1 雪の舞台、最後の日
昭和十九年。
戦争の影が、ひとつの舞台から夢を奪おうとしていた。
これは、雪のように静かに始まる、ひとりの娘役の物語です。
昭和十九年。
静が生きるこの時代は、日本にとって、憂慮すべき戦局を迎えていた。
前年の十二月には、学徒出陣が始まっていた。この年になると、南太平洋の島々の日本軍は、次々に全滅していった。
その事態を受け、本土では、三月一日、第一次決戦非常措置令が発動される。
それにともない、全国十九の高級興業場が、三月五日限りで閉鎖されることになった。
その十九の劇場の中に、関西で活動をしていた女性ばかりの歌劇団――花雪歌劇団――のホームステージである花雪大劇場が含まれていた。
「開演は、二十五分遅れまーす」
舞台監督は、そう叫びながら、楽屋をまわっていた。
「どうしたのかしら?」
静は、化粧の手を止めて、隣の秋葉七重に声をかけた。
「お客さまの整理がつかないみたいよ。今日が最後の公演だもの」
衣装のボタンを留めながら、七重が言う。
「昨日も、すごかったけど……」
「それ以上だって。開場を待つ人の列が、新橋の辺りまで続いてたらしいし…
…」
「そんなに?」
静は、思わず振り返っていた。七重は、黙ってうなずいた。
閉鎖の通告があったのは、三日前の三月一日。静も七重も、公演の稽古の最中だった。
指導していた演出家の口から、「閉鎖」の言葉が出たとたん、生徒たち――この劇団は団員を「生徒」と呼んでいた――はいっせいに泣き崩れた。
七重も、声をあげて泣き、静は、驚きと悲しみで、涙も出なかった。
静が泣いたのは、その夜、布団の中に入ってからだった。
静は、尋常小学校を卒業して、すぐに、劇団付属の音楽学校に入学した。
音楽学校を卒業して、初舞台を踏んだのが十五才の時。「雪間静」の芸名をいただいて六年、青春のすべてを舞台に賭けてきたのだ。
閉鎖される花雪大劇場には、数えきれない思い出があるのだ。
初舞台のラインダンス。
初めて、台詞がついたときの喜び。
ソロを歌ったときの緊張感。
主役が急病のため、代役となったときのこと。無事踊り終えたときは、自分よりも、舞台の袖で見ていた先生や友だちの方がうれしそうだった。
大抜擢でヒロインになったのは、初舞台から三年目。嫉妬から、ずいぶんと意地悪も言われた。
やがて、名実ともに娘役のスターと言われ、お姫さま役では劇団一と新聞にも書かれた。
数々の舞台が、走馬燈のように頭の中を駆けめぐり、静は、枕を涙で濡らした。
閉鎖は、とりあえず一年間ということらしいが、一年後に再開できるという保証はない。
世情に疎い静でも、今の戦況が、楽観できるものではないことは理解できる。
『二度と舞台には立てないのかもしれない……』
そんな不安が胸の中に広がる。
『戦地では、兵隊さんは命がけで戦っているのに、こんなことで泣くのは、贅沢だ……』
自分で自分をそうたしなめてもみた。しかし、涙は止まらない。静は、涙声で、歌劇の主題歌を歌いながら、眠れぬ夜を過ごした。
だが、静は舞台の上では泣かなかった。
残された公演日はわずか三日。
「閉鎖」を聞いた人々は、最後の舞台を見ようと、劇場の前に長蛇の列を作っていた。
自分の仕事は、観客に夢を見せること。静はいつもそう思って舞台に立っていた。
自分がめそめそ泣いていては、夢は与えられない。静は、泣きあかした次の日も、笑顔で舞台に立った。
そして、いよいよ今日が最後の舞台。
「板付きの方、お願いしまーす」
舞台監督の声に、七重は立ち上がった。男役の彼女は、軍服に身をつつんでいる。
「じゃ、行ってくる」
七重は帽子をかぶって、静にうなずいて見せた。
戦争が激しくなるにつれて、演目も、軍事色が強くなっていた。男役の七重は、何回、軍服を着たのだろうか。
娘役の静も、今は、挺身隊の衣装を着ている。
プロローグの音楽が流れ始めた。そろそろ出番が近い。静は鏡の中の自分の姿をチェックして、立ち上がった。
「もう、この舞台に立つことはないのかしら……」
七重がつぶやいた。軍服を脱ぎ、今は美しい着流し姿だ。
「向こう一年間……という通告だけど……」
そう答える静も、かんざしのたくさんついたかつらをつけ、華やかな打ち掛けを羽織っていた。
「最後だと思っていた方が、いいかもしれないわね」
静の言葉に、七重は悲しげにうなずいた。
この日の演目は、三本だった。
いわゆる軍事ものの芝居。
日本の民謡集。
そして、最後の演目が舞踊劇。
戦争が激しくなる前は、オペラ、オペレッタ、ミュージカルやレビューと呼ばれるものも公演していた。だから、静も、釣り鐘型のスカートのドレスを着たり、金髪のかつらをつけることもあった。
だが、静の場合は、圧倒的に日本のお姫さま役が多かった。
