第五話「沈黙の遭遇」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
レイヤーの深部は、静かだった。
音がないわけではない。
霧がかすかに擦れ合う音。自分の靴底が床を踏む音。
遠くのどこかで、誰かが何かを呼んでいるような、ひどく曖昧な声。
けれど、それらはすべて銀色の霧に吸われ、輪郭を失っていく。
まるで世界そのものが厚い綿に包まれたみたいな静けさだった。
ななみは足を止める。
視界の先は白く濁り、建物の形すら途中から曖昧に溶けていた。
息を吸うたび、冷えた感情の粒子が肺の奥まで入り込んでくる気がする。
今回の合同捜査は、ななみの提案ではなかった。
上からの指示だった。
正式な通知文には、ごく事務的な文面でこう書かれていた。
フリー調査員との連携を試験的に実施せよ。対象:リリカ。
数日前の現場報告で、ななみが「感覚的情報が戦術補助として機能する可能性あり」と記載したことが、そのままこういう形で返ってきたらしい。
望んだわけではない。
けれど、断る理由もなかった。
連携が有効なら、その方がいい。
無効なら、数字で示せばいい。
それだけの話だと、ななみは思っていた。
待ち合わせ場所には、リリカが五分早く来ていた。
白いジャケットを着て、こちらに気づくなり小さく手を振る。
今日は珍しく泥がついていない。
「ななみさん、今日もよろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「ちょっと緊張してます」
「そうですか」
「ななみさんはしてないですよね」
「していません」
「ですよね」
リリカはなぜか少し安心したように笑った。
今回のレイヤーは、規模が大きい。
廃工場跡地一帯に発生したB2相当。深部に複数の住人が取り残されている可能性がある。
数値だけ見れば、ななみ一人でも十分対処できる規模だ。
それでも今回は、リリカの感覚が有効かもしれないと判断していた。
感情ではない。戦術的な判断だ。
「私が先行します」
現場に入る前に、ななみは確認事項を口にした。
「リリカさんは三メートル後方を維持してください。単独で前に出ないこと。霧の変化を感じたら、どんな表現でもいいので逐次報告してください」
「どんな表現でも?」
「感覚的なもので構いません。今回は参考にします」
リリカが少し驚いた顔をした。
それから、ぱっと明るくなる。
「分かりました。張り切ります」
「張り切らなくていいので、冷静にお願いします」
「はい」
返事は素直だった。
素直すぎて、逆に少し不安になる。
そして今、二人はレイヤーの深部にいた。
霧は予想以上に濃い。
ななみは慎重に進みながら、侵食の広がりと核の位置を探る。
表層密度は通常より高いが、それ以上に内部の圧が強い。
浸食速度はおそらく標準の一・三倍前後。
進みながら削り、削りながら進まなければ深部まで保たない。
「ななみさん」
後ろから、リリカの声がした。
「何ですか」
「なんか、悲しい匂いがします」
ななみは一歩だけ足を止めた。
「悲しい匂い」
「はい。怒りとか、憎しみとかじゃなくて。後悔とも少し違うです。もっと……純粋に、誰かを求めてる感じ」
ななみは周囲の霧へ意識を伸ばす。
今回の発生地点は廃工場跡地だ。
記録によれば、数年前まで家族経営の小さな工場があったが、閉鎖されたという。
「続けてください」
「一人の感情じゃないです。重なってる。たくさんの人の気持ちが、同じ場所にずっと沈んでたみたいな感じ」
「中心との距離は」
「もう少し奥です。右寄り。たぶん、建物の中」
ななみは現場図を思い出した。
右奥には旧事務棟がある。
構造的にも、感情が滞留しやすい閉鎖空間だ。
「右へ進みます」
「はい」
二人は霧を分けて進む。
進むほどに静けさは濃くなった。
耳鳴りに似た違和感が増し、気を抜けば意識ごと足元に沈みそうになる。
旧事務棟の前で、ななみは止まった。
扉が半開きになっている。
錆びついた蝶番が、風もないのにわずかに鳴った。
