ドアマット令嬢に似合うドレスとは? ~前世持ちの仕立て屋は客を選ぶ~
ここは王都の東端にある、小さな仕立て屋 《フィル・ブラン》。
表通りから一本外れた細い路地にあり、客が三人も入れば窮屈になるほどの広さしかない。そのくせ、王都というだけで家賃は驚くほど高い。
それでもどうにか店を続けていけているのは、前世の知識をもとに考えた意匠が、それなりに貴族の女性たちへ受け入れられているからだ。
一度注文してくれた客が、次の夜会やお茶会のたびにまた訪れてくれる。ありがたいことに、最近ではそんなお得意様も増えてきた。
「うう……緊張します」
《フィル・ブラン》の唯一の従業員であり、見習いのミサが、裁断台の前で両手を握りしめている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。私も一緒にやるんだから」
「でも、人様のドレスですよ? 初めてちゃんと縫わせてもらうんです……緊張しないなんて無理です……!」
ミサにはこれまでも、裾の始末や簡単な縫い合わせは任せてきた。今回は初めて、一着のドレスを仕立てる工程に最初から最後まで関わらせることにした。
もちろん、難しい部分は私が担当する。ミサには仮縫いや直線の縫い合わせなど、今の腕で任せられるところをやってもらう予定だ。
「でも、本当によかったんですか? ずいぶん安く引き受けたんですよね」
「こちらも勉強させてもらうんだから、お互い様よ」
今回の客には、最初から事情を説明してある。見習いが一部を担当する代わりに、通常より仕立て代を下げる。そう提案すると、彼女は嫌な顔一つせず、
『もちろんです。わたしでよければ、ぜひ』
と笑ってくれた。
「感じのいい方でよかったですね」
「本当にね」
シンシア・エルシュタイン伯爵令嬢。
伯爵家の令嬢と聞いていたので、最初はもっと豪華な格好で来るのかと思っていた。ところが、実際に現れた彼女が着ていたのは、何度も袖を通したことが分かる古い外出着だった。
丁寧に手入れはされているものの、袖口には少し擦れがあり、流行からも数年遅れている。耳飾りも首飾りもなく、伯爵令嬢にしてはずいぶん質素だった。
予算を聞いたときにも驚いた。夜会用のドレスを一着仕立てるには、かなりぎりぎりの金額だったからだ。
まあ、だからといって客の家の事情を詮索するのは野暮というものだ。私たちがやるべきことは、預かった予算の中で、できる限りいいものを仕立てること。それだけだ。
「よし。じゃあ今日は型紙から――」
ミサへ声をかけた、そのときだった。
店の扉が開き、鈴が鳴った。
◆
「――まだ仕立て始めていないのでしょう?」
そう言ったのは、エルシュタイン伯爵夫人だった。その隣には、若い令嬢と騎士服をまとった青年が立っている。
令嬢はシンシア様ではない。
レースをふんだんに使った淡い桃色のドレスをまとい、胸元には花をかたどったダイヤと真珠の首飾りをつけている。艶のある金色の髪に、ぱっちりとした大きな瞳をした愛らしい少女で、伯爵夫人によれば次女のフローラ様だそうだ。
シンシア様が着ていた服とは、明らかに金のかけ方が違う。
そして、そのすぐ隣に立つ青年も、ひと目で上流貴族の出だと分かる身なりをしていた。仕立てのいい騎士服に、やけに磨き上げられた上質な靴。護衛として同行しているようだが、フローラ様との距離は妙に近い。
「こちらのお店で仕立ててもらうの、ずっと憧れていたんです。《フィル・ブラン》のドレスは華やかさで有名でしょう。一度お願いしたくて」
フローラ様が少し上目遣いにこちらを見る。
「それに……オスカー様が、華やかなドレスを着たわたくしが一番素敵だって、いつも言ってくださるんですの」
「事実だからな」
オスカー様と呼ばれた青年は、フローラ様のドレスへ目をやった。
「それも悪くないが、君にはもう少し鮮やかなものが似合う。君の金髪がよく映えるドレスがいい」
「まあ、オスカー様」
フローラ様が嬉しそうに頬を緩める。
なるほど。護衛というだけではなく、恋人でもあるらしい。
「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
「それでね」
伯爵夫人が当然のように続けた。
「シンシアが頼んでいるドレス、この子の注文に変えてほしいのよ。どうせ同じ家から出すお金ですから、問題ないでしょう?」
「ですが、シンシア様からは何も伺っておりません」
「本人も了承しているわ」
するとフローラ様も笑顔で頷いた。
「お姉様は、わたくしにとても優しいんです。昔からいつも譲ってくださるんですよ」
「そうですか……」
それはつまり、まだ本人から了承を得ていないということではないだろうか。
とはいえ、目の前にいるのは伯爵夫人だ。そう簡単に突っぱねていい相手でもない。
それでも、ふとシンシア様の顔が浮かんだ。
布を広げるたびに目を輝かせ、意匠帳を何度も見返していた。
『完成がとても楽しみです』
そう言って、嬉しそうに笑っていた。
なのに、譲る?
