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16 雪の舞殿

雪は、すべてを覆い隠し、そして美しく変えるのでしょう。

その雪の中で、静は再び――舞う者として立つことになるのです。


「御前……早く行かないと、夜になってしまいますよ」


 雑色の一人が、静に声をかけた。

 義経の姿が見えなくなっても、なお動かない静に、ついにしびれを切らしたらしい。


「わかりました」


 静は雑色にうながされるまま歩き出した。

 義経や郎等たちのいたときはなんとなくおどおどとしていた雑色の態度が、静に対しては乱暴になってきているのに、静は気づかなかった。静の心は、今別れた義経のことでいっぱいだったから。


「あそこで、一休みしようぜ」


 雑色の一人がもう一人に言った。少し先にある山小屋を指していた。静には一言の相談もなく、二人は山小屋の方へ歩いていく。静は仕方なく後をついていった。

 静が山小屋へ一歩足を踏み入れたとたん、二人は申し合わせたように静に襲いかかってきた。


『身体を奪われる!』


 二人の男に押し倒されながら、静はすばやく頭をめぐらせた。

 相手は男、しかも二人……どんなに暴れても、押さえつけられてしまうだろう。

 だが、こんな所で、雑色に手込めにされるわけにはいかない。自分は、九郎判官源義経の妻なのだから。


 静の手に、義経から渡された包みがさわった。その瞬間、静の考えは決まった。

 二人から逃げようともがくのをやめ、落ちていた包みに手をのばす。

 義経からもらった『初音』の鼓の入っている包みだ。受け取ったときから、その重さで、中は鼓だけではないことが分かっていた。包みをふりほどくと、案の定、中から袋が出てきた。静は、その袋を力いっぱい小屋の壁に投げつけた。

 ザッという音とともに、袋は破けた。その音に二人の雑色は力をゆるめ、音のする方を見た。袋の中身は、静の考えていたとおり砂金だった。袋が破れ砂金がちらばっている。


「おう!」


 と声をあげ、雑色の一人が砂金を集め始める。


「蓄生! 独り占めはさせないぞ!」


 もう一人も叫び、砂金を集め始める。

 二人の男がののしり合いながら砂金を集めているのを見届けると、静は『初音』の鼓をかかえ、山小屋を飛び出した。


 静は雪の中を走った。二人の男は追いかけては来ないだろうとは思ったが、それでも夢中で走った。

 どこをどう走ったのか、静はもうこれ以上一歩も歩けないという状態になった時、何も見えないくらい、辺りが暗くなっていることに気づいた。周囲は木ばかりで、灯りも家らしきものも見えない。

 空を見上げると、月が出ていた。雪はいつのまにかやんでいた。冷たく輝く三日月を見ながら、静は、義経の無事を祈った。山の中で、道も分からなくなってしまった自分のことではなく、ただひたすら義経の無事を祈っていた。


 朝日を待って、静は歩き始めた。身体は冷えきり、手足の感覚はなくなっていた。空腹さえも、感じない。

 そんな中でも、朝日を受けてキラキラと輝く雪を見て、静は美しいと思った。おそらくは、いま逃避行を続けている義経も、この雪を見て「美しい」と思っているのだろう。

 どんなに遠くに離れていても、自分と義経の心はつながっている。静には、それが確信できた。そして、その確信が、静に強い力を与えていた。


 昼過ぎに、ようやく人里へ出た。

 これからどうしようかと静は考えながら歩く。下手な動きをして怪しまれても困ると思ったが、なぜか旅姿の人が多く、静は誰にも不審に思われずにすんだ。

 旅人たちは、みな同じ方向に歩いて行く。人々の話を立ち聞きしたところ、この近くの神社で祭礼があるという。静の足も、自然とその方向へ向いていた。

 神社は、たくさんの人でごったがえしていた。

 そして、中央の舞殿では、人々が謡いや舞を奉納していた。それは、決して洗練されたものではなかったが、それぞれの思いがこもっていた。


 静は、それをぼんやりと見ていたが、自分がいつの間にか、謡を口ずさんでいることに気がつき、愕然とした。

 こんなときにまで、自分は謡うのだ。義経が苦しい逃避行を続けているというのに――。

 だが、静は思いなおした。義経は、静が嘆き暮らすことを望みはしないだろう。義経が静を見初めたのは神泉苑の雨乞いの舞――神に奉納した舞だ。義経は、舞う静を愛しいと思ってくれていたはずだ。

