赤になった。背も高く骨太のしっかりした身体つきの信一が、真っ赤になってとまどっている様子を、静は「かわいい」と思った。

 自分よりずっと大きい、年上の男の人を「かわいい」と思うのは変だな……と感じながらも。


「話がしたくて、私を呼んだの?」


 静は、ちょっと意地悪な気持ちになって、問い詰めた。信一の、本当の気持ちが知りたかった。


「それは……」


 信一は、意を決したという風に、言い切った。


「嫁さんにほしいと思っていたよ。ずっと……小さい頃から」


 その言葉を聞いた瞬間、静は、心臓が、ビクンと鳴るのを感じた。舞台では感じたことのない種類の、胸のときめきだった。


「返事は、八月の慰問公演が終わった後でいい?」


「え?」


「考える時間を下さい」


 静は、信一をまっすぐに見て言った。


「考えて、くれるの?」


 信一は、意外そうな顔をした。


「即座に断られると思ってた。静ちゃんには、舞台をはなれる気持ちはないと思ってた。ましてや、俺なんかのために……」


「一生、舞台を続けられるとは、思ってなかったわ。だけど、正直言って、こんなに急な話があるとも思ってなかった」


「当然だよ」


「だから、時間を下さい。信ちゃんが、急いでいることも、その理由もわかってるけど……」


 静はうつむいた。明日にも「赤紙」が来るかもしれないのだ。そんな信一をじらすのは、罪深いことなのかもしれない。


「ありがとう」


 信一は、言った。


「え?」


 静は驚いて顔を上げた。お礼を言われるようなことはしていない。


「考えてくれるだけでも、俺はうれしいよ。気にせずに、ゆっくり考えてくれよ。静ちゃんに不本意な選択はさせたくないんだ。考えた結果、静ちゃんが舞台を取っても、俺は恨んだりしないから……」


