15 雪の別れ
どうしても、共に行けない場所がある。
それでも、想いが消えるわけではありません。
冷たさや苦しさを感じたのは始めのうちだけで、やがて静は無感覚になっていた。
何も見えず、何も感じなくなっていた静だが、自分を抱きしめている義経の腕だけは、確かに感じていた。その温かさだけが、静が――そして、義経がまだ生きている証拠。
どんなに波に奔浪されようと、義経は静をはなそうとはしなかった。その力強さに身をまかせながら、静は自分の意識が次第に遠のいていくのを感じていた。
静は目を開けた。朝の光のまぶしさに、しばらくはよく物が見えなかった。
ただ、波の音だけが聞こえていた。
目が慣れてくると、ここが海辺に建てられた粗末な漁師小屋だということが分かった。ほとんど用をなさない天井のすき間から、日がさしこんでいた。
静は身を起こした。
小屋の反対側で、郎等たちと相談をしていた義経は、すぐに気づいた。
「静、目がさめたか……」
はい……と答えながら、昨夜の義経の力強い腕を思い出していた。
海の中で気を失ってしまったが、義経の腕の感触だけは憶えている。あの腕があったからこそ、自分は助かったのだ。
「静、大丈夫か? どこか痛むところはないか?」
義経は静の側に来て、心配そうに訊いた。
「大丈夫です」
そう答えたが、大丈夫ではなかった。海の水を飲んだせいか喉はヒリヒリと痛むし、身体全体がだるい。熱があるような気もする。髪は塩にまみれて重くなっているし、全身の皮膚もチクチクと痛む。
けれど、これは自分一人のことではないはずだ。義経をはじめ、皆そうなのだろうから、がまんしなくては、と静は考えた。
「もうしばらく休んでいるといい。すぐに、ここも発たなくてはならないから」
そう言うと、義経は再び郎等たちと相談を始めた。郎等はわずか三人に減ってしまっていた。
佐藤忠信・伊豆有綱・堀景光。月影の姿が見えないことに、静は不安を感じたが、尋ねるのはやめた。義経にも、行方はわからないのだろう。
静はじっと義経を見た。西国へ渡る計画が嵐のせいで駄目になってしまったのだが、それほどがっかりしているようにも見えなかった。
むしろ、京都で、頼朝の機嫌をうかがって鬱々と過ごした頃に比べれば、生き生きとしているようにさえ見えた。
「逆境に強い人……と言うより、逆境を楽しんでしまう人なのかもしれない」
二百人いた郎等は、みな、散々になってしまったらしい。
そんなひどい嵐だったのに、自分がここにいるのは、義経が手を離さなかったからだ。
あの嵐の中、義経は決して手を離さなかったのだから、私も決して離すまい。静はあらためて決意を固めた。たとえ義経が再び戦に走ったとしても――。
静は、義経を待っていた。
漁師小屋を出てから、義経一行――静と郎等三人だけだが――は天王寺にある、知り合いの寺に泊まった。
その後、義経は吉野山に潜伏すると言って、静を天王寺へ残して出発した。頼れる寺を見つたら、必ず迎えをよこすと約束して。
静に不安はなかった。あの嵐の中でさえ自分を離さなかった義経が、自分を見捨てるはずはないと信じていた。
二日後、馬に乗って景光が戻ってきた。
庭から声をかけられ、静は外へ出た。その姿を見て、景光は少し驚いた。
「静さま、その姿は?」
「この方が動きやすいし、目立たないでしょう?」
静は水干に袴の白拍子姿だった。ただ、いつもの長袴でなく、ひざ下で短くまとめた袴だ。これは、少年がよくする装いで、髪を高く結った静は、美しい男の子に見えた。
その衣装を身につけた時、静は一人でくすくすと笑った。劇団にいたとき、一度もしなかった男装を、今頃になってするとは思わなかった。
そして、これから逃避行をしようとしている人間が考えるにしては、暢気すぎるかもしれないとも思った。
静に不安はなかった。義経と一緒にいられるのなら、戦に出た義経の無事を祈りながら、一人で待っているときよりも、ずっと平穏な気持ちでいられる。
馬にゆられて、三日後、静は吉野山にある寺に着いた。そこには義経が待っていた。どこから聞きつけたのか、三人しかいなかった郎等も六人に増えていた。
