第四話「聖女の足跡」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
ゆめは、匂いで世界を覚えている。
人間になってから気づいたことだけれど、これはきっと犬だった頃の名残だ。
目で見た景色より、耳で聞いた言葉より、鼻で感じた匂いの方がずっと鮮明に残る。
いおりの匂い。
朝の光の匂い。荒野の乾いた土の匂い。
この村に満ちる、焼きたてのパンの匂い。
匂いは、時間まで連れてくる。
同じ匂いを嗅ぐと、その日の空気も、風の温度も、一緒に思い出す。
今日も、いつも通りの朝だった。
村の外れにある小さな家の窓辺で、いおりが空を見ていた。
白い手袋をはめた左手が窓枠に置かれていて、朝の光がその指先をうすく透かしている。
何かを考えているのか。何も考えていないのか。
その横顔だけでは、ゆめには分からない。
いおりは、こうしていることがよくある。
ぼんやり空を見て、風を受けて、何かを探すみたいに目を細める。
思い出そうとしているのかもしれない。
思い出せないと分かっていても、やめられないのかもしれない。
ゆめは、それを止めない。
止める理由がない。
「いおり、朝ごはんできたよ」
「うん」
振り返ったいおりは、すぐに笑った。
その笑顔を見るたび、ゆめは胸の奥が少しだけ痛くなる。
記憶のないいおりは、記憶があった頃より穏やかに笑う。
柔らかくて、静かで、どこか遠くを知らない笑い方だ。
それが良いことなのか悪いことなのか、ゆめにはまだ分からない。
テーブルに並べた皿を見て、いおりが目を細めた。
「ゆめ、また多くない?」
「食べてほしいから」
「私そんなに食べられないって言ってるのに」
「食べてほしいから」
「同じ答えじゃん」
いおりがため息をつく。
でも、その声は少しだけ笑っていた。
ゆめは、それで十分だと思う。
ちゃんと食べて、ちゃんと眠って、ちゃんと笑ってくれればいい。
今はそれが一番大事だった。
食事のあと、二人はいつも通り村を歩いた。
毎朝の習慣。特に目的があるわけじゃない。
ただ、いおりがこの村の空気を好きで、ゆめもそれを知っているから歩く。
この村は小さい。
住人は五十人もいないだろう。
それでも、温かい場所だった。
不思議なくらい、ここにはハザードレイヤーの影響が薄い。
村を囲む荒野のどこかには銀色の霧が立つこともあるのに、ここまで深く侵されることはほとんどない。
理由は、ゆめには分からない。
ただ、この村の人たちは穏やかだった。
誰がどこで何をしているのか、だいたいみんな知っていて、誰かが困ればすぐに手を貸す。
大きな声で踏み込まず、でも放ってもおかない。そういう距離で、互いの生活を支えている。
いおりは、この村が好きだった。
記憶がなくても、好きという感情はちゃんと残るらしい。
「おはよう、いおりちゃん」
通り沿いの八百屋のおばさんが、野菜を並べながら声をかけてくる。
いおりが手を振る。
「おはようございます」
「今日も二人で仲良いねえ」
「ゆめが離れないんです」
「離れたくないから」
おばさんが声を立てて笑った。
いおりも笑う。ゆめも少しだけ笑った。
この村では、ゆめといおりは少し変わった二人組として受け入れられている。
詳しい事情を知っている人はいない。
どこから来たのか。どうして二人で暮らしているのか。
誰も聞かない。ただ、いる。
そのことが、ゆめにはありがたかった。
村の広場に差しかかると、子供たちの匂いが先に届いた。
土。草。汗。日なたに干した布のにおい。
それに混じる、子供特有の甘くて柔らかい匂い。
何人かの子供が地面に絵を描いて遊んでいる。
そのうちの一人、六歳くらいの女の子がゆめに気づいて、ぱっと顔を上げた。
「ゆめちゃん、きょうも来た」
「来たよ」
「ね、またかみのけやらせて」
この子は前からゆめの髪を気に入っている。
会うたびに触ってきて、花を挿したり、結べもしないのに結ぼうとしたりする。
「いいよ」
ゆめが地面に腰を下ろすと、女の子は満足そうに後ろへ回り込んだ。
そしてどこから持ってきたのか、大きなブラシを得意げに掲げる。
ゆめは振り返って、それを見た。
「それ、どこで」
「おうちにあった。ゆめちゃんのかみ、ふわふわだから、これがいいとおもって」
どう見ても犬用のブラシだった。
いおりが隣でくすくす笑う。
「よかったね、ゆめ」
「笑わないで」
「だって、ぴったりじゃん」
「ぴったりじゃない」
「そうかなあ」
ブラシが髪に入る。力加減はちょっと雑だった。
ときどき痛い。でも、嫌ではなかった。
むしろ、懐かしかった。
こういう感触を、ゆめは知っている。
遠い記憶の中に、もっと小さな手がある。
まだ犬だったころのゆめの毛並みを、一生懸命とかしてくれる手。
うまくできなくて、逆向きに梳いてしまって、毛を引っかけてしまって、それでも必死でやってくれる手。
ゆめはそのときも、逃げなかった。
逃げたくなかったからだ。
「いたい?」
女の子が心配そうに聞いた。
「大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに」
安心したのか、女の子は今度は少しだけ丁寧にブラシを動かし始めた。
いおりは横でまだ笑っている。
ゆめは目を細めた。
この匂いだ、と思う。
土と草と、子供特有の甘い匂い。
