お嬢様、その悪事は善行にしておきました
「ユーリア。明日の茶会で、クラーラ様のドレスに葡萄酒をこぼさせなさい」
鏡の前のお嬢様は、こちらを見ずにおっしゃる。わたくしは櫛を入れる手を止めない。止めれば、気づかれる。
「どなたに運ばせましょう」
「あなたが考えて。給仕の誰かでいいわ。わたくしの名が出ないように」
「かしこまりました」
アマーリエ・フォン・リーゼンフェルト公爵令嬢、十八歳。烏の羽のような黒髪に、この国の誰よりも整った顔。中身のほうは、この国の誰よりも腐っている。
わたくしは結び目をひとつ落として、髪に銀の留め具を差した。
お嬢様の狙いは分かっている。クラーラ・フォン・デーゲン侯爵令嬢を、王太子妃に据えること。葡萄酒をかけられた令嬢は哀れを買い、哀れを買った令嬢には同情が集まる。妃選定は、そういう風向きで決まっていく。
お嬢様は、王太子殿下と結婚したくない。理由はひとつきり、殿下のお顔だ。
わたくしの持つ力は、この世界で《予見》と呼ばれている。等級は下。登録所で測られたとき、役人は欠伸まじりに書き終えて、次の者を呼んだ。
見えるのは、自分がいまいる部屋のなかだけ。先は三分ほど。同じ場面は二度見られないし、一日に二度使えば、翌日の昼まで字が読めなくなる。だから日に一度と決めている。
使うか、動くか。見てから動けば、動いたあとの先はもう見えない。毎回、目をつぶって賭けることになる。
お嬢様の悪事を書き換えるのは、これがはじめてではない。
書き換えるといっても、葡萄酒を止めはしない。止めれば、お嬢様は別の手を考える。こぼさせたまま、こぼれ方だけを変える。
都合のよいことに、お嬢様はわたくしを責められない。責めるには、「わたくしが命じたのに」と言わねばならないからだ。
わたくしには、姉がおります。
その話はあとにいたしましょう。明日の支度がございますので。
◇
デーゲン侯爵邸の庭園に、白い卓が六つ。日差しがよく、風はない。
給仕の青年には、昨夜のうちに銀貨を渡してある。命じられたとおりに。クラーラ様の椅子の後ろで、壺を傾けてくださいませ、と。
わたくしは壁際でひとつ息を吐き、目を閉じた。
――三分後。給仕の青年がクラーラ様の椅子の後ろで足を止める。壺が傾く。赤が、淡い水色の背に落ちる。クラーラ様が立ち上がり、令嬢たちが息を呑む。お嬢様は扇の陰で、ほんの少し笑う。
目を開ける。
卓に歩み寄り、お嬢様の肩に手を添えた。
「お嬢様、日が強うございます。半歩、こちらへ」
お嬢様は面倒そうに椅子を引かせる。その半歩で、お嬢様の肘がちょうど給仕の通る線にかかる。
それから屈んで、お嬢様の膝から扇を取り、床に落とした。音は立てずに。
「あら」
「失礼いたしました。お拾いいたします」
拾う素振りで屈んだまま、扇を半分だけ給仕の足もとへ押しやる。
その先は見ていない。見ていないから、心臓がうるさい。
給仕の靴が扇の骨を踏んだ。固いものを踏んだ人間は、踏んだほうの足を上げる。上げた拍子に、壺が前へ出る。その下に、半歩寄ったお嬢様の腕があった。
赤が、白い袖を肘まで染めていく。
クラーラ様のドレスには、一滴も落ちていない。
庭園が静まり返り、少しして、誰かが言った。
「アマーリエ様が、庇われたのよ」
お嬢様の腕は、クラーラ様の椅子の背へ伸びた形で止まっている。わたくしが半歩寄せたから、そう見えるだけのこと。けれど居並ぶ令嬢たちの目には、身を挺して割り込んだ公爵令嬢が映っていた。
クラーラ様が青くなって頭を下げる。お嬢様は濡れた袖を見つめたまま、しばらく動かない。
「……お気になさらないで」
そうおっしゃるしかない。庇っていないと言えば、こぼさせたのは誰かという話になる。
わたくしは膝をつき、濡れた袖に布を当てた。
「お見事でございました、お嬢様」
扇の骨が何本か折れている。あとで繕っておこう。
◇
