第4話 ふたつめの月
観測会の夜、天文院に着いたのは、日が沈んですぐのことだった。
兄には、ちゃんと話してある。院長に招かれたこと、エミルも一緒だということ。兄は渋い顔をしたが、最後には「帰りは迎えに行く」とだけ言った。天文院の院長が相手では、隊の小隊長が口を出せることも多くない。
門で出迎えたのは、院長ひとりだった。
「エミルは?」
「急な用事で、少し遅れるそうです。先に上がって、待っていましょう」
ほかの客の姿もない。
「観測会と伺いましたけれど」
「ええ、ささやかな、ね」
院長は穏やかに笑って、塔の入口の扉を開けた。中には、石の螺旋階段が、暗い上の方へ果てしなく伸びている。
足がすくんだ。
「怖いですか」
「……少し」
「無理もない。高いところは、誰だって怖い」
院長が先に立って、階段を上りはじめる。わたしは手すりにすがりながら、その背中を追った。
背後で、重たい音がした。入口の扉が閉まった音。続けて、錠の下りる音。
「院長さま、扉が」
「風で閉まったのでしょう。帰りは、わたしの鍵で開けますよ」
院長は振り向かなかった。
◇
塔の上は、思っていたより広い。
石の床が丸く広がって、まわりを胸の高さの手すりが囲んでいる。真ん中に、大きな真鍮の望遠鏡。その向こうに、王都の夜景が、灯り石の光の海になって広がっていた。
そして、空。
東の空に、小月が昇っている。
いつもの倍はあろうかという大きさで、青く、冷たく、空にのしかかるように浮かんでいた。その少し上に、白い大月。
ふたつの月が、こんなに近くに並んでいるのを、わたしは初めて見た。
「美しいでしょう」
院長が、手すりのそばに立っていた。
「わたしの師の師の代から、小月は少しずつ近づいてきました。わたしが若いころの計算では、あと数百年。だが、ここ数年で、その速さが変わった。わたしが生きているうちに、目に見えて大きくなりはじめている」
「……それで、月鎮めを」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
院長は、ゆっくりと振り向いた。
「やはり、気づいていましたか」
「さっき、扉が閉まったときに。鍵部屋の記録に、持ち出しの跡がなかったのも、院長さまなら説明がつきます。合鍵を、お持ちなんでしょう」
「全部の塔の鍵を、ね」
院長は否定しなかった。
「エミルを川に出したのも、あなたですね」
「あの子には、何も知られたくなかった。あれはいい観測士になる」
「4人目の娘は、助かりました」
「知っています。だから、今夜はあなたにした」
院長が、一歩、近づいてくる。わたしは、一歩下がった。背中に、冷たい石の手すりが当たる。
「信じていない、とおっしゃいました。月鎮めなんて、今では誰も信じていないと」
「信じたいのですよ、リーネさん。小月が落ちてくれば、この王都は終わる。魔法の源が月にあることは、もう分かっている。小月を失えば、灯り石も、井戸の術式も、何もかもが消える。わたしは学者だ。学問では止められないと、誰より先に分かってしまった。だから祈るしかない」
院長の目は、穏やかなままだった。
それが、いちばん恐ろしかった。
「月生まれの娘を、月へお還しする。月は満足して、空に留まる。昔の人がそうしてきたように」
院長の手が、わたしの肩にかかる。
骨ばった、乾いた手。
「あなたは、月に好かれた子だ」
院長は、祈りの言葉を唱えはじめた。古い、知らない言葉だった。歌のような抑揚がある。月に呼びかけ、娘を差し出し、空に留まれと願う。
そして、最後の一句。
「――これで終わる」
肩を押される。
上体が、手すりの外へ傾いた。
足が浮く。指先が、石の縁を探る。
空が、ぐるりと回った。
視界いっぱいに、大きな青い小月。
――あの夜、屋上から落ちながら見上げた空には、月がひとつしかなかった。
なぜ、今それを思い出すのだろう。
指が、手すりの縁に引っかかった。爪が石をこする。体がぶらさがる。下は、暗くて見えない。
「リーネさま!」
誰かの手が、わたしの手首をつかんだ。
インクで青く染まった指。
エミルだった。
◇
引き上げられて、石の床にへたりこんだ。
息が、うまく吸えない。全身が震えている。エミルが、自分の上着をわたしの肩にかけてくれた。