「……申し訳ありませんが、お受けできません」
「どうして?」
「シンシア様ご本人から、変更のご希望を伺っていないためです」
「母親である私が言っているのよ?」
「ご注文いただいたのはシンシア様ですので」
伯爵夫人の顔から笑みが消え、その横でオスカー様も露骨に眉をひそめた。
「伯爵夫人がおっしゃっているのだ。そこまで頑なに断る必要があるのか?」
ミサがびくりと肩を揺らした。
さすがに私も一瞬、言葉に詰まる。伯爵夫人だけでも十分に断りづらい相手なのに、騎士まで加わるとは。
「オスカー様……わたくしのために怒ってくださるなんて……」
「君が着たいと言っているんだ、当たり前だろう。それを仕立て屋ごときが拒むとは、許される話ではない」
ひどい言われようだ。
「申し訳ありません。シンシア様ご本人の了承がなければ、変更はいたしかねます」
オスカー様が小さく舌打ちする。
「伯爵夫人、こんな店に頼む必要はないでしょう」
「ええ、そうね。融通が利かない店だこと。だったらキャンセルするわ。前金を返してちょうだい」
「そちらも承れません」
「何ですって?」
「採寸はすでに終わっておりますし、必要な材料も一部手配しております。ご契約時にお伝えしたとおり、この段階で前金の返金はいたしかねます」
「まだドレスは出来ていないのだろう」
「ですが、仕事はすでに始まっております」
「そんな理屈が通るものか!」
オスカー様の声が店内へ響き、ミサがすくむ。
……そろそろ、近くの詰所へ人を走らせたほうがいいだろうか。
そんなことを考え始めたところで、フローラ様が口を開いた。
「オスカー様、お母様……わたくしなら大丈夫です」
「フローラ?」
「お店のご都合もあるのです……仕方がありませんわ」
ぽろりと頬を涙が伝う。
「まあ、フローラ……そんなことをあなたに言わせてしまうなんて……!」
伯爵夫人が娘の肩を抱いた。
「あなたが着たいと言っているのに……! この店も、シンシアも、わがままばかり言って!」
ふと、涙で潤んだ大きな瞳と目が合った。
なぜだろう。ものすごく私が悪い人みたいになっている。
「伯爵夫人、フローラ、もう行きましょう。こんな店でなくても、君にふさわしい店は他にある」
「そうね。ああ、とんだ無駄足だったわ。早く別の仕立て屋にお願いしないと」
「ありがとうございます、オスカー様」
フローラ様はオスカー様の手を取り、三人は店を出ていった。扉が勢いよく閉まり、鈴が大きく鳴る。
しばらくして、ミサがおそるおそる口を開いた。
「先生……お断りしてよかったのでしょうか……」
「契約したご本人がいないのに、勝手に変更するわけにはいかないでしょう」
「……そうですね」
ミサが目を伏せる。
せっかくのミサのデビューだというのに、なんとも後味が悪い。
◆
その翌日。
シンシア様が一人で店を訪れた。
「申し訳ありませんでした」
椅子へ座るなり、深く頭を下げる。
「母と妹がご迷惑をおかけしました」
「シンシア様が謝ることではありませんよ。大丈夫です、ご予約はそのままにしてありますから」
「そのことなんですが……キャンセルをお願いしたくて」
「え? どうして……」
顔を上げたシンシア様は、以前来たときとは別人のようだった。あんなに楽しそうだった目から、光が消えている。
「昨日の件を母が父に話したらしく、残りの代金は出さないと言われまして……」
意味が分からない。
昨日見たフローラ様の姿が脳裏に浮かぶ。
あのドレスに使われていたのは、ヴァルモン織房の絹織物だった。レースも、おそらくリエーヌ地方で作られた上等なボビンレースだろう。あの一着だけでも相当な値が張る。
伯爵家そのものに金銭的な余裕がないとは思えない。
では、なぜシンシア様にだけ?
