第3話 月生まれの娘
結論から言えば、エミルの顔色は変わらなかった。
変わったのは、わたしを見る目の方だ。珍しい病気の患者でも見るような、気の毒そうな目。
「……疲れているなら、お医者さまに」
「疲れてないわ」
「前世というのは、その、神殿の説話に出てくる」
「もういい。忘れて」
わたしは礼状を彼の手に押しつけて、逃げるように丘を下りた。
顔が熱い。生まれてから17年、これほど恥ずかしい思いをしたことはない。前世を含めても、たぶんない。
けれど、帰りの馬車の中で、少しずつ頭が冷えてきた。
とぼけるのが上手いだけかもしれない。わたしだって、誰かに同じことを訊かれたら、たぶん同じ顔をする。
確かめる方法は、ひとつしかない。
次に小月が満ちる夜、エミル・ヴァイスがどこで何をしているか、この目で見ること。
◇
その夜、わたしは侍女のマルタを拝み倒して、屋敷を抜け出した。
兄には、もちろん内緒だ。
天文院の丘のふもとには、王都を流れるミーア川がある。王都の真ん中あたりで大きく二度曲がって、北のはずれでこの丘の裾をかすめていく川。その土手の茂みに身を沈めれば、天文院の門がよく見える。
小月が、東の空に昇ってくる。
いつもより青く、いつもより大きい。満ちた小月の光で、川面がまだらに光っている。
夜半を過ぎたころ、門が開いた。
出てきたのは、エミル。
灰色の上着に、細長い革の筒を抱えている。わたしは息を殺して、茂みの奥で身を縮める。
エミルはまっすぐ丘を下りてきて、川の土手に出た。そして、あろうことか、わたしの隠れている茂みのすぐ横で足を止めた。
革の筒から、小さな真鍮の望遠鏡を取り出す。三脚を立てて、空に向ける。
そのまま、動かない。
半刻たっても、一刻たっても、彼はそこから一歩も動かなかった。ときどき帳面に何か書きつけ、また空を覗く。その繰り返しだけ。
わたしの足は、すっかり痺れていた。
「……いつまでそこにいるんですか、リーネさま」
声を上げかけて、口を両手でふさぐ。
エミルは望遠鏡から目を離さないまま、ため息をついた。
「最初から見えてましたよ。満ちた小月の夜に、その色のドレスで茂みに隠れるのは、無理があります」
観念して、茂みから這い出す。スカートの裾は泥だらけで、髪には葉っぱがついていた。
「……いつから気づいてたの」
「門を出たときから。院長が、今夜は川の上で観測しろとおっしゃったので。水面に映った小月の揺れで、大気の具合が分かるんです」
「ここで、ひと晩じゅう?」
「ひと晩じゅう」
それなら、彼はこの夜、時計塔には近づけない。
わたしがずっと、それを見ていたのだから。
追い返されるかと思ったけれど、エミルは何も言わずに、土手の草の上に自分の上着を敷いた。座れ、ということらしい。
並んで座る。川の音がする。
「……疑ってたの。あなたのこと」
「知ってます。茂みに隠れる人は、たいてい誰かを疑ってる」
「怒らないの?」
「疑われるのは、慣れてます。観測士なんて、夜中にひとりで空ばかり見てる変わり者ですから」
エミルは望遠鏡から目を離して、少しだけ笑った。初めて見る顔だった。
「覗いてみますか」
言われるまま、筒に目を当てる。
小月が、目の前いっぱいに広がった。青い表面に、白い筋が何本も走っている。ひびのようにも、川のようにも見えた。
「あの筋、去年よりはっきりしてるんです」
「近づいているから?」
「たぶん。院長は、そう言っています」
エミルの声が、少しだけ曇る。
「院長は、小月のことになると、人が変わる。昔から、ずっと小月ばかり測っている人だから」
わたしは望遠鏡から目を離して、空を見上げた。
肉眼で見る小月は、望遠鏡の中よりずっと小さい。それでも、確かにそこにある。
前の世界の夜空を、思い出そうとした。
あちらの月は、ひとつきり。それは覚えている。けれど、どんな色をしていたのか、最後の夜にどんなふうに見えていたのか、どうしても浮かんでこない。手繰り寄せようとすると、屋上の風と、あの声ばかりがよみがえる。
明け方近く、遠くで笛の音がした。警備隊の呼び笛。続けて、もう一度。
エミルが顔を上げる。わたしも、音のした方を見た。王都の南の方角。あちらにも、時計塔がある。
翌朝、兄が帰ってきて、真っ青な顔で教えてくれた。
南の時計塔で、4人目が出かけた。月生まれの、仕立て屋の娘。塔の上の手すりにしがみついているところを、巡回中の隊員がかろうじて引き上げたのだという。
娘は泣きじゃくるばかりで、相手の顔は見ていない。覚えていたのは、ひとつだけ。
背中を押される直前に、誰かがこう言ったこと。
――これで終わる。
◇
その日の午後、エミルが屋敷を訪ねてきた。
「昨夜のことで、警備隊に話を訊かれました。リーネさまが一緒だったと答えましたが、よかったですか」
「……ええ。わたしも、そう答えたわ」
おかげで、兄にはこっぴどく叱られた。父には、ひと月の外出禁止を言い渡された。それでも、エミルの潔白を証明できるのは、わたししかいない。
