最終話 始まりの日
院長の裁きは、ひと月ほどで決まった。
4人の娘を塔から突き落とし、うち3人を死なせた罪。王立天文院長という地位も、学者としての名声も、院長を守る盾にはならない。
取り調べのあいだ、院長はほとんど何もしゃべらなかったという。
ただ一度だけ、兄にこう言ったそうだ。
「わたしが止めなければ、いずれ誰かが同じことをする。祈りは、人より長生きするものだ」
その話を聞かせてくれたのは、夜更けの居間でのこと。兄は葡萄酒の杯を手の中で回しながら、ひどく疲れた顔をしていた。
「リーネ。あの人は、最後まで自分が間違っているとは言わなかった」
「……そう」
「お前を落とそうとした相手だ。憎んでいいんだぞ」
「憎んでるわ。たぶん」
自分の声が、思っていたより弱い。
兄は杯を置いて、わたしの頭に手をのせた。子どものころ、夜中に前世の夢を見て泣いていたわたしに、よくそうしてくれたように。
「もう、塔には上がるな」
「上がらないわ。当分は」
「当分、か」
兄は苦笑いして、それ以上は何も言わなかった。
院長の最後の言葉に、わたしは返す言葉を持たない。祈りは、人より長生きする。それがどれほど本当のことか、この世界でたぶん、わたしだけが知っているのだから。
◇
天文院の新しい院長が決まるまでのあいだ、観測は見習いのエミルがひとりで続けることになった。
わたしは外出禁止をもう一度言い渡されたけれど、天文院へ行くことだけは、なぜか父が許してくれた。命の恩人に礼を尽くすのは貴族の務めだ、というのが父の理屈だ。ほんとうは、塔の上から戻ってきてから眠れなくなった娘を、少しでも外に出したかったのだと思う。
半地下の観測室で、エミルは黙って帳面をめくっていた。
「院長の計算を、ぜんぶ洗い直しました」
「それで?」
「院長は、間違っていなかった。小月は近づいています。ここ数年で速さが変わったのも本当です」
エミルは、帳面の一枚をわたしに見せかけて、やめた。代わりに、窓の外の空を指さした。
「でも、院長はひとつだけ間違えていた。小月が近づくのは、誰かの祈りが足りないからじゃない。大月に引かれているからです。大月と小月は、互いに引き合っている。軽い方が、少しずつ重い方へ寄っていく。それだけのことです」
「止める方法は」
「ありません。何人の娘を塔から落としても、何も変わらない。小月はいつか大月に近づきすぎて、砕けて、消える。僕が生きているうちではないし、リーネさまが生きているうちでもない。けれど、いつか必ず」
エミルは、静かに帳面を閉じた。
「月が、ひとつになる日が来ます」
わたしは、うなずいた。
知っている。
わたしは、その空を見たことがある。
◇
王都の噂というものは、わたしが思っていたよりずっと足が速い。
天文院長が、古い月鎮めの儀式を蘇らせようとした。それを、ハルシュタイン家の娘が身を挺して止めた。
最初のうちは、それだけの話。
けれど、エミルの洗い直した計算が王宮に上がり、小月がいずれ落ちることがおおやけになると、噂は少しずつ形を変えはじめた。
月鎮めは、ほんとうに効いていたのではないか。
数百年前に小月が近づいたときも、昔の人は娘を還して、月を留めたのではないか。
だとしたら、それを止めた娘のせいで、小月は落ちるのではないか。
市場で、そう話している人の声を聞いた。マルタがあわてて、わたしの耳をふさごうとした。
「お嬢さま、気になさってはいけません。みんな、怖いだけなんです」
分かっている。
人は、怖いものに理由をつけたがる。誰かのせいにできれば、少しだけ怖くなくなる。
そして、その誰かの名前は、きっと長く残る。
月鎮めを止めた令嬢。ふたつめの月を落とした令嬢。
その名前を、歌にする人がいるかもしれない。祈りを途絶えさせてはならないと、ひっそり儀式を守り続ける家が出てくるかもしれない。何百年もかけて、祈りは祭りになり、儀式は灯籠になり、最後の一句だけが、そのまま残る。