その隙間から、かすかに声がした。
子供の声だった。
「残留者が一名。建物内です」
ななみが低く告げると、後ろでリリカが息を呑む気配がした。
「……怖がってる」
その声は、さっきまでより少し低い。
「違う。怖いのもあるけど、それより……待ってる感じ」
「待ってる」
「うん。誰かを、ずっと」
ななみは扉に手をかけた。
中は薄暗い。
霧が建物の形を内側から侵していて、壁も床も境界が曖昧になっている。
視線を走らせる。
壁際に、小さな人影があった。
十歳前後の女の子。膝を抱えて座り込んでいる。
靴先は霧に半分呑まれ、指先の輪郭はすでにぼやけ始めていた。
浸食は深い。だが、まだ引き戻せる。
ななみは一歩、前へ出た。
「大丈夫ですか」
声をかける。
女の子がゆっくり顔を上げた。
焦点の合いきらない目。けれど確かに、こちらを見ている。
唇が小さく動いた。
「おかあさんを、待ってた」
その声はあまりにも小さくて、霧に溶けそうだった。
ななみは、一瞬だけ言葉を失った。
お母さんは来られないかもしれない。
少なくとも、この濃度のレイヤーに自力で踏み込める一般人はいない。
現実だけを言えば、その可能性は低い。
けれど、その現実を今ここで伝えることに、何の意味があるのか。
一瞬の迷い。
ななみにとっては珍しい種類の迷いだった。
「ななみさん」
いつの間にか、リリカがすぐ隣まで来ていた。
三メートル後方維持の指示は守られていない。
だが、それを注意するより先に、リリカは女の子の前にしゃがみ込んでいた。
「こんにちは」
やわらかい声だった。
女の子が、ゆっくり瞬きをする。
「……こんにちは」
「お名前、教えてくれる?」
「……みく」
「みくちゃんか。かわいい名前だね。私はリリカ。こっちはななみさん」
自然だった。
子供に合わせて声の高さも、間の取り方も変えている。
ななみには、ああいう入り方ができない。
できないというより、やろうとすると正しい言葉を探しすぎて、何も出てこなくなる。
「おかあさん、来てくれるかな」
みくがぽつりと言った。
リリカは少しも急がずに答える。
「来てくれると思うよ」
その返答に、ななみはわずかに視線を向けた。
言い切るのか、と思った。
けれどリリカは、そのまま続ける。
「でも今すぐは難しいかもしれないから、先に私たちが会いに行こうか。みくちゃんが外に出られたら、お母さん、すぐ見つけられるよ」
みくはしばらく考えて、それから小さく頷いた。
リリカが手を差し出す。
みくは、その手をぎゅっと握った。
小さな指先に、まだ力は残っている。
ななみは意識を切り替えた。
救助を成立させる。今、必要なのはそれだ。
建物内部の霧の流れを読む。入り口から出口までの最短導線を確保し、みくの動線上の侵食を優先して剥がす。
深部の核を刺激しすぎないよう圧を調整しながら、周囲の滞留を段階的に削っていく。
リリカはみくに話しかけ続けていた。
「みくちゃん、立てる?」
「……たぶん」
「えらい。じゃあ、ゆっくりでいいから、一緒に行こう」
「うん」
「お母さんに会ったら、最初に何て言う?」
みくは少し考えて、か細い声で言った。
「……おそくなって、ごめんって」
その瞬間、リリカの表情が少しだけ揺れた。
けれどすぐに笑ってみせる。
「じゃあ、その前にお母さん、きっといっぱい心配したって言うと思う」
みくが、小さく息を吸った。
そのやりとりを聞きながら、ななみは処理の手を止めない。
霧はなおも建物の奥から押し寄せてくる。だが、二人の歩幅に合わせて削れば、十分間に合う。
連携、という言葉をななみはまだ使いたくなかった。
それでも。
今この場では、明らかに噛み合っていた。
ななみが道を作る。リリカが人をつなぐ。
どちらか片方だけでは、この速度では運べなかったかもしれない。
外へ出た瞬間、女の人の叫ぶような声がした。
「みく!」
封鎖線の向こうで待っていた母親が駆け寄ってくる。
みくが「おかあさん」と叫んで、その腕の中へ飛び込んだ。
母親は泣きながら何度も娘の名前を呼んでいる。みくも泣いていた。