噂は、水よりも速く広がる。
十日もすると、お嬢様は「人を庇う令嬢」になっていた。
下地はあった。雨の辻で止まった荷車、取り潰されかけた仕立て屋、礼拝堂で倒れた老婦人、焼けた孤児院への寄進。どれも、もとはお嬢様が誰かを沈めるために動かした話で、わたくしはそのたびに沈める先を半歩ずらしてきた。積み上げてきた台の上に、茶会がひとつ乗っただけにすぎない。
王太子殿下に初めてお目にかかったのは、茶会からひと月ほど経った謁見の席だった。
ヨアヒム殿下。二十二歳。背が高く、肩が広く、顎が張っている。片方の眉の上に古い傷があり、眉が途中で切れている。声は低く、よく響く。
確かに、整ってはいらっしゃらない。父君にも母君にも似ず、誰にも似ていないお顔。お嬢様は一度、吐き捨てるようにおっしゃったことがある。「あの顔と並んで肖像を描かれるのよ。何百年も残るのよ」
謁見の列が進み、お嬢様が膝を折る。殿下の目は、お嬢様の顔ではなく、手もとに落ちた。
「その扇は、骨を継いであるな」
「……侍女が繕いましたの」
「デーゲン家の茶会で折れた扇か」
お嬢様の背が、わずかに固くなる。
「お耳汚しでございました」
「いや。継ぎ目が丁寧だと思っただけだ」
殿下はそれだけおっしゃって、次の家の名を呼ばれた。
壁際で、わたくしははじめて少し怖くなった。宮廷の人間は、お嬢様の顔を見る。あのお方だけが、扇を見ていらした。
◇
次の手は、そのひと月後に来た。
「ユーリア。ヘルマン男爵の次男に、金を渡しておきなさい」
お嬢様は書き物机に向かったまま、羽根の先で紙を叩いている。
「どのようなご用でしょう」
「夜明けに、わたくしの部屋から出てくるの。廊下で、誰かに見られるようにね」
つまり、ご自分に不義の噂を立てるおつもりらしい。妃選定は品行の調べを通る。通らなければ、残るのはクラーラ様ひとり。
「お嬢様。それは、お家に傷がつきます」
「公爵家は傷では潰れないわ。王太子妃になったら、一生あの顔の隣にいるのよ。どちらが傷だと思うの」
承知いたしました、と答え、わたくしは金を渡した。渡すところまでは、言われたとおりに。
その夜、男爵家の次男に二枚目の封筒を渡した。中身は、お嬢様から預かった額の倍。奉公してから貯めた給金の、ほとんど全部だった。
「段取りを変えていただきます。夜明けではなく、真夜中に。部屋から出るのではなく、入ろうとして捕まってくださいませ」
「捕まる、とは」
「お嬢様に見つかって、声を上げて、廊下へ転がり出てくださいませ。あとは衛兵が参ります」
次男はわたくしの顔を見て、それから封筒の重さを手のひらで確かめた。
「捕まった男が、あとで喋ったらどうする」
「何をお喋りになりますの。公爵令嬢から金を受け取って、不義の相手を装うはずでした、と?」
次男は黙り込み、やがて小さく頷く。そう言えば、首が飛ぶのはご自分のほうになる。
真夜中、お嬢様の寝室の扉の前で、男が転がった。
お嬢様は寝台から飛び起き、何が起きたか分からぬまま扉を開ける。そこへ衛兵が駆けつけた。床に転がった男と、扉の内側に立つ寝衣の公爵令嬢。
翌朝、屋敷じゅうがこう言っていた。お嬢様は不埒な侵入者を自ら見咎め、声を上げて衛兵を呼ばれた。沈着で、お見事だった、と。
男爵家の次男は領地へ帰され、二度と社交の場に出てこなかった。
これは、わたくしの仕業である。お嬢様が使い捨てに選んだ男の、捨て方だけをわたくしが変えた。手を汚さずに済むほど、並べ替えは綺麗な仕事ではない。
お嬢様は三日、わたくしと口をきかなかった。
金を渡したのはわたくしだから、何が起きたかは分かっていらっしゃる。それでも、暇は出されない。出せないのだ。出せば、わたくしはこれまでの命令を全部覚えたまま、この家の門を出ていくことになる。
四日目の朝、お嬢様は鏡越しにわたくしを見て、いつもどおり髪を結わせた。それきり、段取りをわたくしに預けることはなくなった。
