第六話「忘却の壁」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
ゆめは、判断を先送りにしていた。
先送りというより、正確には——
まだ時が来ていない、と感じていた。
あの匂いは、また風に乗ってきた。
昨日より近い。
一昨日より、ずっと近い。
村の外れで洗濯物を干しながら、ゆめは風の向きを確かめた。
南東だ。
この村から南東へ向かうと、二つほど街を越えた先に大きな都市がある。
レイヤーの発生が多い地域だと聞いていた。
その匂いの持ち主は、そちらから来ている。
ゆめには、まだ名前が出てこない。
でも、温かい記憶がある。
犬だった頃の記憶だ。
大きな手に頭を撫でられた記憶。
その手の持ち主が、この匂いと繋がっている気がする。
「ゆめ、何見てるの」
いおりが縁側から声をかけた。
「風」
「風?」
「南東から来てる」
「そう」
いおりは特に深く聞かなかった。
ゆめが時々こういうことを言うのは、もう慣れているらしい。
縁側に腰を下ろし、いおりが空を見上げた。
白い手袋が膝の上に乗っている。
「ねえ、ゆめ」
「何」
「私、夢を見たんだけど」
ゆめは洗濯物から手を離した。
「どんな夢」
「子供の頃の夢。親戚の家に行って、庭で走り回ってた」
いおりは少し目を細めた。
「一緒にいた子がいたんだけど、顔が思い出せなくて」
ゆめは静かに縁側へ向かい、いおりの隣に座った。
洗濯物が少し風に揺れる。
「楽しそうな夢だった?」
「うん。なんか、すごく懐かしくて。目が覚めたら泣いてた」
いおりが少し恥ずかしそうに笑う。
その目が、まだ少し潤んでいた。
「泣いてたのに、何が夢だったか思い出せないのって、変だよね」
「変じゃないよ」
「ゆめはそう言ってくれるけど」
「変じゃない」
ゆめは繰り返した。
いおりの夢に出てきた子供が誰なのか、ゆめには分かる気がした。
でも言わない。
言うべき時が、まだ来ていない。
「その子、髪が長かった気がする。あと、すごく笑う子で」
「へえ」
「ゆめに似てるかもしれない」
「そう?」
「うん。なんか、一緒にいると安心できる感じがして」
ゆめは少し黙った。
胸の奥で、何かが静かに揺れる。
それは嫉妬ではない。寂しさとも少し違う。
懐かしさに近い、けれど簡単には名前をつけられない感情だった。
いおりは覚えていない。
でも夢の中で、確かにそこへ触れている。
失われたはずの記憶の縁に、指先だけが届いているみたいに。
ゆめは小さく息をついて、言った。
「良い夢だったね」
「うん。また見たいな」
いおりが空を見上げた。
ゆめも空を見た。
南東の風が、また吹いた。
その夜。
いおりが眠ったあとで、ゆめは一人で考えた。
あの匂いの持ち主が来たとして、どうするべきか。
いくつかの可能性がある。
一つ目。
いおりに全部話す。
あなたの記憶の中にいる人が来ようとしている、と。
でもそれは、いおりに決断を求めることになる。
会うのか。会わないのか。
記憶のないいおりに、その判断をさせるのは正しいのか。
二つ目。
何も言わずにいる。
来た相手が誰なのかを確認してから、ゆめが一人で決める。
でもそれは、いおりに何かを隠すことになる。
三つ目。
来た相手に直接話す。
あなたのことは覚えている。でも、いおりは覚えていない。
どうするかは、あなたが決めてほしいと伝える。
どれが正しいのか、ゆめには分からなかった。
こういう時に相談できる相手がいればよかった。
もかがいれば。すずがいれば。
でも今は、自分で考えるしかない。
ゆめはいおりの寝顔を見た。
穏やかな顔だった。
さっき夢の話をしていた時と同じ、懐かしさの残る表情だった。
目元が少しゆるんでいる。
眠っている時のいおりは、起きている時より少し幼く見える。
この顔を、守りたい。
それだけは確かだった。
「あなたの記憶にある人が来ようとしてる」
眠るいおりに向かって、小さく言った。
「でも今は、まだ言えない。ごめんね」
謝ることではないのかもしれない。
でも、言いたかった。
ゆめは膝を抱え、夜が明けるまで考え続けた。
答えは出なかった。
それでも、一つだけ決めたことがある。
来た時に、まず直接話す。
いおりに言うかどうかは、その人に決めてもらう。
ゆめ一人が全部を決めるのは、違う気がした。
いおりの記憶の話なのに、ゆめだけが知っていて、ゆめだけが決めるのは——
それはまた、依存の形が変わっただけかもしれない。
自立するということは、自分で全部決めることじゃない。
誰かに委ねるべき時は、委ねることだ。
そう思った。
翌朝。
ゆめはいおりより早く起きて、朝ごはんの準備をした。
いおりが起きてきた時、ゆめは何も変わらない顔をしていた。
「おはよう、ゆめ」
「おはよう、いおり」
「今日も多い」
「食べてほしいから」
「昨日も同じこと言ってたよね」
「毎日食べてほしいから」
いおりがため息をついて席に座る。
スプーンを手に取り、並んだ皿を見渡した。
諦めたような顔だが、少し嬉しそうでもある。
「ゆめ、今日何かある?」
「何も」
「そう。なんか、顔が考えてる顔してた気がして」
ゆめは少し驚いた。
「そう見えた?」
「うん。まあ、ゆめのことだから、いつか話してくれると思ってるけど」
いおりは皿の方を見たまま言った。
こちらを見ていない。でも確かに、気づいていた。
その言葉が、ゆめの胸に静かに刺さる。
いつか話してくれると思ってる。
信頼されている。
記憶のないいおりが、記憶のあるゆめを、信頼している。
それは温かくて、少しだけ痛かった。
「話せる時になったら、話す」
「うん、待ってる」
いおりが朝ごはんを食べ始めた。
ゆめもそれを見ながら、自分の分を口に運ぶ。
南東の風は、今日も吹いていた。
近づいている。
でも、急がない。
急いでいいことではないと、ゆめは知っていた。
それでも胸のどこかでは、もう時間があまり残っていない気もしていた。
風は止まらない。匂いは薄れない。
誰かが、確実にここへ向かっている。
ゆめは黙って、スープを一口飲んだ。
温かい味がした。
その温かさを、守りたかった。
第六話:忘却の壁――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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