「あの……よかったら、事情を聞かせてもらえませんか?」
気がつけば、そんなことを口にしていた。
「何か、お手伝いできることがあるかもしれません」
シンシア様はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと話し始めた。
「わたしの母は、十年ほど前に亡くなりました」
シンシア様は、エルシュタイン伯爵と最初の妻との間に生まれた娘だった。
だが伯爵には、妻の存命中から関係を持っていた女性がいた。その女性との間に生まれていたのがフローラ様だった。
シンシア様の母親が亡くなったあと、伯爵はその女性とフローラ様を屋敷へ迎え、女性を後妻にした。
「父は、母に似たわたしより、フローラを可愛がりました」
シンシア様が膝の上で両手を握る。
「義母も、わたしのことはあまり好きではないようです。昔から何かとフローラを優先して……」
やがてシンシア様は、妹の買い物や茶会の準備など、本来なら使用人に任せるような用事まで言いつけられるようになったという。
「フローラは、わたしに嫌がらせをしてくるわけではないんです。ただ……昔から、わたしのものを欲しがることが多くて……」
『お姉様、その髪飾り、とっても素敵。わたくしもつけてみたいわ』
そう言われて断ると、
『駄目なの? お姉様は、わたくしのことがお嫌いなのね……』
途端に目を潤ませる。すると義母がやってきて、
『髪飾りくらい貸してあげなさい。お姉さんでしょう?』
そう言われ、結局は譲ることになる。
『ありがとう、お姉様! やっぱりお姉様は優しいわ。わたくしのこと、大好きなのね』
「……それ、戻ってきたんですか?」
「いいえ」
「ですよね……」
なんとなく分かった。
欲しいと言えば誰かが譲ってくれる。それは自分が愛されているから。ずっと、そういう世界で生きてきたのだろう。
そう思うと、昨日の上目遣いも涙も妙に納得できた。
そんなことが何度も続き、シンシア様の持ち物は少しずつ減っていったという。とうとう母親の形見までフローラ様に「綺麗ね」と言われ、義母から譲るよう求められたこともあったそうだ。
その一方で、シンシア様への教育だけは途切れなかった。
「父は、すでにわたしの縁談を決めていまして」
相手は広い領地を持つ裕福な貴族で、シンシア様よりかなり年上だという。
領地を持つ家へ嫁ぐ以上、役に立たなければ困ると、家政だけでなく領地経営についても学ばされていたらしい。
なんという父親だ。娘として大切にする気はないのに、嫁ぎ先で価値が出るよう教育だけはするらしい。
「先方から、正式に話を進める前に、一度は王宮の夜会へ出ておいてほしいと言われていて」
「では、今回の夜会が終われば……」
「縁談がまとまれば、わたしは地方へ移ります。そうなれば王都へ戻ってくることも、ほとんどなくなると思います」
「……」
「だから、せめて最後に」
彼女の視線が店内へ向く。
「王都にいるうちに、ずっと憧れていた《フィル・ブラン》でドレスを作ってみたかったんです」
それから、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
「あと……少しくらい、出会いもないかなって期待していました。華やかなドレスを着ていたら、誰か声をかけてくれないかな、と」
隣にいたミサが、目を潤ませながらぐっと唇を噛んでいる。
「それなのに……ご迷惑をおかけして、本当にすみません」
「いえ……」
「あの」
ミサが堪えきれなくなったように口を挟んだ。
「夜会には、どうされるんですか?」
「母の古いドレスを使います」
「そんな……先生、なんとかなりませんか……」
「そうしたいのは山々だけど……前金だけだと、布代だけでもかなりぎりぎりなのよね」
「あ……そうでしたね……」
最初に予定していた布を使えば、それだけで前金のほとんどが消える。まして刺繍やレースを加える余裕などない。
私は腕を組んだ。