◇
姉の話をいたします。
前の世で、わたくしは不祥事の後始末を書く仕事をしていた。会社が謝る文を書き、謝る順番を決め、どの事実をどの日に出すかを決める係。嘘は書かない。書いていないことを並べ替えるだけで、人の見方は変わる。あの頃は、それを腕だと思っていた。
この世に生まれ直して、その腕と《予見》が手もとに残った。等級は下でも、並べ替えには足りる。
姉の名はハンナ。わたくしより七つ上で、十四のときにリーゼンフェルト公爵家へ奉公に上がった。
一年で追い出された。わたくしが八つの年のこと。お嬢様の蒼玉の飾り留めが失くなり、姉の寝床から出てきたのだ。
姉は盗っていない。寝床に入れたのは、あの頃お嬢様についていた乳母。乳母がそうしたのは、八つのお嬢様が「なくしたの。誰かが盗ったことにして」とおっしゃったから。
飾り留めは、お嬢様が庭の池に落とした。拾わせるのが面倒で、盗まれたことにした。それだけの話にすぎない。
父は文官の職を失い、三年で死んだ。姉は今も城下の洗い場にいて、盗みの女と呼ばれている。右の手は、冬になるとうまく開かない。
姉は、盗っていないと言った。わたくしはそれを信じた。十五の娘が母方の姓を名乗ってこの家の門をくぐるには、それで足りる。顔は似ていない。姉は母に似て、わたくしは父に似た。
本当のことを知ったのは、奉公して一年目の冬のこと。乳母はとうに里へ下がって死んでいたが、死ぬ前に娘へ話していた。その娘が台所で働いていて、酒が入ると口が軽くなる。
殺すことは考えなかった。早すぎる。
お嬢様を善人にして差し上げる。一生、善人のふりをして生きていただく。それが、わたくしの決めた払い方でございます。
◇
七の月、新しい侍女が入った。ミナという、十四の娘だ。
来て六日目に、ミナはお嬢様の紅茶を少しだけ受け皿にこぼした。それで足りる方なのだ、お嬢様は。
翌朝、化粧台の前でおっしゃった。
「ユーリア。真珠の首飾りが、見当たらないの」
指先が冷えた。目を閉じる。
――三分後。お嬢様が侍女頭を呼ぶ。寝床が調べられる。ミナの枕の下から、真珠が出る。娘が泣き、否み、引きずられていく。
目を開けて、廊下へ出た。
「ミナ。あなたの枕を、お嬢様の長椅子の下へお移しなさい。枕ごと。急いで」
「え」
「理由は申しません。早く」
娘は泣きそうな顔で、それでも走った。十四の娘に、三年先の自分は守れない。八つのわたくしのためには、誰も走らなかった。
侍女頭が来て、部屋が調べられる。真珠は、お嬢様の長椅子の下に転がっていた枕の、覆いの中から出てきた。
お嬢様は、午後になるとよく長椅子でお休みになる。侍女頭は迷わずこう言った。
「お昼寝のあいだに外れて、紛れたのでございましょう」
お嬢様の唇が一度だけ動いて、止まる。ミナの寝床にあるはずだと言えば、なぜそれをご存じなのかという話になる。
「……落としたのね。わたくしの不注意よ。ミナ、怖い思いをさせたわ」
そうおっしゃるしかない。
ミナは床に手をついて泣いた。その晩、厨房で料理人たちが話している。うちのお嬢様は、侍女を疑わなかった。自分の落とし物だと認めなすった。あんな方は、ほかにいない。
夜、髪を解きながら、わたくしは訊いた。
「お嬢様。以前にも、同じようなことがございましたか」
「何のこと」
「蒼玉の飾り留めでございます。十年ほど前に」
お嬢様は鏡の中のご自分を見たまま、首を傾ける。
「そんなこともあったかしら。よくあることでしょう、そういうのは」
「ハンナという侍女が、辞めております」
「……誰?」
わたくしは櫛を動かし続けた。手が震えていたかどうかは、覚えていない。
「失礼いたしました。わたくしの思い違いでございます」
この夜のことを、わたくしはもう一度だけ思い出すことになる。
◇
秋の狩りの前夜、厩番の少年が新しい靴を履いていた。公爵家の厩番に買える靴ではない。
