第九話「おまじないの種」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
その日は、何でもない日のはずだった。
大規模なレイヤーが発生したわけでも、特別な任務があったわけでもない。
ただ、小さな街の外れで、小規模なレイヤーを処理する予定だった。
現場は古い住宅街の路地。
石畳はところどころ欠け、壁には古い雨染みが残っている。
人通りも少なく、いつもなら子供が遊ぶ声でも聞こえてきそうな、そんな場所だった。
レイヤーの規模はC1。
二人で来る必要もないくらいの、ごく小さな霧だった。
ななみ一人で十分対処できる。
それでもリリカが「ついていきます」と言ったので、ななみは断らなかった。
前回の件から、二人のあいだには暗黙の了解ができていた。
ななみが指示を出す。リリカはそれに従う。
ただし、極端に危険な場合は事前に相談する。
それだけのルールだった。
けれど、あの路地での話し合いのあと、リリカは確かに変わった。
以前より一拍、待つようになった。飛び込む前に、見るようになった。
それでも本質は変わっていないと、ななみは知っている。
だからこそ、今くらいの距離がちょうどよかった。
処理は五分で終わった。
霧が消えた路地に、一人の少女が残された。
十二、三歳だろうか。壁に背を預けて座り込んでいる。
レイヤーに飲み込まれていたが、意識はある。
ただ、立てないでいた。
「大丈夫ですか」
ななみが声をかける。
少女がゆっくり顔を上げた。
泣いていたらしい。目の端にまだ涙が光っている。
「足が、動かなくて」
「今から確認します」
ななみが近づこうとした、その前で。
「大丈夫だよ」
リリカが、ななみより先に少女の隣へしゃがみ込んでいた。
「もう霧は消えたから。少ししたら動けるようになるよ」
少女が不安そうに瞬く。
「……本当に?」
「本当に。ちょっと待ってて」
リリカはやわらかい声で言って、少女の背中に手を当てた。
何かを流し込むような、あるいは強張った気持ちをほどくような仕草だった。
少しずつ、少女の顔から緊張が抜けていく。
「怖かったね」
「うん……急に足が動かなくなって、誰も来なくて」
「一人だったの?」
「友達と一緒にいたのに、逃げられちゃって」
リリカがほんの少しだけ眉をひそめる。
けれど、それを少女に見せることはしなかった。
「そっか。それは怖かったね。でも、もう大丈夫だよ」
「……うん」
少女の肩が、少し下がった。
ななみは、その場面を少し離れた場所から見ていた。
処理は終わっている。
あとは少女が動けるようになるのを待てばいい。
報告書に書くべき内容を頭の中で整理する。
規模、発生地点、処理時間、残留者の状態。
いつも通りの、小さな案件。そのはずだった。
「ねえ」
少女が、リリカに言った。
「なに?」
「足、まだちょっと痛い」
リリカは少し考えた。
それから少女の足にそっと手を当てる。
子供に言い聞かせるような、でもどこか真剣な声で言った。
「痛いの、飛んでいけ」
ななみは、動けなくなった。
一瞬、世界が止まったように感じた。
音が遠くなる。
リリカが何かを言っている。少女が小さく笑っている。
それら全部が、急に遠い。
痛いの、飛んでいけ。
その言葉だけが、ななみの頭の中で何度も繰り返された。
知っている。
知っている言葉だ。
どこで聞いたのか。そんなことは、もう分かっている。
分かっているのに、記憶は勝手に遡っていく。
遠い、遠い記憶の中へ——
親戚の庭。夏の匂い。
土の感触。走り回る足音。
いおりが転んで泣いていた。
小さな膝を擦りむいて、泣きながらこちらを見上げていた。
その膝に手を当てて、言ったのは。
痛いの、飛んでいけ。
そう言ったのは、ななみだった。
気づいた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
あの日、いおりに言った言葉だ。いおりが泣き止んで、それからまた笑い出した。
転んだことなんて忘れたみたいに、すぐ立ち上がって走っていった。
その言葉が今、リリカの口から出てきた。
「ななみさん?」
リリカの声が、遠くから届いた。
ななみは我に返る。
リリカがこちらを見ていた。
不思議そうな顔をしている。
「どうしました? 顔が……」
「何でもありません」
声が少し掠れた。
「本当に? 急に止まったから」
「何でもありません」
繰り返す。
少女はもう立ち上がっていた。
まだ少しぎこちないが、ちゃんと自分の足で立っている。
「ありがとうございました!」
少女は何度も頭を下げ、それから路地の角へ向かって走っていった。
その背中が見えなくなるまで、ななみは黙って見ていた。
路地に、ななみとリリカだけが残された。
少し風が吹く。
霧の残り香は、もうほとんどなかった。
「その言葉」
ななみが言った。
「え?」
「さっき言った言葉です。痛いの、飛んでいけ、という」
「ああ」
リリカが少しだけ照れたように頭をかく。
「変ですよね。子供っぽくて」
「どこで覚えたんですか」
リリカは首を傾げ、それから素直に答えた。
「いおりちゃんに教えてもらったんです。幼稚園の時」
ななみの指先が、わずかに強張った。
リリカは気づかずに続ける。
「転んで泣いてる子がいたら、そうやって言うと魔法みたいに泣き止むんだって。ほんとに効くんですよ。なんか」
ななみは、もう一度動けなくなりそうだった。
いおりが、教えた。
その言葉を、いおりが。
でも——違う。
あの日、いおりに最初に言ったのはななみだ。
いおりが転んで、ななみが言った。それが始まりだったはずだ。