何かないか。布代さえ浮かせられれば、仕立て賃はどうにかなる。
「シンシア様……ご実家に、使っていない布はありませんか?」
「布?」
「反物でも、昔のドレスでも。状態がよければ使えます。できれば大きな布があれば」
「大きな……」
シンシア様が考え込む。
「ありますけど……ドレスに使えるようなものでは……」
私は身を乗り出した。
「見せてください」
◆
数週間後。
「あなた、また妙なものを作ったわね」
常連客のローデンベルク伯爵夫人が、採寸をされながらそんなことを言った。
「妙なもの? はて、何のことでしょう」
「とぼけちゃって。王宮の夜会にいたでしょう。葡萄色のドレス。ずいぶん奇抜だったわねえ」
「そんなに浮いていました?」
「浮いてたわ。いい意味でね」
伯爵夫人は楽しそうに笑う。
「あれだけ皆が飾り立てている中で、一人だけレースも宝石もなしでしょう?」
シンシア様が後日持ち込んできたのは、なんとカーテンだった。
数年前、客間を改装した際にエルシュタイン伯爵が取り寄せたものらしい。かなりの高級品だったそうだが、フローラ様が色を気に入らず、一度も使われないまま蔵へしまわれていたという。
黒に近い深い紫色の布は、角度によって赤みを帯び、光を受けるたびに色合いが変わった。
「先生……これ、かなり厚みがありますよ。張りも強いですし、レースを合わせたら浮いてしまいます。これでドレスなんて……」
ミサが困った顔でこちらを見る。
私は布の端を持ち上げ、何度か折り重ねてみた。
「見て。ほら、こうして折り込んでも形が崩れないでしょう?」
「あ……」
「だったら、レースなんて使わなければいいのよ。この張りを利用して、布そのものを飾りにするの」
胸元から腰にかけて布を斜めに幾重にも折り重ね、片側へ寄せたところで大きく捻る。そこからさらに布を折り返し、花びらにもリボンにも見える大きな輪を作った。
張りのある布だからこそ形が崩れず、胸元に大胆な立体感が生まれる。
腰から下には布を惜しみなく使い、裾へ向かって大きく広がる形にした。歩けば深い襞が揺れ、そのたびに黒紫だった布が葡萄酒のような赤紫へと変わる。
夜会当日、シンシア様は《フィル・ブラン》で着付けを済ませた。
家へドレスを持ち帰れば、何を言われるか分からないと話していたので、完成した一着は夜会の日まで店で預かっていたのだ。
髪と化粧を担当したのはミサだった。意外にも、これがかなり上手い。
ちなみに私はからきし駄目だ。
「すごい……少し向きを変えただけで、色が変わって見えます……!」
鏡の前で、シンシア様が呟く。
大きく取った布の襞が光を拾い、黒に近い紫から、葡萄酒のような鮮やかな赤紫へと表情を変えた。
「カーテンだったなんて信じられません……! 本当に、ありがとうございます!」
振り返ったシンシア様は笑っていた。初めてこの店へ来て、意匠帳を眺めていたときと同じ顔だった。
「最初は、ずいぶん簡素なドレスだと思ったの。でも、気づいたら何度も見てしまうのよね」
ローデンベルク伯爵夫人が言う。
「それなら成功です」
「ただ、人を選ぶわね」
「ええ、確かに……」
あの意匠は、可愛らしい雰囲気の人より、落ち着いた人のほうが似合う。どのみち、フローラ様には似合わなかっただろう。
「あれだけ目立つ格好で、一人で堂々と立っているのよ。声をかけるほうにも勇気がいるわ」
「……あ。そっちですか」
しまった……そこまでは考えていなかった。
「でも、一人だけいたわよ」
「え?」
「あの令嬢に声をかけていた男性」
思わず手が止まった。
「本当ですか?」
「ええ。最近叙爵された子爵だったかしら。しばらく二人で話していたわ」
「へえ……」
「それでね」
夫人が声を潜めた。
「そのエルシュタイン伯爵令嬢、家出したんですって」
「……はい?」
今度こそ手が完全に止まり、そばで作業をしていたミサまでこちらを振り返った。
え?
本当に、シンデレラストーリー?