男爵の件のあと、お嬢様はわたくしに何も預けなくなっている。だから、こちらから見に行くしかない。
夜明け前の厩で、目を閉じた。
――三分後。少年が王太子殿下の馬に近づき、腹帯の留めに手をかける。革をひと穴ぶんだけ緩める。革が伸びた、で済む程度に。少年は手を拭いて外へ出ていく。
読めた。走り出してから鞍がずれる。落ちかけた殿下の手綱を、隣を行くクラーラ様が掴む。侯爵令嬢が王太子を救う。妃選定で、それ以上の話はない。
目を開ける。ここで止めても、お嬢様は別の日に別の馬でおやりになる。次に見られる保証はない。
わたくしは腹帯には触らなかった。代わりに、殿下の馬の鞍覆いを外し、お嬢様の鹿毛のものと取り替える。鞍覆いには、それぞれの家の紋が縫い取ってある。
朝になって、お嬢様に申し上げた。
「お嬢様。殿下の馬に、リーゼンフェルトの紋の鞍覆いが掛かっております。厩の手違いでございましょう。あのまま殿下がお出になれば、公爵家が殿下の馬に紋を掛けたと、笑い話になります」
お嬢様は舌を打ち、門のところまで出ていらした。殿下の馬の手綱を押さえ、厩頭を呼びつける。
「鞍覆いを替えなさい。今すぐ」
厩頭が鞍覆いをめくる。めくれば、腹帯が目に入る。厩頭の手が止まった。
「……こりゃあ、革が伸びておりますな。ひと穴、緩んでいる」
居並ぶ者たちが、いっせいにお嬢様を見た。お嬢様は手綱を押さえたまま、口を開いて、閉じる。緩めたままにしておけ、とは言えない。
「公爵令嬢が、殿下の腹帯を見咎められた」
狩りの輪のなかで、その一言が回りはじめる。クラーラ様の手は、何も掴まずに終わった。
殿下が馬を下り、お嬢様に礼を述べられた。
「助かった」
「紋の話でございます。腹帯は、たまたまでございますわ」
「そうか。たまたまか」
殿下の目が、お嬢様から外れる。外れた先は、厩の壁際。鞍覆いを抱えたときの馬の毛が、わたくしの手袋にまだついていた。
見られていた時間が、少し長い。わたくしは頭を下げ、下げたまま壁の内側へ退いた。
◇
十の月、お嬢様は仕掛けを変えられた。
声の届く場所で言うことと、実際になさることが違いはじめたのだ。応接間で侍女頭に「明日は礼拝堂へ参ります」と告げて、翌朝は温室へいらっしゃる。わたくしは礼拝堂で《予見》を使い、何も起きない三分を見た。その日の分は、それで終わり。
そして十の月の十九日。わたくしの寝床から、蒼玉の飾り留めが出た。
十年前と同じ石だった。お嬢様は池から拾わせて、ずっと手もとに置いていたらしい。盗まれたことになっている石なら、どこから出ても盗品になる。うまい使い方だと、そのときは素直に思った。この石で誰が追われたか、お嬢様はたぶん覚えていらっしゃらない。
侍女頭が呼ばれ、寝床が改められ、石が出る。並んだ侍女たちの顔を、わたくしは覚えている。ミナが震えていた。
お嬢様は、はじめて真っ直ぐにわたくしを見た。
「ユーリア。何か言うことは」
その日は朝のうちに、一度使っている。
二度使えば、翌日の昼まで字が読めない。奉公に上がってから、それだけはしてこなかった。
目を閉じた。
――三分後。侍女頭が石を箱に納める。お嬢様が「衛兵を」と言う。扉が開く。入ってくるのは衛兵ではない。王宮からの使いの侍従。妃選定の聞き取りに、公爵家の者を訪ねてきたのだ。
目を開けると、視界の端が白く焼けていた。
わたくしは膝をつき、石を両手で捧げる形にした。
「お嬢様。これは、十年前に失われた飾り留めでございます。盗んだとされた侍女が、そのとき暇を出されております」
お嬢様の眉が動く。わたくしは続けた。
「その石が、いま、この家のなかから出てまいりました。十年のあいだ、ずっとこの家のどこかにあったことになります。わたくしが参りましたのは、三年前でございます」
侍女頭が、はっとお嬢様のほうを見る。