なら、いおりはその言葉を受け取って、またリリカに渡したのだ。
言葉が、人から人へ渡っていた。
ただの慰めの言葉。ただのおまじない。
でも、それがちゃんと残っていた。
「ななみさん、本当に大丈夫ですか」
リリカが心配そうに覗き込む。
「さっきから顔色が……」
「……少し、驚いただけです」
「何に?」
ななみは少し考えた。
全部を話すべきか。
だが、まだ確かめられていないことが多すぎる。
「昔、似た言葉を聞いたことがあったので」
「そうなんですか」
「子供の頃に」
リリカはしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「もしかして」
「何ですか」
「ななみさんのいおりちゃんと、私のいおりちゃん」
ななみは答えなかった。
リリカも、答えを求めなかった。
ただ二人で、しばらくその路地に立っていた。
遠くで、子供の笑い声がした。
風が吹いて、洗濯物の揺れる音がした。
何でもない日のはずなのに、何でもないままでは終われなくなっていた。
帰り道、二人は並んで歩いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
沈黙は重くはなかったが、軽くもなかった。
先に口を開いたのは、リリカだった。
「ななみさん」
「何ですか」
「最近、レイヤーの質が変わってきてる気がするんですよね」
ななみは少し驚いた。
今の話題からは遠い話に見えた。
でも、リリカの顔は真剣だった。
「どう変わっているという感じですか」
「重くなってるんです。先月より、今月の方が。同じ規模のレイヤーでも、中にいる人の気持ちがもっと暗い感じがして」
「気候や社会的要因で変動することはあります」
「それとも、ちょっと違う気がするんです」
リリカは歩きながら、言葉を探すように続けた。
「なんか、一つの場所から何かが広がってきてる感じがする」
ななみは、その言葉を頭の中で転がした。
一つの場所から広がる。
「具体的な場所は」
「分からないです。でも、東より西の方がその感覚が強い気がして」
西。
ななみには、思い当たる節があった。
管理局内部で最近、西部地域のレイヤー発生頻度が上昇しているという報告がある。
原因は不明。だが、無視していい数字ではなかった。
「今度、確認してみます」
「お願いします。なんか、嫌な予感がして」
リリカが、ポケットの中の小石を握る。
その動作が、いつもより少しだけ速かった。
「大げさかもしれないですけど」
「大げさではないと思います」
ななみは言った。
今朝の、あの嫌な予感を思い出す。
空の色が違った。雲の流れが速かった。
それを、ななみは口にしなかった。
でも、リリカは別の形で同じものを感じ取っていた。
「引き続き、注意してください」
「はい。ななみさんも」
二人は歩き続けた。
夕暮れの空は穏やかな色をしていたが、西の方角だけ少し暗かった。
同じ頃。
ゆめは丘の上にいた。
匂いが、近い。
もうすぐだと分かった。明日か、明後日か。
それくらいの距離に、あの匂いの持ち主がいる。
二人いる。
一人ではなく、二人。
一人の匂いは、前から知っていた。
でももう一人
—— その匂いも、どこかで嗅いだことがある。
遠い記憶の中で、確かに嗅いだことがある。
ゆめは目を閉じた。
記憶を辿る。
近所の友達が家に来た時の記憶。
いおりが笑っていた。誰かと一緒に走り回っていた。
その誰かの匂いが——
ゆめは目を開けた。
二人とも、知っている。
二人とも、いおりが大切にしていた人たちだ。
風が草を揺らす。
村の屋根が夕暮れの中で静かに光っている。
ゆめは立ち上がった。
いおりに、何と言おう。
まだ決めていない。
でも、もう先送りにはできない。
時が来た。
それだけは、はっきり分かった。
◆
遠く離れた場所で、一人の少女が端末を閉じた。
眼鏡をかけた、静かな目をした少女だった。
隣には、お菓子の袋を抱えたもう一人の少女がいる。
二人は以前から、ある記録をつけ続けていた。
出会った人たちの記憶を、残しておくための記録を。
「ねえ、すずちゃん」
「何ですか」
「あの二人、いおりちゃんのところまで来てるんだよね」
「現在地から推定すると、数日以内に村へ到達すると思います」
もかが、お菓子を一枚口に入れた。
「じゃあ、二人が辿り着く前に、ちょっと整理しておこうか」
「整理、とは」
「あの二人が抱えてる過去のこと」
もかは指先についた菓子の粉を払って、にっと笑う。
「ななみさんとリリカさんが、いおりちゃんに辿り着く前に、どんな時間を過ごしてきたか」
すずが、新しいページを開いた。
「記録してあります」
「読んでいいよ。私も聞きたい」
すずは一拍置いた。
「協力しますか」
「するする」
もかがもう一枚お菓子を取り出す。
「私、あの二人のこと、まだちゃんとは知らないから」
すずは記録帳を静かに構えた。
「では、始めます」
「うん」
「ななみという人物の記録から」
「ななみさんの子供の頃の話?」
「そうです。リリカという人物の記録も、続けて扱います」
「順番にね」
すずが最初のページに目を落とす。
「記録者、すず。協力、もか」
もかが少しだけ姿勢を正した。
「よろしくお願いします、すずちゃん」
「よろしくお願いします」
記録帳のページが、静かにめくられた。
第九話:おまじないの種――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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