◆
それから数か月。
シンシア様がどうなったのか、しばらく分からなかった。
噂だけはいくつか聞いた。エルシュタイン伯爵家の長女が家を出た。父親が激怒している。妹はあの騎士と結婚し、夫は婿としてエルシュタイン家へ入った。
その程度だ。
どうやら駆け落ちではなかったらしい。では、一体どこへ行ったのだろう。
そんなことを時折思い出していた、ある日の午後。
店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ――」
「あっ!」
ミサが先に叫ぶ。
「シンシア様!」
「お久しぶりです、ミサさん」
そこに立っていたのは、確かにシンシア様だった。以前より髪をきっちりとまとめ、落ち着いた色の仕事着を身につけている。
何より、顔つきが変わっていた。以前のような疲れた様子がない。
「お久しぶりです、シンシア様。家出したって聞いて、心配していたんです。今はどちらに?」
「あの夜、声をかけてくださった方のところで働いています」
シンシア様が笑った。
詳しく聞いてみると、あの夜、彼女はあえて広間の中心に一人で立っていたらしい。
「あのドレスですからね。全然声をかけられませんでした。それでも声をかけてくださるのは、自分に自信のある方くらいだろうと思って、待ってみたんです」
「まさか、あのドレスをそんなふうに使うとは……」
「わたし、あの夜を逃したら、地方へ嫁ぐ道しかありませんでしたから。だから、懸けてみたんです」
そこで現れたのが、例の子爵だった。
商会で財を成し、王家への功績によって爵位と領地を与えられた人物だったそうだ。
彼はシンシア様をダンスへ誘うと、こう尋ねたらしい。
『どうして、そんなに目立つ格好で一人で立っているんです?』
『人を探していたんです』
『どんな?』
『度胸のある方を』
子爵は大笑いしたそうだ。
そのまま踊りながら話しているうちに、子爵が新しく与えられた領地の人手不足に悩んでいることを知った。爵位を得たばかりの家で、領地や貴族家の実務を任せられる人材が不足していたらしい。
「それで、わたしを雇ってください、とお願いしました」
「……踊っている最中に?」
「はい。子爵もさすがに驚いていました」
ただ、夜会でそんな駆け引きを仕掛けてくる令嬢が珍しかったのか、面白がって話を聞いてくれた。
皮肉なことに、父親から嫁ぎ先で役に立つよう身につけさせられた知識が、子爵の求めていたものとぴったり合っていた。
もちろん、その場で採用が決まったわけではない。翌日改めて能力を確かめられ、正式に雇ってもらえることになり、翌朝には子爵家から迎えに来た馬車へ乗ったそうだ。
「家の方は止めなかったんですか?」
「そもそも、わたしの行動なんて誰も気にも留めていませんでしたから。両親には手紙だけ残しました。『今までありがとうございました』と」
「それは……幸いでしたね。それで今日は、どうして王都へ?」
「実は、エルシュタイン伯爵位を継ぐことになりまして」
「……はい?」
またしても予想外だった。
「なぜ?」
そこから聞かされた話は、私が想像していたより何倍も酷かった。
シンシア様が家を出たあと、フローラ様とオスカー様は結婚した。
エルシュタイン伯爵には息子がいなかったため、オスカー様は婿として家へ入り、いずれ伯爵家を継ぐことになっていたそうだ。
オスカー様は、もともとフローラ様が惚れ込んで求婚した相手だった。だが、騎士として生きてきた彼に領地経営の経験はなく、フローラ様にもそうした知識はほとんどなかった。
そのため、父親であるエルシュタイン伯爵が当主を務めるかたわら、少しずつ仕事を覚えていく予定だったらしい。
ところが、二人は伯爵家へ入った途端、ずいぶんと羽振りのいい暮らしを始めた。
オスカー様は新しい馬車や高価な軍馬を買い、騎士時代の友人を招いては宴を開いた。伯爵家の三男として、これまで好きに金を使えなかった反動もあったらしい。
そしてフローラ様は、それを止めるどころか、夫が欲しがるものを嬉々として買い与えた。
夫が喜ぶたび、フローラ様も心から嬉しそうに笑っていたという。
欲しいものを与えてもらうことが当たり前だったフローラ様にとって、オスカー様は初めて自分から何かをしてあげたいと思った相手だったらしい。
『あなたが嬉しいなら、わたくしも幸せ。みんな幸せね』
幸せなのは、たぶん二人だけだっただろうに。
当然ながら支出は増えていたものの、伯爵が家を取り仕切っていたため、贅沢好きの若夫婦として、それなりに幸せに暮らしていたそうだ。
「……それで、どうして爵位の話になるんです?」