この女の子の匂いは、ゆめの記憶の中にある匂いと少し似ていた。
似ているだけで、同じではない。でも似ている。
あの日の、あの子の匂いに。
胸の奥で、何かがやわらかく揺れた。
懐かしいのに、触れると痛い。そんな感覚だった。
午後。
いおりが昼寝をしているあいだ、ゆめは一人で村の外へ出た。
丘の上まで歩く。草を踏む音。
乾いた土の匂い。遠くで鳴く鳥の声。
高い場所まで来ると、村の屋根が小さく見えた。
その向こうには荒野が広がっている。風が抜け、空がよく見える。
さらに遠く。
銀色の霧が、かすかに立ち上っていた。
遠い。
この村にすぐ届く距離ではない。
でも、確かにそこにある。
あの霧の中に、誰かがいる。
泣いている人がいる。助けを求めている人がいる。
ゆめには、もうあそこへ向かう力がない。
いおりと深く繋がっていた頃のように、霧と共鳴することはできない。
誰かの痛みに触れ、それを引き受け、ほどくことも、今のゆめにはできない。
ゆめは、ゆめとして独立した存在になった。
それはきっと喜ばしいことだった。
いおりの一部ではなく、自分の足で立つ自分になれたのだから。
それでも、こういうときだけは思う。
どうにもできない。
手が届かない。知っていても、行けない。
そのことが、少しだけ苦しかった。
でも。
ゆめはそこで考えるのをやめた。
いおりのそばにいることが、今のゆめにできることだ。
その役割を、ゆめは自分で選んだ。
選んで、ここにいる。
なら、それでいい。
ゆめは、いおりのことを全部覚えていた。
初めて笑った日のこと。初めて転んで泣いた日のこと。
夜、眠れなくて、何も言わずにゆめのそばへ来て、ただ体を寄せていたこと。
悲しいくせに泣かないで、代わりに黙って空を見ていたこと。
いおりは覚えていない。
でも、ゆめが覚えている。
それで十分だと、ゆめは思っていた。
記憶というのは、誰か一人が持っていれば消えない。
いおりの中から消えても、ゆめの中にあるなら、完全にはなくならない。
だから、消えていない。
ゆめはずっと、そう思うことにしていた。
風が吹いた。
丘の上を抜ける、少し乾いた風。
その中に、かすかに別の匂いが混じっていた。
ゆめは顔を上げる。
鼻先が、わずかに震える。
知っている匂いだった。
遠い記憶の底に沈んでいたはずなのに、嗅いだ瞬間に胸の奥がきゅっと縮む。
温かい。でも切ない。懐かしいのに、どこか痛い。
誰かが、こちらへ向かっている。
まだ遠い。
けれど確実に、近づいている。
ゆめは立ち上がった。
その匂いを知っている。
でも、誰のものなのか、すぐには思い出せなかった。
名前が出てこない。
顔も浮かばない。
ただ、一緒にいた時間の温度だけがある。
日向みたいな温度。笑い声の残る温度。泥と草と、手のひらのぬくもりが混ざった記憶。
ゆめはしばらく丘の上に立ったまま、風の匂いを嗅いでいた。
いおりを起こしには行かなかった。
まだ何も確かではない。
確かなものになってから考えればいい。
今はまだ、いおりに穏やかな昼寝をしていてほしかった。
それが、今いちばん守りたいものだった。
夕方。
いおりが目を覚ました。
「ゆめ、どこ行ってたの」
「丘の上」
「一人で?」
「うん」
いおりが少しだけ不満そうな顔をする。
「言ってくれれば一緒に行ったのに」
「寝てたから」
「起こしてくれてよかったのに」
「寝かせたかったから」
いおりがため息をついた。
「ゆめは時々、私が知らないうちに一人で何か考えてるよね」
「いつも何か考えてるよ」
「それがちょっと心配」
ゆめは少しだけ考えてから答えた。
「心配しなくていいよ。ゆめはいおりのそばにいるから」
「そういう問題じゃなくて」
「そういう問題だよ」
いおりが、またため息をつく。
でも今度は柔らかい。
「ゆめと話してると、なんか言い負けてる気がする」
「言い負けてるわけじゃないよ」
「じゃあなんで毎回ゆめの言う通りになるの」
「ゆめが正しいから」
いおりが声を立てて笑った。
その笑い声に、ゆめもつられて笑う。
窓から夕日が差し込んでいた。
部屋の床が橙色に染まって、いおりの髪の輪郭が光って見える。
この時間が好きだと、ゆめは思う。
何があっても。何が来ても。
今日の夕日と、いおりの笑顔だけは、確かにここにある。
その夜。
ゆめは眠っているいおりの寝顔を見ながら、昼間の匂いのことを考えていた。
あの匂いの持ち主が誰なのか、まだ分からない。
でも近づいている。確実に。
いおりには、まだ言わない。
言うべき時が来たら、言う。
今はまだ、その時じゃない気がした。
眠るいおりの額にかかる髪を、そっと払う。
呼吸は穏やかで、表情も静かだった。
ゆめは小さく呟く。
「いおりの分まで、ちゃんと覚えてるから」
返事はない。
それでよかった。
その代わり、窓の外から夜風が入り込んできた。
昼間と同じ、あの匂いをわずかに連れて。
ゆめは顔を上げる。
近い。
思っていたより、ずっと近くまで来ている。
闇の向こうにいる誰かを思い、ゆめはしばらく動かなかった。
胸の奥で、懐かしさと警戒が同時に揺れていた。
再会の匂いだった。
第四話:聖女の足跡--完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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