そしてずっと先の、月がひとつになった空の下で、ある家の少年が、幼なじみの背中を押す。
あの屋上で、わたしを殺したのは、カイの手だった。
けれど、その手をあそこまで運んできたのは、わたしだ。
わたしが今、ここで院長を止めたから。
◇
「始まりは、どこにあるんでしょうね」
ある日の夕方、観測室で、わたしの話をひととおり聞き終えたエミルが言った。
全部、話した。前の世界のこと。屋上のこと。カイのこと。月がひとつしかなかった空のこと。
エミルは、最後まで笑わなかった。茂みの中のわたしを見つけたときと同じ、少しあきれたような、けれどまじめな顔で、黙って聞いていた。
「リーネさまが院長を止めたから、言い伝えが生まれて、その言い伝えのせいで、未来のリーネさまが殺される。殺されたから、こちらに生まれ変わって、また院長を止める。どこが最初なのか、分からない」
「どこにもないのかもしれないわね」
わたしは、天井の細い窓から空を見上げた。
「輪には、始まりがないもの」
「……怖くないんですか」
「怖いわ」
正直に答えた。
「でもね、エミル。あの夜、わたしが落ちていたら、次は5人目の娘が出ていたと思うの。院長さまは、月が落ちるのを止めるまで、やめなかったでしょうから」
「たぶん、そうです」
「仕立て屋の娘さんね、先週、婚約したんですって」
エミルが、少し驚いた顔をした。
「お兄さまが教えてくれたの。あの子は、生きてる。それだけは、未来がどうなっても変わらない」
言葉にしてみて、ようやく、自分がそう思っていることに気がついた。
もう一度あの塔の上に立ったとしても、わたしはきっと、同じことをする。
◇
その夜、母がわたしの部屋を訪ねてきた。
小さな、古い木箱を抱えている。
「あなたが17になったら渡そうと思っていたのに、ばたばたしていて、すっかり遅れてしまったわ」
木箱の中には、首飾りが入っていた。
青い石。
灯り石の光を受けて、水の底みたいに、ゆらゆらと光っている。
「おばあさまから、わたしが受け継いだものよ。ハルシュタインの娘が、代々受け継いできたの」
わたしは、しばらくそれを見つめていた。
見覚えがある。
薄暗い展示室の真ん中。ガラスケースの中。照明を浴びて光っていた、ずっと昔の時代の首飾り。
――昔の、えらい人のものらしいよ。
カイは、あのとき、知っていたのだ。
わたしは、首飾りを手に取った。ひんやりとした重みが、てのひらに沈む。
「つけてみて」
母に言われて、首にかける。鏡の中で、青い石が胸元に落ち着いた。
「よく似合うわ」
母は、満足そうに笑った。
窓の外には、ふたつの月。
わたしは、ずっと先の空のことを考えた。月がひとつになった空。魔法のない街。蛇が寝そべったような形の川。満員の電車で、背の高い幼なじみに守られながら、毎朝その川を眺めていた女の子。
その子は、いつか、ガラスケースの中にこの首飾りを見つける。
そして、なぜか、その前から動けなくなる。
◇
夕方の公園で、子どもたちが縄跳びをしている。
長い縄を2人で回して、残りの子が順番に飛びこんでいく。わたしの番が来て、縄の中に飛びこんだ。足もとで縄が地面を叩く。みんなが歌う。
とうの うえの むすめさん
つきに かえれば あすがくる
ふたつめの 月を とめたくば
むすめを ひとり おくりましょ
いつもは、このあたりで誰かが引っかかる。けれど今日は、誰も引っかからなかった。わたしは飛び続け、歌は続いていく。
りねさま とめた とめちゃった
ふたつめの 月は おっこちた
縄から飛び出して、息を弾ませながら、隣の子に訊いた。
「りねさまって、だあれ?」
隣の子は、首をかしげた。
「知らない。昔の、えらい人」
見上げると、夕焼けの残る空に、月がひとつ浮かんでいた。
お読みいただき、ありがとうございました!
皆様にお願いです
ブックマークや下の【☆☆☆☆☆】をタップして【★★★★★】に
応援していただけますと励みになります! よろしくお願いいたします(^^♪