「静……」
二人きりになると、義経は黙って静を抱き寄せた。静も何も言わなかった。
お互いの心臓の鼓動だけが聞こえる。この瞬間こそが最良のとき……そう感じていた。
そうして、どのくらいの時間がたっただろうか。義経は静をはなし、その姿をつくづくと見ていった。
「その姿……初めて神泉苑で静を見たときのことを思い出すな。また、静の舞が見たいものだ」
「いつか。必ず、またお見せします」
ここでは舞えないことは、静にも義経にも分かっていた。
かくまってもらっている身で、暢気に謡や舞をしていたら、ここの僧たちに何と思われるか……。いつかまた、堂々と舞える日が来ることを、静は信じていた。
この寺で、静は五日間すごした。
義経は、郎等たちと何か相談をするときと、再び義経のもとに帰ってきた郎等を迎えるとき――大物浦ではぐれた郎等たちは、次々とこの寺にやってきていた――以外は、ずっと静のそばにいた。
そして、静と義経は、雪ばかり見て二人の時を過ごしていた。
「雪はいい。どんなものも美しく変えてくれる。ああやって空から舞い降りてくる姿は……まるで……」
「……天の使いのよう……ですか?」
言葉につまった義経のあとを、静がひきとる。『そのとおりだ』と言うように、義経はうなずく。
「白という色は、この世で一番美しい色かもしれないな。……何物にも染まらない潔さ」
「静も、白が好きです。どんな色よりも」
「静は白い袴や水干を好んで着ていたな。神泉苑での、白い袴と浅縹色の水干……今でも目に浮かぶようだ」
そんなことを語り合いながら、二人の日々は過ぎていった。こんな穏やかな日々はもう二度とないかもしれない。静はそう感じていた。だからこそいっそう、この日々を大切にすごしていた。
五日目の夜、床の中で義経は言った。
「ここも危なくなってきた。僧たちの中に不満がたまってきているようだ」
それは静も感じていたことだった。義経の郎等は次々と増え、今は十人以上になっていた。かくまいきれない……と、寺の僧たちが思ったとしても、仕方のないことだろう。どうやら、僧の中には、始めから義経を受け入れることに抵抗を示した者もいたらしい。
「明日、吉野山のもっと奥へ発とうと思う」
「わかりました」
静は覚悟を決めた。雪の中の逃避行はつらいだろう。でも、何があっても義経について行く。自分はそう決心したのだ。
「……静……明日行こうとしている吉野の多武峰は……女人禁制なのだ……」
義経はつらそうに言った。しばらく静は何を言われたのか分からなかった。
「女人禁制……」
何度も口の中でつぶやき、くり返し、ようやく意味が分かった。
「……では?」
「そうでなくても、雪の山。女の足では……」
「私に、帰れ……と?」
「……すまない……」
義経の言葉は苦しそうだった。
静にはなんとなく分かった。女人禁制を破れないのも事実だし、女が足手まといというのも事実だろう。
ただ、その二つだけが自分を帰そうとする理由のすべてではない。静にはこの五日間の様子で気づいていた。
女連れであることは、ここの僧たちに快く思われていない。口にこそ出さないが、義経の郎等たちも同じだろう。誰もが妻や子や恋人を残して義経についてきているのに、義経一人が静を連れていくわけにはいかないのだと。
「……わかりました」
けっして義経とは離れまいと決心していた。けれども、自分が一緒にいることで、義経の命が危険にさらされるのなら、身を退かなければならないだろう。
静にとって一番大切なのは、義経の命だ。
「ぎりぎりの所までは、お見送りさせてください。女人禁制というのは、どこからですか?」
義経は、半ばほっとしたような、それでいて少し哀しげな表情で言った。
「たぶん、一ノ鳥居あたりからだろう」
「では、その一ノ鳥居の前でお別れいたします」
静は涙も見せずに言った。泣くのは、別れた後にしよう……そう思ったのだった。
義経は、静を抱きしめた。
「京で、磯禅尼のもとで待っていてくれ。落ちついたら、必ず迎えに行くから」
「はい」