十年前に追われた娘は、盗っていなかった。石は、この家の誰かが十年持っていた。いまこの場で、そういう話になりかけている。
「お嬢様が昔お失くしになったものを、どなたかが見つけて、わたくしの寝床にお預けくださったのでございましょう。十年前の娘は、盗ってなどいなかった。それだけのことかと存じます」
逃げ道は、ひとつしか置いていない。
そこへ扉が開いた。
「王宮より参りました。選定のお聞き取りに――」
侍従が言葉を切る。膝をついて石を捧げる侍女と、それを見下ろす公爵令嬢。
お嬢様は、石を受け取った。
「……ええ。昔、わたくしが失くしたものよ。十年前に辞めた娘がいたでしょう。盗みではなかったと、屋敷の者に伝えておいて。名前は、侍女頭が知っているわね」
侍従は目を細めて、小さく頷いていた。
その日のうちに、話は台所から裏門へ、裏門から城下へ降りていく。公爵令嬢は、十年前の侍女の濡れ衣を自ら晴らした、と。
姉の手は、それでは開かない。それでも、盗みの女という呼び名に、ひとつ傷はつく。
侍女頭が下がり、ミナが下がり、侍従が客間へ通されて、部屋にふたりきりになった。
お嬢様が窓のほうを向いて、低くおっしゃる。
「話す前に、目を閉じたわね。茶会の日も、厩でも」
答えなかった。
「わたくしの侍女は、先が見えるのね」
「……申し上げられません」
「いいわ。同じ部屋のなかだけでしょう。わたくしが廊下で何をしようが、見えない」
当たっていた。
◇
翌朝、目を開けると、天井の木目が滲んでいた。
化粧台の前で、お嬢様が封を切った手紙をこちらへ差し出される。
「ユーリア、これを読んでちょうだい」
紙の上で、字が泳いでいる。一行も拾えない。
お嬢様はわたくしの顔をしばらく眺めてから、手紙を引き取った。
「目が赤いわ。今日は休みなさい。供はミナにするから」
その日の午後、王宮の長廊下で、お嬢様は殿下に向かってこうおっしゃった。
「殿下。わたくしは、殿下のお顔が好きになれませんの」
聞いていたのは、宮廷の女官が四人と、第二王子派の侯爵がひとり。わたくしはその場にいない。いなかったものは、書き換えられない。
並べ替えるには、起きたことが要る。起きた場所に居なければ、何もできない。お嬢様はそれを一晩で見抜き、翌日にはわたくしを部屋に置いて出ていかれた。性悪だが、頭は悪くない。
噂は半日で王宮を回り、二日で城下へ降りた。公爵令嬢は、王太子の容貌を厭うている。
わたくしは三日、何もできなかった。
四日目に、殿下から呼び出しがかかる。呼ばれたのは、お嬢様ではなくわたくしのほうだった。
◇
殿下の執務室は、飾りの少ない部屋だった。壁に剣が一本掛かっているほかは、机と椅子しかない。
「公爵令嬢の侍女、ユーリア。母方の姓はヴェスト。父はブラントという文官で、職を失って三年で死んだ。姉はハンナ。城下の洗い場にいる」
「……はい」
「十年前の石の件も聞いた。公爵家の台所に、乳母の娘がいるな。酒が入るとよく喋る」
わたくしは膝をついた。同じ口から、同じ話を、わたくしも聞いている。
「殿下。姉の濡れ衣は、お嬢様が晴らしてくださいました」
「屋敷のなかではな。城下は、まだだ」
殿下は窓の外へ目をやられた。
「わたしの顔を見ると、たいていの者は目を逸らす。逸らした先で、手が勝手に動く。だから、手を見る癖がついた」
殿下の目が、わたくしの手に落ちる。
「公爵令嬢の評判を、ひとつずつ聞いて回った。扇が落ちている。鞍覆いが替わっている。枕が動いている。どの話にも、公爵令嬢の半歩後ろに、同じ侍女が立っている。――そなたの等級は下だったな」
「下でございます」
「下の等級で、ここまでやるか」
殿下は、笑われなかった。嘲りも、驚きもない。
「公爵令嬢を、妃に決める」
わたくしは顔を上げた。
「殿下。あの方は、善人ではございません」
「知っている。一度も思っていない」
「では、なぜ」