 静は、黙ってうなずいた。その瞬間、自分の意思が決まったと感じていた。

 しかし、信一には言わなかった。もう一度、北海道の旅の中で考えて、それから返事をしようと静は考えていた。


「気をつけてね。北海道は寒いから、風邪ひかないように」


 静の返事を不満に思っていても、弥生はやはり心配そうに彼女を見送った。

 父の勇三は、すでに仕事に出ていて、見送りは母の弥生だけだった。


「うん。忙しいから、手紙も書けないと思うけど……」


「わかってる。でも、帰ってきたら、知らせるのよ」


「はい」


 静は、信玄袋を抱え直して、歩き始めた。その時、隣の呉服屋の入り口が開いた。

 静は振り返った。

 呉服屋の暖簾の前に、信一は立っていた。

 信一は、黙ってうなずいた。静も黙って頭を下げた。

 自分を見送る信一の視線を背に感じながら、静は駅に向かって歩き始めた。


「痛い!」


 隣で、七重が声を上げた。


「また、刺したの?」


 静は手を止めずに訊く。


「うん」


 七重は指をくわえながら言った。


「だって、ボタン付けなんて、したことないもの」


「まあ、七重は男役だし……ボタン付けがうまいって方が、おかしいかもね」


 そう言いながら、静は器用に手を動かしていた。


 ここは、劇団の本拠地に近いお寺で、静たちは、航空兵の軍服のボタン付けをしていた。

 地方への慰問公演の合間には、勤労奉仕もしなければならない。


「まさか、ボタン付けまでさせられるとは、思わなかったわ」


 七重はぼやく。


「でも、私たちはまだいいわよ。慰問とはいえ、公演もあって、舞台に立てるんだから。今年、音楽学校を卒業した子たちは、初舞台もなくて、工場で働いているのだもの」


 そう静が言うと、七重も、


「……芸名だって決まってるのに、かわいそうね」


 と、つぶやいた。


「この前、実家に帰ってたでしょ。何の用だったの?」


 七重は話題をかえた。


「……お見合い」


 しばらくためらった後、静は答えた。

 七重は一瞬声をのみ、そして、低い声で訊いた。


「……結婚、するの?」


「まだ、わからない」


 静は、ボタン付けの手を休めずに言う。


「どんな人?」


「隣に住んでる幼なじみ。呉服屋の跡取り息子」


 静は、そっけない口調で言った。信一に感じはじめているあたたかい想いは、七重といえども、簡単に教えたくはなかった。


「召集されるってわけじゃないんだ」


「どうして?」


「よく聞くから。兵隊に取られる前に急いで式を挙げて、三日だけの花嫁とか……」


「赤紙が来るのは、時間の問題だって、本人は言ってたけど……」


「じゃあ……」


 七重はのぞき込むようにして、静の言葉を待っている。


「本当に、まだ決めてないの。どっちみち、北海道公演を抜けるわけにはいかないし……」


「そうね。静に抜けられたら、劇団は痛手だわ。…私も、淋しいし」


 七重は、少し悲しげな表情で言った。


「北海道は、いつからだっけ?」


「あさって。七重は?」


「あたしは、一週間後。四国公演」 


 北海道公演は、決して楽なものではなかった。

 各地で歓迎され、食事も戦時下とは思えないくらい豊かだったが、移動は困難を究めた。

 特に、船での移動が厳しかった。敵の潜水艦に追われ、ジグザグ運行を繰り返す船の中で、静たちは救命具をつけて、船室に閉じこめられていた。

 そんな中で、静の頭をよぎるのは、『私がここで死んだら、信ちゃんはどんなに悲しむかしら……』ということだった。


 静を悩ませていたのは、移動のつらさでだけではなかった。

 自分が以前ほど舞台に情熱を感じていないことに気づき、静はうろたえた。

 それは、場所が大劇場でなく、工場や学校の講堂だからではない。以前の静なら、そこがどんな場所でも、観客さえいれば、踊りに全神経を傾けることができた。


 だが、今はそうではない。

 踊っている最中でも、不意に信一の笑顔が胸に浮かぶ。

 観客の中に、いるはずのない信一の姿を探してしまう。

 そうかと思えば、七重の「三日だけの花嫁」などと言う言葉が、突然頭をよぎる。

 舞台を見て喜んでいる若い兵隊を見れば、信一の軍服姿を想像している自分に気づく。

 静は、どうしても踊りに集中できない自分に戸惑いながら、また、そんな自分をいとおしいとさえ思った。


 十日間の慰問公演を終え、大阪駅に帰着したとき、静は決心していた。

『劇団に、退団届を出そう』と。


 劇団の寮の自分の部屋で、静が退団届を書いているとき、その電報は来た。神戸の両親からだった。

 電報と聞いたとたん、静にはその内容がわかる気がした。そして、それを受け取って目を通すことは、わかっていた内容を確認するだけのことだった。

 静は、退団届を書き上げ、劇団の事務所に急いだ。


「ずいぶん、急な話だね」


 理事長は、眉をひそめた。


「慰問ばかりで、いやになったとか言うのじゃないだろうね」


「婚約者の入隊が決まりましたので」


 静は、きっぱりと言った。


「神戸へ、戻らなくてはなりません」


「そういう人がいたのか……」


 理事長はつぶやいた。


「これは、受け取りましょう」


 そう言って、机の引き出しに静の退団届をしまい、理事長は立ち上がった。


「君の御夫君になる人に、伝えて下さい。『武運長久をお祈りいたします』と」


 静は、黙ってうなずいた。ただ、その言葉は、理事長の本心ではないと、感じていた。

 静は、身の回りのわずかな荷物だけを持って、寮を出た。

 寮に残っていたわずかな仲間に挨拶をして、その日のうちに列車に乗っていた。

 七重には、会って話がしたかったが、彼女はまだ四国にいたので、手紙を残すのが精いっぱいだった。


 神戸へ戻ると、静は、自分の家にも寄らず、まっすぐに信一の家へ行った。

 信一は、いつもとかわりなく店にいた。


「静ちゃん!」


 引き戸を開けて、中に入った静を、信一は驚きの表情で迎えた。


「北海道にいるものとばかり思ってた」


 二人きりになると、信一は言った。


「おととい帰ってきたの」


「悪かったね、忙しいのに」


 信一は、どこかよそよそしかった。静は、急に不安になった。自分があいまいな返事をしているうちに、信一の心が変わってしまったのだろうか。


「私、帰ってこない方がよかった?」


「どうして?」


「なんだか、迷惑そうだから……」


「そんなことない!」


 信一は、大声で否定した。


「静ちゃんに会えてうれしいよ。入隊前に、会って話がしたいと思ってたんだ」


「話だけ?」


 静は、前と同じ質問をした。


「え?」


「話だけでいいの?」


「それは……」


「私を、お嫁さんにもらってくれるんじゃないの?」


「静ちゃん!……でも」


「でも?」


 静は、信一の言葉を待った。


「俺は、五日後には入隊するんだ。生きては帰れないかもしれない。最初は、だからこそ静ちゃんと……と思った。だけど、俺が死んだら、静ちゃんはどうなる? あの劇団は、結婚したらやめなきゃならないんだろ?」