さっきまでレイヤーの中で凍っていた子供とは思えないほど、しっかりした声だった。
ななみは、その場面を少し離れた位置から見ていた。
頭の中では、いつものように報告項目を整理している。
場所。時刻。規模。
対処法。結果。
数字と事実だけで構成される記録。
でも。
みくの「おかあさんを、待ってた」という声だけが、どうしても消えなかった。
待っていた。
その言葉が、妙に深く引っかかる。
「上手くいきましたね」
隣に、リリカが来た。
膝には土がついていて、白いジャケットの裾も少し汚れている。
やっぱり、泥のつかない日は長く続かないらしい。
「はい」
「やっぱり、一緒の方が早い気がします」
「数値的にはまだ比較が必要です」
「数値じゃなくて」
リリカは母娘の方を見た。
「みくちゃんの顔。ななみさんだけだったら、もう少し時間かかった気がするし、私だけでも絶対無理でした」
ななみは少し黙った。
それは否定しきれなかった。
「リリカさんの役割は有効でした」
そう言うと、リリカはぱっと顔を明るくした。
「ありがとうございます。なんか今、認めてもらえた気がします」
「認めたわけではありません。有効だったと言っただけです」
「同じじゃないですか」
「違います」
リリカが、くすくす笑う。
ななみは無表情のまま視線を逸らした。
けれど内心では、完全には違わないかもしれない、と思っていた。
その夜。
宿に戻ってから、ななみは一人で報告書を書いていた。
連携の有効性。感覚的情報の戦術利用。
民間人対応における情緒的接続の補完性。
書こうと思えば、そういう言葉でいくらでも整えられる。
だが、どれもしっくりこなかった。
ペンが止まる。
みくの声が、また頭の中で響く。
おかあさんを、待ってた。
待つ、という行為の意味を、ななみはずっと考えないようにしてきた。
考えたところで、過去は変わらないから。待った先に何かがあるとは限らないから。
でも時々、こうして真正面から突きつけられる。
あの子も、待っていたのだろうか。
ある日を境に会えなくなった、あの子も。
どこかで、誰かを。助けを。迎えを。それとも、自分のことを。
ななみは息を止め、ゆっくり吐いた。
書けるのは事実だけだ。
書けない感情は、書かない。
それが、ななみのやり方だった。
ペンを持ち直し、続きを書く。
フリー調査員との連携は、救助対象の心理的安定および誘導効率の面で有効性を認めた。
そこまで書いて、ななみは少しだけ目を閉じた。
同じ頃。
村の小さな家では、ゆめがいおりの隣に座っていた。
窓の外では、北西の風が静かに吹いている。
乾いた夜の風。けれど、その奥に別の匂いが混じっていた。
いおりがカップを持ったまま、小さく首を傾げる。
「今日、北西の風が強いね」
「うん」
「なんか、嵐が来る前みたい」
ゆめは少し考えてから首を振った。
「嵐じゃないと思う」
「そう?」
「もっと温かい感じ」
いおりが不思議そうに笑う。
「温かい嵐?」
「嵐じゃなくて」
「じゃあ何」
ゆめは窓の外を見たまま答えた。
「会いに来る人」
いおりが、ゆめの横顔をじっと見た。
「ゆめ、知ってるの? 誰が来るか」
「まだ確かじゃない」
「でも来ると思ってる?」
「うん」
いおりはしばらく黙っていた。
そして、小さく言う。
「私は少し怖いかも」
ゆめが視線を向ける。
「どうして」
「知らない人に会うのって、なんか緊張するから」
ゆめは、いおりの手を取った。
「大丈夫だよ」
「ゆめがそう言うなら」
「大丈夫」
いおりが、その手を握り返す。
北西の風が、また吹いた。
その風はもう、ただの風ではなかった。
どこか遠くで、止まっていたものが少しずつ動き出している。
そんな気配を連れてきていた。
ゆめは黙って、その匂いを嗅いでいた。
近い。
もうすぐだ、と分かる。
第五話:沈黙の遭遇--完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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