小さい頃から習っていた日舞の実力をかわれたということもあったが、静の容姿が日本的だったことも、理由のひとつだった。
「がんばろう。お客さまに楽しんでもらわなくちゃ」
今にも泣き出しそうな七重を励まし、静は舞台へと向かった。
一ベル。
開演のアナウンス。
二ベル。
そして、オーケストラの音楽が鳴り始め、ゆっくりと緞帳が上がっていく。
拍手がひときわ高くなり、やがて静まっていった。
何十人もの劇団員が、一斉に踊り出す。その中央で、七重と静は踊っている。
一曲終わると、周囲で踊っていた者たちは、上手、下手に引っ込んでいく。
舞台に残ったのは、七重と静の二人。
そこで、もう一曲踊る。客席は、水を打ったような静けさ。七重と静の美しさに、観客は息をのんでいる。
やがて、七重も下手に去り、舞台は静一人。
「静ちゃん!」
聞き慣れたファンのかけ声がかかる。
静はスポットライトを見つめ、にっこりと微笑む。
扇子を開く静の頭からは、「今日が最後の舞台」という悲しさは、いつのまにか消えていた。
静の胸にあったのは、「お客さまに夢を与えたい」という思いだけ。
その時、ふっと静の心にとある情景が思い浮かんだ。
花雪大劇場の舞台の上ではない。
どこか違う場所で自分は舞っている――。
雪が舞い散る中、誰かを想いながら――。
そこがどこなのか追い求めようとしたとき、その情景は現れたときと同じ潔さで消えた。
いけない……今は、大劇場の板の上、数多くのお客様が私に注目している。
静は心を切り替え、踊りにだけ、全神経を集中させていった。
「花雪大劇場の、最後の公演は、すごかったんだってね」
静の母の弥生は、言った。
「うん。急遽、二回公演に切り替えたんだけどね、それでも満員。通路までいっぱいだった」
静は、神戸の実家に帰っていた。
劇場が閉鎖されても、仕事がなくなったわけではなかった。
歌劇団の生徒たちは、十五、六人の小さな班に分けられた。そして、班ごとに移動隊として慰問公演を行ったり、挺身隊として、工場などに奉仕したりしていた。
そんな中、静は両親から「一度帰ってこい」と言う手紙を受け取った。
ちょうど、旅公演を終え、次の公演の稽古にはいるところだったので、一日だけ休みをもらい、神戸に帰ってきたのだった。
「で、何の用なの? 休みは一日だけなんだから、早く言ってよ」
弥生がいつまでたっても世間話をしているので、静はしびれを切らして言った。
「お昼になれば、わかるよ」
弥生は、そう言うだけで、静の問いに答えてはくれなかった。
正午になると、父に呼ばれた。その部屋にいたのは、父だけではなかった。
「佐々木のおじさん、おばさん……」
入ってすぐに、静は声をあげた。
「……それに、信ちゃん……」
「何だ、はしたない、座りもしないで」
父の勇三は、不機嫌そうに言った。静は、あわてて父の隣に座った。
「まったく、歌劇なんかにうつつをぬかしているから、礼儀知らずになって」
「礼儀だなんて……。私たちと静ちゃんは、もう親戚同士みたいなもんだから」
上座に座っていた佐々木夫妻が、取りなしてくれた。
「ご無沙汰しています。おじさん、おばさんも、お変わりなく」
静は頭を下げた。
そこにいたのは、静が生まれる以前から、隣に住んでいた佐々木夫妻と、その一人息子の信一だった。信一は、静よりも三才年上の二十三才。子どもの頃には、毎日のように一緒に遊んでいた幼なじみだった。
「静ちゃん、ちょっと見ないうちに、ますますきれいになったわね」
信一の母、文が言った。
「そりゃあ、当然だ。なんたって、歌劇団の花形だもの」
信一の父も言った。
「劇場、閉鎖されちゃってんでしょう。残念ね」
文が言うと、勇三は渋い顔をして言った。
「このご時世に、いつまでも足上げ踊りをやっているわけには、いかんでしょ
う」
「お父さん!」
静は、さすがに文句を言った。
「ラインダンスなんて、ここ何年もしてないわよ。あれは、新人がやるものだし」
「今は、何を?」
佐々木が尋ねた。
「ほとんどが、慰問公演です」
「兵隊さんの?」
「ええ。あとは、軍需品工場へも……」
「いい加減にやめて、帰ってくればいいんだ。もう、二十二なんだから……」
相変わらず、渋い顔のまま、勇三が言った。
「まだ、二十一です」
「大したかわりはない。どちらにしても、そろそろ潮時じゃないのか」
静は、父の方へ向きなおった。
「劇団を辞めて、どうしろって言うのよ?」
「……おまえのようなはねっかえりでも、嫁にほしいと言って下さっているんだ」
「!」
静は、驚いた。あまりにも身近な人だったので、そこにいても単に遊びに来たとしか、考えていなかったのだ。つまり、これは「お見合い」だったのだろう。
静は、今まで一言も話をしなかった信一の方を見た。