 ここが神社ならば、義経の無事を神に祈りたい。それには、自分のできる最良のこと――舞を奉納することが、一番なのではないか……。静は心を決めた。


「京から来た白拍子です」


 と言うと、神社の下働きをする社人は、喜んで静を受け入れてくれた。雪でずぶぬれの姿にも疑いも持たず、支度部屋に案内してくれた。

 静はそこで持っていた水干と袴に着替えた。吉野山の逃避行で、水干も袴も、ずいぶんと汚れてしまっている。しかし、贅沢は言ってられない。

 やはり自分は、舞う人なのだ……と静は思った。舞の衣装を身に着けると、気持ちが引き締まる。身体の疲れも、義経と別れた悲しさもどこかへ消えていってしまう。


 静は心地よい緊張感に身を任せ、舞殿へ進みでた。

 最後に、不特定多数の人の前で舞ったのは、神泉苑だった。あれから二年もたっていないのに、神泉苑は、遙か遠い昔のように思える。

 ここは神泉苑のような立派な舞殿ではないし、観客もあのときよりもずっと少ない。

 見ているのは、後白河法皇や公家、武士たちではなく、名もない土地の者や旅人ばかり。だが、その方が自分にふさわしいのではないかと、静は思う。神泉苑よりさらに昔の花雪大劇場にいたのは、名もない市井の人ばかりだったのだから。

 だからこそ、精一杯心をこめて舞おう、と静は思う。


「静御前は、いつでも、どこででも、決して手を抜いたりしない」


 と言った義経の言葉を、偽りにしてはならない。

 舞殿に進み出た静は、自ら謡ながら、舞い始めた。


 在りのすさみの憎きだに

 在りきのあとは恋しきに

 飽かで別れし面影を

 いつの世にかは忘るべき


 いま、自分に謡える謡は、これしかないと静は思い定めていた。

 毎日顔を会わせているときは、憎いと思っていた相手でさえ、会えなくなってしまえば、恋しいと思う。それなのに、恋しいと思い続けているのに、別れなければならなかった人の面影は、いつになったら忘れられるのでしょうか。

 永遠に、忘れられるはずがない――。

 そんな想いを胸に抱き、静は謡を続けようとした。


――その時。

 花雪大劇場の最後の舞を思い出した。『雪の逢瀬』を舞っている時、心に浮かんだとある情景。雪が舞い散る中、静は舞っていた。――誰かを想いながら。

 あのとき舞っていたのは、今の自分。思っていた人は、源義経……。

 静の口から、自然と続きが謡われる。



 別れの殊に悲しきは

 親の別れ 子の別れ

 すぐれて げに悲しきは

 夫妻の別れなりけり。


 どんな別れより、夫婦の別れが最も悲しい……そんな静の舞を、観衆は物音ひとつたてずに見つめている。

 静の舞は美しいだけでなく、義経と別れた悲しみが、身体全体からにじみ出ていたのだろう。静が、舞い終わっても、誰一人声をあげるものがいなかった。


 静自身は、自分の納得のいく舞ができたので満足していた。帰ろう、と思い戻りかけると、観衆の中から声がした。


「静御前だ!」


 静がびくっとして振り向くと、その男は大声で重ねて言った。


「静御前だ! 間違いない。俺は神泉苑の雨乞いの舞を見たんだ。都随一の白拍子と言われた静御前だ!」


 周囲の者も、ざわつき始めた。


「静御前?」


「都の白拍子……」


 などと口々に言う。

 そのとき、最初に叫んだ男が、再び叫んだ。


「静御前なら、源義経さまの想い者。義経さまと一緒のはずだ!」


 その言葉を聞いたとき、静の目の前は真っ暗になった。

 そして、だんだんと気の遠くなるのを感じたとき、静は舞殿にくずれ落ちるように倒れていた。


 静は、広い部屋に一人待たされていた。ここまで案内してくれた武士は、


「今日は、北条時政さまがお会いになる。今までのような言いのがれはできんぞ!」


 と言い残し去っていってしまった。


 吉野で義経と別れてから、一か月が過ぎていた。

 舞殿で倒れた静を、神社の社人が介抱してくれた。だが、静御前だということが知られたため、鎌倉の討手が来て、京に連れ戻された。

 静自身は罪人というわけではなかったので、母・磯禅尼のもとに帰され、再び北白河で暮らすことになった。


 その頃、頼朝の舅――つまり、政子の父である北条時政が、京に来ていた。

 静は何度も呼び出され、義経の行方についてしつこく尋問された。

 始めのうちは、時政の配下の武士が静の取り調べをしていたが、静が、肝心なことはすべて「知らない」「忘れた」と言いはるので、ついに今日、時政自身が調べに当たることになったのだ。