「ええ」


「劇団を辞めさせてまで、する価値のあるものじゃないよ。俺との結婚なんて。戦争だって、そういつまでも続くわけじゃないだろう。俺と結婚しなければ、静ちゃんはもう一度舞台に立てるんだ」


 そう言うと、信一は不意に後ろを向いてしまった。

 静は、信一の前に廻った。信一の頬は涙で濡れていた。

 信一は、もう一度後ろを向いた。


「見ないでくれよ。こんなみっともない姿、静ちゃんには見られたくないよ」


 静は、ふたたび、信一の前に立った。


「私、ちゃんと考えたの。北海道公演中も、ずっと考えて……それで、決めたの」


 次の言葉は、小さな声でしか言えなかった。


「もう、退団届を出して来ちゃった。信ちゃんがお嫁さんにもらってくれなくても、私はもう、舞台には立てないわ」


「静ちゃん! ……どうしてそんなことを?」


「舞台に立っていても、前みたいに夢中になれないの。……信ちゃんのことばかり、考えている」


 静は、自分の頬も涙で濡れていることに気づいた。悲しいわけではないのに、何故かしら……そう静は思った。

 信一は、静の手に自分の手を重ねた。静も信一も、二人には、もう言葉は必要ではないことを悟っていた。


 翌日には、二人は式を挙げた。戦争中にありがちの、何もない――花嫁衣装も、尾頭付きの鯛も――結婚式だった。

 けれども、自分はまだ幸せだと、静は思う。他のたくさんの花嫁たちと違い、美しい衣装は舞台で何度も着ている。花嫁衣装に対するあこがれは、他の人よりは少ないだろう。


「本当は、静ちゃんの白無垢で綿帽子の姿を見たかったんだけどね」


 その夜、床の中で信一は言った。


「花嫁衣装なら、一度、舞台の上で着たことがあるわ」


 静が言うと、信一はうなずいた。


「見たよ。『桜散る里』だろ」


「そんなことまで、憶えているの?」


 静は驚いた。

 その公演は、入団間もない新人の頃で、花嫁衣装は着ることができたが、役そのものは、ほんの端役だったのだ。


「憶えてるさ。あの役は、幻の花嫁で幸せにはなれないんだよね」


 信一の言うとおりだった。恋人と結ばれることのなかった花嫁が、白無垢に身を包み、桜の花びらが散る銀橋を渡る。綿帽子に隠されているので、表情はほとんど見えず、登場時間もわずかだったにもかかわらず、静の演技は評価された。


 ――ただ歩くだけなのに、その所作は美しく、失った恋の哀しみが、観客の胸を打つ――そんな劇評が新聞に載った。


 それがきっかけで、静はスターダムを駆け上がったと言ってもいい役だ。自分は忘れるはずはないが、信一が憶えていてくれたことが、たまらなく嬉しい。

 だが、信一は、ちょっと不満そうに付け加えた。


「芝居の中のことだってわかっていたけど、幸せになれない花嫁だって思ったら、なんだか俺も悲しくなった。次に静ちゃんが白無垢を着るときは、幸せな花嫁であって欲しいなって……それで、その姿で、俺の隣にいてくれたらって……そんなこと、考えてた」


「信ちゃん……」


「戦争が終わって、俺が無事に帰ってこられたら、もう一度着て見せてくれよ、綿帽子」


「うん」


 静はうなずき、信一の胸に顔をうずめた。

 舞台の上で、数えきれないほどラブシーンは演じていた。しかし、男役の女性たちとは比べものにならない、広くて厚い胸が、そこにはあった。


お読みいただき、ありがとうございます。

次回、彼女の運命は、さらに大きく揺れ始めます。

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