「わたしは顔で選ばれたことがない。だから中身で選ぶ」
王宮の庭に、冬が来ている。
「あの者は、追い詰められるたびに損を呑んで黙った。茶会でも、寝室の前でも、長椅子の下でも。口を割れば済んだのに、割らなかった。自分の値を下げる嘘を、顔色ひとつ変えずに呑み込める人間は少ない」
「……それは、お嬢様が殿下を厭うておられるからでございます」
「知っている。宮廷で、わたしの顔について本当のことを言ったのは、あの者がはじめてだ」
殿下の口調は、少しも変わらない。
「厭うのは勝手だ。使えるかどうかは、別の話になる」
殿下がこちらを向かれた。眉の切れた目が、まっすぐに据わっている。
「もうひとつある。あの者は、これから一生、聖女でいなければならない。王宮じゅうがそう信じた。わたしは、そこから降りさせない。――台を積んだのはそなただ。降りさせないほうは、わたしが引き受ける」
わたくしは膝をついたまま、しばらく動けなかった。
このお方は、全部読んでいる。台を積んだのが誰かも、何のために積んだのかも。読んだうえで、その台を使うとおっしゃっている。
「ユーリア。そなたの望みは、公爵令嬢の首か」
「いいえ」
「では何だ」
「一生、善人でいていただくことでございます」
殿下は、はじめて少し口の端を動かされた。
「付き合いきれんな、そなたたちには」
◇
内定の知らせは、十一の月の末に届いた。
王宮の広間で、お嬢様の名が読み上げられる。人を庇い、侍女を疑わず、侵入者を見咎め、殿下の腹帯を改めた令嬢。長廊下の一件は、誰も口にしなかった。口にしないことで、かえって皆が覚えている。
読み上げが終わると、クラーラ様がお嬢様の前に進み出て、頭を下げられた。
「おめでとうございます、アマーリエ様」
「……ありがとう」
クラーラ様は顔を上げ、こうおっしゃった。
「わたくし、お受けするつもりでおりましたのよ。最後まで」
お嬢様の指が止まる。
「あの方のお顔は、気になりませんでしたの。声がお好きでしたから」
お嬢様は何か言いかけて、そのまま唇を結ぶ。
放っておけば、クラーラ様はご自分から受けていた。お嬢様が動いたから、わたくしが並べ替えた。並べ替えたぶんだけ、台が高くなっただけのこと。
夜、鏡の前でお嬢様が低くおっしゃった。
「ユーリア。なぜわたくしなの」
殿下のお言葉を、そのままお伝えした。損を呑んで黙れる人間は少ない、というところまで。顔の話は、伏せておく。
お嬢様は長いあいだ黙り、それから鏡の中のご自分の顔を見た。
「……笑えない冗談ね」
わたくしは髪を解き終え、銀の留め具を箱に納めた。
◇
翌朝、わたくしは暇を願い出た。
お嬢様は書き物机に向かい、羽根の先で紙を叩いていらした。叩く音が、止まる。
「何を言っているの」
「お暇をいただきたく存じます。年明けには出たいと存じます」
「王宮へ入るのよ。侍女の筆頭はあなたに決めてあるわ。給金は三倍にするし、姓も好きに名乗らせる」
お嬢様は椅子を回された。
「分かっているでしょう。あなたがいなければ、聖女なんて半年ももたないわ」
そうだろうと思う。だから、出ていく。
「理由を言いなさい」
「ハンナ、と申します」
お嬢様の眉が、わずかに寄った。寄っただけだった。
「……誰?」
この言葉を聞くのは、二度目になる。
ずっと、怖かった。覚えておられたなら、わたくしの三年は復讐になる。覚えておられないなら、ただの片づけになる。
覚えておられなかった。十の月に、ご自分の口で濡れ衣を晴らしたあとでさえ。
「十年前、この家の侍女でございました。蒼玉の飾り留めを盗んだとされて追われました。わたくしの姉でございます。わたくしは、母の姓を名乗っておりました」
お嬢様は、まだ分からないお顔のまま、こうおっしゃった。
「あれは池に落としたのよ。拾わせるのが面倒だったの」
「はい」
「それで三年、わたくしの髪を結っていたの」