 ほとんど待たされることなく、北条時政が入ってきた。

 時政は、じろりと睨むと、前置きなく訊いてきた。


「静御前だな?」


「はい」


 静は頭を下げたまま答えた。


「顔を上げよ」


 静は顔を上げ、時政をじっと見つめた。やせて小柄な老武士だった。一見柔和そうな顔をしていたが、目つきはするどかった。


「私の郎等たちをずいぶんてこずらせているようだな」


「は?」


「義経のことは、何を聞いても、知らぬ存ぜぬで通しているそうではないか」


「本当に知らないことは、申し上げられません」


 静は悪びれずに答えた。


「では、うそをついてはいないと?」


「はい」


「隠しごともしていないと?」


「はい」


 静は、時政から目をそらさずに言う。


「では聞くが、義経とはどこで別れた?」


「吉野山で」


「吉野のどこだ?」


「女人禁制の立て札のある所です」


「大ノ峰か? 多武峰か?」


「峰の名は存じません」


 時政は、にやっと笑うと続けた。


「義経についている郎等は何人だ?」


「十人ほどです」


「その郎等の名は?」


「堀弥太郎景光、佐藤四郎忠信、伊勢三郎能盛、鷲尾十郎経春、亀井六郎重清、常陸坊海尊……」


 静はよどみなく答えた。


「吉野山に入る前、寺に隠れておったと言ったな?」


「はい」


「その寺の名は?」


「知りません」


「五日間も住んでいたのだろう? それでも分からぬと言うのか?」


「一歩も外に出ませんでしたから……」


 今度は時政は大笑いした。


「静御前。義経は……義経どのは、どの女よりも、静御前を愛でていたと聞くが?」


 静は黙っている。


「別れた後も、どこかで落ち合う約束をしているのではないのか?」


「吉野山でお別れしたときが、この世で会える最後と、二人とも思っておりました」


 静は淡々と答える。しかし、時政はくい下がった。


「どっちへ向かうとか、どの方向を目指しているとか、静御前になら話したろう?」


「行き先は、義経さま御自身にも、お分かりにならないのではないでしょうか」


 時政は、口惜しそうに静をにらんだ。

 その後も、時政はあの手この手で静を責めたが、静はそれ以上のことを決して言わなかった。

 時政があきらめて静を解放したのは、もう夕方になった頃だった。

 北白河の磯禅尼の家へ静が戻ると、磯禅尼は心配そうに静を待っていた。


「どうだった?」


 とたずねる磯禅尼に、静は、


「大丈夫です」


 と答えた。けれど静は心身ともに疲れ、ひどい頭痛がしていた。静は自室にひきこもると、早々に横になった。


 静が「知らない」と言ったことの中には、本当に知らないこともあったし、わざと隠していることもあった。

 義経がこれからどこへ行こうとしているのかは、本当に知らなかった。

 けれど、世話になった寺の名は知っていた。だが言えば、寺の人に迷惑がかかる。これは絶対言うまいと誓っていた。

 時政の関心が静にあるうちに、義経が無事逃げてくれればいい。そんなふうに、静は願っていた。


 静が、神社で時政の手に落ちた後、鎌倉の討手は、吉野山に入っていったらしい。

 しかし、静が義経と別れてから、丸一日以上たっていたから、義経を捕らえることはできなかったという。その後も、討手は吉野山を探索し続けているが、今のところ、義経の行方はまるでつかめていない様子だった。

 おそらく、義経はこのまま逃げおおせるだろうと、静は希望を持っていた。

 そして、静の中にはもう一つの希望が宿っていた。

 床の中で、静は自分のおなかに手を当ててみる。たぶん、新しい命が宿っている。二度目なので、よく分かる。間違いないと思う。

 あの平和な五日間――吉野山のふもとの寺で過ごした――に、宿った生命だと思う。


 今の静の願いは二つだけ。

 義経が無事逃げられること。そして、自分に宿った小さな生命を守り、育てること。

 それ以上は望んでいない。

 けれども、それだけは、何があっても守りとおしたいと、心から願っていた。


名を呼ばれた瞬間、静はもう、ただの旅人ではいられなくなりました。

次回、鎌倉の権力者たちと向き合うことになります。

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