信一は、それでも何も言わず、ただ、静に向かってにこにこと微笑みかけていた。
「『雪の逢瀬』、すごくきれいだったね」
二人で、庭に出てから、信一は言った。
「見たの?」
『雪の逢瀬』は、最後の舞踊劇で、静がソロで幕を閉じた日舞の名前だった。
「ああ、見に行ったよ。劇場が閉鎖されるって聞いたから」
「大変だったでしょう?」
「うん。朝から並んだ」
何でもないことのように信一は言って、照れくさそうに笑った。
「声をかけてくれれば、席くらい用意できたのに」
「そんな。みんな並んでるのに、俺だけそんなことしたら、悪いよ」
真面目に答える信一の顔を、静はまじまじと見つめた。
信一の表情は、ついこの前までは、少年の面影があったのに、もう、完全に大人の男のそれだった。もとから大きな身体をしていたが、さらに一回り大きくなったようだった。小柄な静は、信一の肩にもとどかない。
「再開の見通しは、ないのかい?」
静が黙っていると、信一が訊いてきた。
「閉鎖は、一応一年ということらしいんだけど……もう、無理かもしれない」
静は、淡々とした口調で言った。花雪大劇場にふたたび立つことは、もうないだろうと、あきらめの気持ちが、支配するようになっていた。
「残念だなぁ。もう一度、静ちゃんの紫の上が見たかったのに……」
「……紫の上って……見たの?」
信一は、静に向かって、やさしく微笑んだ。
「何回も見に行ったよ」
「何回も?」
「うん。『竹取物語』のかぐや姫もよかったけど……やっぱり『光源氏』の紫の上が最高だったね」
意外な話のなりゆきに、静が何も言えないでいると、信一は、静の出演した舞台の名前を次々と上げていった。
「ジュリエット……オフィーリア……人魚姫……パリの花束……洋物もいいけど、やっぱり静ちゃんは、日本のお姫さまがいいよね。鷺娘。乙姫さま。道成寺の清姫は、きれいだったけど、静ちゃんの役どころとはちょっと違うって気がした」
信一は、ひとつひとつの舞台を思い浮かべるように、目を細めて言った。
「そんなに、たくさん……」
信一が、自分の舞台を見てくれてうれしい――そう思うのが普通なのかもしれない。
しかし、静はとまどっていた。劇団に入団してから、信一のことなど、静は思い出すこともほとんどなかったのに……。
それなのに、信一の方は、静の舞台を、欠かさずに見ていたのだ。
「連絡してくれれば、切符だって手配したし。会うことだってできたのに……」
つぶやくように静が言うと、信一はふっと微笑んだ。
「まずいだろ。俺なんかが会いに行っちゃ」
「どうして?」
「兄弟とかならともかく。俺だって一応、若い男だし。それに……」
「それに?」
「なんだか、おそれおおくってさ。舞台の上の静ちゃんは大スターで。おれなんか近寄れない気がしてさ」
信一は、おどけた口調で言った。しかし、その言い方には、少し無理があるように、静には感じられた。
静は、真面目な顔をして言った。
「舞台の上では、お姫さまかもしれないけど……舞台を降りれば、私は私よ。昔と変わりないわ」
静の真剣な眼差しと、その言い方に、信一は少なからず、驚いたようだった。
そして、急に話をしなくなってしまった。
庭石に座りこんだ信一の隣に、静は座り、尋ねた。
「今度のこの話……私と信ちゃんとのお見合いうちのお父さんが言い出したこと?」
信一は、首を横に振った。
「じゃあ、佐々木のおじさん?」
「いや」
「佐々木のおばさん?」
信一は、しばらく黙っていたが、ふと顔を上げ、ぽつんと言った。
「俺だよ」
「信ちゃん」
「俺が頼んだんだ。静ちゃんのお父さんに」
その時、静は自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
女ばかりの劇団にいて、演出家やその他のスタッフには男性はいたが、若い男の人に、こんな風に言われたことは、初めてだった。
頬を染め、うつむいてしまった静を、信一は、まぶしそうに見つめた。
そして、言葉を続けた。
「……待つつもりだったんだ。静ちゃんが舞台を降りる気になるまで。だけど、こんなご時世になっちゃって」
静は、顔を上げて、次の言葉を待った。
「おれも、いつ赤紙がくるかわからないし」
「……赤紙……」
静はつぶやいた。自分が、慰問に訪れた駐屯地の兵隊たちの姿が浮かんできた。
「俺、跡取り息子だし、胸を患ったことがあるから、今までこなかったんだけど、最近の様子を見ていると……」
「……きそうなの?」
「時間の問題だろうな……せめてその前にもう一度ゆっくり話がしたいと思って……」
「信ちゃん……」
雪は、まだ北へは舞っていません。
けれど、静の心には、
すでに小さな風が吹き始めています。