客間で向かい合って、紅茶を飲む。エミルは、子爵家の客間というものに慣れていないらしく、カップを持つ手がぎこちなかった。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「どうぞ」
「あの言葉。観測の締めの、『これで終わる』」
エミルはカップを置いた。
「あれは、院長の口癖です。僕が見習いになったとき、院長が毎晩、観測の終わりにそう言っていて。いつのまにか、うつってしまった」
「院長さまの」
「ええ。院長はもっと昔から、ずっと言っているそうですよ。古い祈りの言葉の、最後の一句なんだとか」
わたしは、ようやく気がついた。
あの夜の声の主を、わたしはエミルだと思いこもうとしていた。生まれ変わりの犯人が、この世界のどこかに紛れこんでいるのなら、それは同じ言葉を口にする人のはずだ、と。
けれど、言葉はうつる。人から人へ。
「院長さまに、会わせてもらえないかしら」
◇
王立天文院長、オズワルド・レーンは、白い髭をたくわえた、穏やかな老人だった。
院長室の壁は、天井まで本で埋まっている。窓辺には、古い天球儀がいくつも並んでいた。
「あなたが、うちのエミルを茂みから見張っていたお嬢さんですか」
院長は楽しそうに目を細めた。
「お恥ずかしいかぎりです」
「いやいや。あの子を一晩見張るのは、ふつうの人にはできません。退屈で死んでしまう」
隣で、エミルが居心地悪そうに咳払いをした。
院長は手ずからお茶を淹れてくれた。年のわりに、手つきはしっかりしている。
「小月の話を、ご存じですかな」
「小月の?」
「近づいているのです。ほんの少しずつですがね。わたしの師の、そのまた師の代から測り続けて、ようやく確かだと言えるようになりました」
院長は、窓辺の天球儀のひとつに触れた。ふたつの月を象った、真鍮の球。
「昔の人も、そのことに気づいていたのかもしれません。数百年前、小月が今よりずっと大きく見えた時代があったと、古い記録にあります。そのころの人々は、月鎮めという祈りをしていました」
「月鎮め」
「塔の上から、月生まれの娘を、月へ還すのです」
紅茶のカップが、受け皿の上で小さく鳴った。わたしの手が震えたせいだ。
「還す、というのは」
「言葉どおりの意味ですよ。月に好かれた娘を、月にお返しする。そうすれば、月は満足して、空に留まってくれる。そういう信仰です。もちろん、今では誰も信じていません」
院長は、静かに微笑んだ。
「学問として、興味深いというだけの話です。祈りの文句も残っていましてね。ただ、最後の一句だけは、口にするものではないとされている」
「どうしてですか」
「その一句を唱えた者が、娘の背を押す決まりだったから」
院長は、そこで話題を変えた。
「もうひとつ、面白い言い伝えがあります。月に還された娘は、始まりの日に戻る、というのです」
「始まりの日?」
「さあ。何の始まりなのか、記録には書かれていません。生まれた日なのか、世界の始まりなのか。昔の人の言うことは、どうにも曖昧でね」
◇
月送りの前の晩、カイの家に灯籠を受け取りに行った。
カイの家は、古い。街の真ん中にあるのに、まわりだけ時間が止まったような、黒い板塀の屋敷だ。奥の座敷には、いつ見ても、白い布をかけた祭壇がある。
「これ、明日ナギが上げるやつ」
カイが差し出したのは、ほかの灯籠より少しだけ大きな、青い紙の灯籠だった。
「なんでわたしのだけ青いの」
「月生まれの子が上げる灯籠は、青って決まってるんだ。昔から」
「カイの家、そういう決まりばっかりだね」
「古い家だからな」
縁側に並んで座って、庭を眺めた。空には、ぽっかりと月が出ている。
「ねえ、カイ。もし魔法があったら、何がしたい?」
「なんだよ、急に」
「昼間、妹に絵本を読んであげたの。魔法使いのお姫さまの話」
カイは少し黙った。
「魔法なんて、おとぎ話だろ」
「そうだけど」
「……でも、もしあったら」
カイは、月を見上げた。いつもの、優しい横顔。
「なくしたものを、取り戻したいかな」
何をなくしたの、と訊こうとしてやめた。カイの声が、少しだけ震えていたから。
◇
ひと月の外出禁止が明ける前の日、天文院から手紙が届いた。
院長、オズワルド・レーンの署名入りだ。
次の小月の満ちる夜、天文院の塔の上で、ささやかな観測会を開く。小月がもっとも大きく見える夜なので、ぜひハルシュタイン家のお嬢さんにもご覧いただきたい。エミルも、喜ぶでしょう。
塔の上。
わたしは手紙を握ったまま、しばらく動けなかった。
けれど、断る理由は見つからない。院長のそばにいれば、犯人の手がかりが見つかるかもしれない。あの言葉を最初に口にした人の近くに、あの声の主もいるはずだから。
それに、と思う。
いつまでも、塔を怖がっているわけにはいかない。
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