「はい」
お嬢様は立ち上がり、二歩こちらへ来て、そこで止まる。
「全部、あなたね。茶会も、寝室も、厩も」
「全部でございます」
「わたくしを沈めればよかったでしょう。あなたなら、できたわ。先が見えるのだから、悪事をひとつ残しておけば、それで終わったのよ」
「終わってしまいます」
わたくしは、一度だけ顔を上げた。
「断罪は、半日で済みます。半日では足りません。――お嬢様は、これから一生、聖女でいらっしゃらなければなりません。王宮じゅうがそう信じておりますし、殿下が降りさせないと仰せでした。笑って、庇って、寄進して、侍女を疑わず。それをあと五十年」
お嬢様の顔から、血の気が引いていく。鏡を通さずに、このお方のそういう顔を見るのは、はじめてのことだった。
「……だから、あなたが要るのよ。隣で」
「いいえ」
そこが、わたくしがこの家で過ごした時間の、全部でございます。
「わたくしは、残りません」
お嬢様が、息を吸った。
「待ちなさい」
「お嬢様」
「待って。いくら出せばいいの。領地でも、家でも、姉の名でも――」
「値はつきません」
わたくしは膝をつき、床に手をついた。奉公に上がってから、いちばん丁寧に。
「前の世で、わたくしは不祥事の後始末を書く仕事をしておりました。ひとつだけ、覚えていることがございます。――書き換えられるのは、起きたことだけでございます。これから起きることは、ご自分でなさるしかございません」
顔を上げる。
「お嬢様には、先が見えません。わたくしも、もうお側にはおりません。扇は落ちませんし、枕も動きません。これから五十年、善人でいるかどうかは、お嬢様がその都度お決めになることでございます」
お嬢様は、何もおっしゃらなかった。
わたくしは立ち上がり、最後に一度だけ、お嬢様の髪に触れた。崩れかけた結び目をひとつ直す。毎朝そうしてきた手つきのままに。
「どうぞ、お幸せに」
皮肉ではない。本当に、幸せであってくださればいいと思っている。幸せな聖女は、聖女をやめられない。
◇
城下の洗い場は、冬でも、春でも水が冷たい。
年明けに訪ねると、姉はわたくしを見て、しばらく黙っていた。それから手を拭いて、拭いた手でわたくしの頬を挟む。右の手は、やはり途中までしか開かない。
「ユーリア。あんた、どこにいたの」
「お屋敷に」
「どこの」
「結び目を直すお仕事でございました」
姉は分からないという顔をして、それから笑った。盗みの女と呼ばれて十年、笑い方だけは昔のままでいる。
公爵令嬢が昔の侍女の濡れ衣を晴らした、という話は、洗い場にも届いていた。届いても、呼び名はすぐには消えない。たぶん、あと何年かかかる。
わたくしは洗い場の隣に、小さな店を借りた。書状の代筆と、揉め事の文の書き方を教える店。前の世の腕が、ここでようやく表の仕事になった。
◇
春のはじめ、休みの日にミナが店を訪ねてきた。王宮付きの侍女になって、頬が少しふっくらしている。
「妃殿下、施療院へお運びになったんです。ご自分で湯を運ばれて、よく笑って、よく話を聞いて、帰りがけに寄進を上げられて」
「そう」
「でも、お戻りになってから、手が震えていらして」
ミナは言いにくそうに続けた。
「殿下がお部屋にいらして、妃殿下に、ひとことだけ。『よくできている。続けなさい』って」
わたくしは返事をせず、窓の外の洗い場を見ていた。
ミナが帰ったあと、洗い場から上がってきた姉が、湯を注いでくれる。
わたくしは目を閉じて、一度だけ先を見た。
――三分後。湯がもう一杯注がれている。姉が濡れた手を膝で拭いている。窓のところに日が当たって、埃が光っている。笑っているのは姉のほうで、わたくしは湯を飲んでいる。
目を開けた。
三分先の未来など、たいていこの程度のもの。扇も落ちないし、鞍覆いも替わらない。誰の人生も動かない。
それで、充分でございました。