静は、そう言って義経の胸に身体を預けたが、その言葉通りになると信じられるほど、楽観的ではなかった。
「これが、最後かもしれない……」
自分もそう思っているし、おそらく義経もそう思っているだろう。静は、義経の胸に身体を預けながら、そう思った。
――朝。
静はこの日、水干を身に着けなかった。普通の女性の旅支度をした。今日が最後になるかもしれないのだから、義経の心の中に残る静の最後の姿は、やはり女でありたかった。
「静。……雪だ」
風が強いのか、雪は激しく舞っていた。
「我ながらおかしいとは思うが……こんな吹雪では、難儀な旅になるというのに、やはり、雪は美しいと思ってしまう。やはり、私は変わり者なのかもしれないな」
義経は自嘲めいた口調で言った。
静は、ためらいなく、言葉を返した。
「義経さまが変わり者なら、静も同じです。私も、この雪を美しいと思います。お別れする朝の景色が、美しいものでよかったと、そう思ってしまいます」
静は、ようやく悟った。
戦でしか生きられない義経も、花鳥風月を美しいと思う義経も、同じ一人の人間なのだ。静は花鳥風月を愛でる義経に惹かれ、その姿しか見たくないと思っていた。
けれども、今は違う。戦でしか生きられない義経も、愛おしいと思う。ともに、その痛みを分かち合いたいと――。
「この雪の中で舞えたら、どんなにいいでしょう」
すると、義経は微笑みながら目を閉じた。
「大丈夫だ、静。私には見えている。この雪の中で舞う、美しい白拍子の姿が」
『不許女人入山』
女人の入山を許さず――黒々と書かれた文字は、激しい吹雪にも埋もれずに、冷たく立っていた。その文字を静はじっと見つめていた。
郎等たちは、内心おそれていたようだったが、静はそれを前にしても、泣きも叫びもしなかった。ただじっと見つめ、やがて、義経に向かってこう言った。
「ここでお別れですね。……御無事をお祈りいたします」
義経は黙ってうなずいた。そして、静に小さな包みを手渡した。
「これは……?」
「『初音』の鼓だ。持って行くがよい」
静の脳裏に、堀川で過ごしたときのことが、あざやかによみがえった。義経の笛と静の鼓とを合わせていた、あの幸せな時間――。
静は、愛し子のように、鼓を抱きしめた。
「景光!」
義経は、郎等の堀景光を呼んだ。
「はっ」
「静を京都まで送っていってくれ」
「承知しました」
と景光が言うのと同時に、静は叫んだ。
「いけません!」
義経がいぶかって振り返ると、静は言った。
「いけません。大切な御郎等を私などにお付けになっては。大物浦の嵐を乗り越えて、義経さまの元に駆けつけてくださった大切な御郎等ではありませんか。義経さまのおそばにいていただかなければ。静は一人で、京に戻ります」
「駄目だ。女の一人旅など、許すわけにはいかない」
義経の言葉に、郎等たちが戸惑っているのを見て、静は言った。
「それならば、あの人たちを付けてください」
静が指したのは、荷物を運ぶために、寺から付いてきた雑色二人だった。
義経はまだ納得できない様子だったが、静の意志が強いのを悟ったのか、渋々承知した。少し離れた所にいた二人を呼び寄せると、何か言い含めていた。
雑色たちは『わかった』というようにうなずき、持っていた義経の荷物を郎等たちに渡した。
「静、くれぐれも無茶はするな」
「はい。義経さま、ご無事をお祈りしています」
義経は行きかけて、ふと足を止め、静に言った。
「今朝、雪の話をしている時に気づいた。静が私のそばに来たこと、そして、今の私に考える時間が充分あること、そのすべてが天の導きだと思う」
義経はそれだけ言うと、山の中に消えていった。つらくなるばかりだと思ったのか、一度も振り返ろうとはしなかった。
静は、その姿をいつまでも見送っていた。義経の後ろ姿が見えなくなっても、なおじっと雪の中にたたずんでいた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この別れは、静にとっても義経にとっても、「選ばされた別れ」でした。
次回も、お付き合いいただけたら幸いです。