私が尋ねると、シンシア様は少しだけ言いにくそうに目を伏せた。
「妹の夫が、義母と関係を持っていたんです」
私もミサも黙った。
何をどうしたら、そんなことになるのだろう。
「最初に気づいたのは父でした」
婚姻後、娘夫婦の散財が増える中、オスカー様の身なりまで不釣り合いなほど上等になった。父が不審に思って調べたところ、義母がオスカー様に金や品物を与えていたことが分かり、そこから二人の関係まで明るみに出たという。
「それまで義母は、私の教育費として用意された金をオスカー様に回していたようです。ただ、教育費として用意された額には限りがあったので、父も気づかなかったようで……」
当然、大喧嘩になった。伯爵はオスカー様を問い詰め、家から出ていけと怒鳴った。ところが、オスカー様も逆上した。
口論の末、元騎士のオスカー様は伯爵へ手を上げた。
たった一撃だったらしい。
だが伯爵はそのまま倒れ、家具へ身体を打ちつけたうえ、腰と脚をひどく痛めた。命に別状はなかったものの、その後も一人ではまともに歩けない状態になったという。
「そして、その騒ぎを聞いてフローラが来ました。そこで、自分の夫と母のことを知りまして」
嫌な予感しかしない。
「フローラは、ずっと夫に愛されていると信じていたそうです。母も、自分を誰より大切にしてくれていると」
なのに、その夫と、よりにもよって自分を一番可愛がってきた母親が、自分を裏切っていた。
「侍女曰く、その場でも、何度も『どうして? わたくしのことを愛しているって言ったじゃない』と繰り返していたそうです」
「……それで?」
「卓上にあった果物用のナイフを掴んで、そのまま夫を刺したそうです」
「……死んだんですか?」
「生きています」
「そうですか……」
そこだけはよかった。
いや。本当によかったのだろうか。
オスカー様はエルシュタイン家を継ぐ話を白紙に戻され、伯爵への暴行について取り調べを受けている。
フローラ様も夫を刺した件で身柄を預けられ、今は親族の監督下に置かれているらしい。後妻は伯爵から離縁を言い渡され、実家へ戻された。
伯爵は療養中で、今後も満足に歩けるようになる見込みは薄いという。このまま領地経営を続けることも難しく、王家から管理官が派遣され、伯爵は家督を退くことになった。
「それで、エルシュタイン家をまともに継げる人間がいなくなりまして……」
そこで王家から、伯爵家の長女であるシンシア様へ正式な打診があった。
シンシア様は家を出るまでに貴族令嬢として必要な教育を受け、領地経営の基礎も学んでいる。今では新興子爵のもとで、領地や家政に関わる実務まで経験していた。
他に適任となる直系の者もいない。
「最初は断ろうと思ったんです。もう、あの家とは関わりたくありませんでしたから」
「そりゃそうですよ」
ミサが即答した。
「でも、子爵に言われたんです。家族のために戻る必要はない。ただ、領地に住んでいる人たちのために戻るなら、話は別だろう、と」
確かに、領民からしたら迷惑極まりない話だ。だが、シンシア様が戻ってくれるというのなら、ありがたい話だろう。
「子爵も、必要なら自分が後ろ盾になると言ってくださって。それなら、一度やってみようと思いました」
シンデレラストーリーかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
あの夜、自分で相手を待ち、仕事を掴み、ここまで辿り着いた。この人は、思っていたよりずっと肝が据わっている。
あのドレスを着こなしていたのも、今なら納得できる。
「それで、今日はご挨拶に?」
「それもあります。それと……」
シンシア様が、少し照れたように笑う。
「伯爵位を継ぐ際に、王宮へ出なければならないそうなんです。なので、ドレスを一着お願いしたくて」
「もちろんです!」
ミサが私より先に答えた。
「リクエストしてもいいですか?」
「もちろんです。どのような?」
「レースをふんだんに使ったものを……ずっと憧れていたんです」
私は微笑んだ。
「承知しました」
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
「面白かった」「続きも読んでみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても嬉しいです!
反応見て《フィル・ブラン》のお話を書いていきたいと思っていますので、応援よろしくお願いいたします!
ちなみに、オスカーの「やたらと磨かれた上質な靴」は、伯爵夫人から贈られたものです(笑)
気づいた方はいらっしゃいましたでしょうか。