階段の方から、どかどかと足音が上がってくる。兄の声。警備隊の隊員たち。
院長は、手すりのそばに立ったまま、抵抗しなかった。
兄の部下が両腕を押さえると、院長は空を見上げて、小さくつぶやいた。
「止めてしまったのですね」
その声は、怒っているようにも、ほっとしているようにも聞こえた。
「……どうして、ここに」
エミルに訊くと、彼は肩で息をしながら答えた。
「院長に、今夜は来るなと言われました。観測会なのに、観測士が来るなと。おかしいと思って、警備隊の詰所に行きました。それから、鍵部屋から、僕の当番の鍵を持ち出して」
「当番の鍵で、入口の錠を」
「開けました。記録には、ちゃんと書いてきましたよ。持ち出し、僕。目的、院長の阻止」
こんなときまで、まじめな人だ。
笑おうとしたら、涙が出た。
◇
兄が院長を連れて階段を下りていったあと、わたしはしばらく、塔の上に座りこんでいた。
エミルが、隣に座っている。何も言わない。それがありがたかった。
空を見上げる。
ふたつの月。
院長は言った。小月は少しずつ近づいている。いずれ落ちる。小月を失えば、魔法も消える。
あの夜、屋上から落ちながら見上げた空。
そこには、月がひとつしか浮かんでいない。
前の世界には、魔法がない。魔法なんておとぎ話だと、カイは言っていた。
前の世界の街を流れる川は、真ん中で大きく二度曲がる。ミーア川も、王都の真ん中で、大きく二度曲がる。
月送りの祭り。街でいちばん高い建物の屋上から、灯籠を空へ上げる。月に灯りを届ける祭り。
月生まれの子が上げる灯籠は、青と決まっている。
縄跳びの歌。とうのうえのむすめさん。つきにかえれば、あすがくる。ふたつめの月を、とめたくば。
そして、あの声。
――これで終わる。
前の世界の、屋上で聞いた言葉。院長の、祈りの最後の一句。
わたしは、ずっと思い違いをしていた。
犯人が、生まれ変わってきたのではない。
言葉が、残ったのだ。
祈りが、祭りになって。娘を塔から還す儀式が、灯籠を空へ上げる行事になって。古い祈りの文句が、子どもの縄跳び歌になって。何百年もかけて、すり減りながら、形を変えながら、残り続けた。
そして、その最後の一句だけが、そっくりそのまま、あの屋上に届いた。
前の世界は、異世界なんかじゃない。
ここだ。
この王都の、ずっと先。小月が落ちて、魔法が消えて、月がひとつになった後の、同じ土地。
わたしは、未来で殺されて、過去に生まれ変わったのだ。
「リーネさま?」
エミルが、わたしの顔を覗きこむ。
「……ねえ、エミル。月に還された娘は、始まりの日に戻るって、院長さまが言ってたでしょう」
「ええ」
「あれ、本当なのかもしれない」
エミルは、意味が分からないという顔をした。
当然だ。わたし自身、まだ半分も分かっていない。
ただ、ひとつだけ、はっきりしたことがある。
ずっと欠けていた最後の夜の記憶が、ゆっくりと戻ってきていた。屋上の風と、背中の手と、あの声。そのまわりにあった、ほかのすべてが。
◇
月送りの夜の屋上は、人でいっぱいだった。
カイの家の人たちが、白い着物を着て、灯籠を配っている。子どもたちがはしゃぎ、大人たちが火をともす。オレンジ色の灯籠が、ひとつ、またひとつと、夜空へ昇っていく。
わたしの青い灯籠は、最後に上げる決まりだった。
「ナギ、こっち」
カイに手を引かれて、屋上の端へ行く。フェンスの一部が外されていて、そこから灯籠を放すのだという。
人の輪から、少し離れた場所だった。
青い灯籠に、カイが火を入れる。紙の内側から、青い光がにじむ。
「きれい」
「うん」
両手で灯籠を差し上げる。風が、そっと灯籠を持ち上げていく。
空には、月がひとつ。
青い灯りが、その月に向かって、まっすぐ昇っていった。
「ナギ」
カイの声が、すぐ後ろでした。
「ごめん」
「なにが?」
振り向こうとしたとき、カイが、小さな声で何かを唱えはじめた。古い、知らない言葉。歌のような抑揚がある。
「うちの家は、ずっと待ってたんだ。ふたつめの月が戻ってくるのを。月が戻れば、なくしたものも、ぜんぶ戻ってくる」
「カイ?」
「ナギは、月生まれだから」
背中に、手のひらが当たる。
「――これで終わる」
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