回想第十二話「ゆめが聞いた産声」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
すずの記録には、こう残っている。
「いおりの記録。ゆめの観察より。記録者:すず。協力:もか」
その下にもかが書き加えていた。
「この回、聞きながら何度か泣いた」
すずが答えている。
「私も、です」
もかの文字が少し大きくなる。
「すずちゃんも泣いたの?」
その問いに対して、すずは少しだけ間を置いた跡を残していた。
「目が、潤みました」
もかがすぐ横に追記している。
「それを泣いたって言うんだよ」
さらに少し空いて、すずの整った字が続く。
「……記録します」
ゆめが最初に覚えている、アムネシアにいた頃のいおりの匂いは、鋼のような匂いだった。
冷たくて、硬くて、よく研がれた刃のような匂い。
曇りがなく、迷いもなく、だからこそ触れる側が気を張ってしまうような匂いだった。
温かさがなかったわけではない。
ただ、その温かさはずっと深い場所に押し込められていた。
表に出してしまえば、戦えなくなると、いおり自身が知っていたみたいに。
もかが、そこでゆめに尋ねた。
「なんで、そんな匂いだったの?」
ゆめは少し考えてから答えている。
「戦い続けていたからです」
それだけでは足りないと思ったのか、続けていた。
「負けたくなかったから、ではありません。誰かを失いたくなかったからです。
でも、その気持ちをそのまま出すと、戦えなくなる気がしていたんだと思います」
もかが書き足している。
「だから、押し込めてたんだ」
ゆめは短く頷いたと、すずは記録していた。
「あの頃のいおりは、本当に強かったと思います」
そう言ったあと、ゆめは少しだけ黙った。
「でも、その強さは、本来のいおりの強さとは少し違っていたのかもしれません」
もかが問い返す。
「どういう意味?」
「いおりらしい強さは、もっと柔らかいものです」
ゆめの言葉は静かだった。
「硬さで守る強さではなくて、温かさで包む強さ。でも、アムネシアには、その強さをそのまま出せる場所がなかった」
すずの記録によれば、そこまで話した時、ゆめの声は淡々としていたが、匂いの説明になるたび、少しずつ深くなっていったという。
アムネシアが崩壊し、記憶を失ったあとのいおりの匂いは、また別のものになった。
鋼の匂いは消えていた。
けれど、すぐに温かさが戻ってきたわけではなかった。
ゆめは、その時のことをこう表現している。
「空白の匂いでした」
もかが、少し小さめの字で問いを入れている。
「空白って、何もないってこと?」
「いいえ」
ゆめはそう答えた。
「何もない匂いではありません。何かがあった場所から、
その何かだけが抜け落ちた匂いです。器だけが残っている感じ」
もかが静かになったことを、すずは注記している。
しばらくして、もかが聞いた。
「それって、寂しくなかった?」
ゆめの返答はすぐだった。
「寂しかったです」
それから、一拍置いて続けた。
「でも、これでいいとも思いました」
「どうして?」
「いおりは、あの重さをずっと持ち続けられる人ではなかったと思うからです」
ゆめはまっすぐに言った。
「持ち続けようとしてしまう人ではあったけど、持ち続けてはいけなかった。
一度空っぽになって、そこから始めるしかなかった。それが、いおりに必要だったんだと思います」
もかが小さく頷いた、と記録にある。
村にいるあいだ、いおりの匂いは少しずつ変わっていった。
空白の器に、少しずつ何かが溜まっていくような変化だった。
村の土の匂い。朝に焼けるパンの匂い。
子どもたちの笑い声の匂い。水を汲む音の匂い。
焚き火のあとに残るやさしい煙の匂い。
それらを、いおりはひとつずつ受け取っていた。
「いおりは、受け取ることが上手でした」
ゆめはそう言っている。
「記憶がなくても、目の前にあるものをちゃんと受け取る力は残っていました」
もかがすぐに反応する。
「それって、すごいことだよね」
「そう思います」
ゆめは答える。
「記憶がなくても、いおりはいおりでした。誰かの痛みに気づく目は残っていたし、真剣に物事を見る癖も残っていた。
いおりの本質は、記憶の中だけにあったわけじゃなくて、もっと深いところにあったんだと思います」
そこまで話してから、ゆめは少し黙った。
すずの記録には、その沈黙についても書かれている。
「ここでゆめは、言葉を探していた。否定ではなく、不足を伝えるための言葉を選んでいたように見えた」
そして、ゆめは続けた。
「でも」
短いその言葉のあとに、空気が少し変わった。
「ななみさんとリリカさんが来るまで、いおりにはまだ足りないものがありました」
もかが尋ねる。
「何が?」
「いおり自身の話を、いおりが知らなかったことです」
ゆめは静かに言った。
「自分がどんな人だったのか。何のために戦っていたのか。誰を大切にしていたのか。
それを知らないまま、受け取ることだけで生きていた」
もかの文字が少し小さくなる。
「それって、ちゃんと生きてることになるのかな」
ゆめは少し考え、それから答えた。
「なると思います」
その言い方はやわらかかった。
「受け取って生きることも、ちゃんと生きることです。でも、それはまだ産声ではなかった。
まだ、本当の声が出ていなかったんです」
すずがここで質問を挟んでいる。
「産声、というのは、どういう意味ですか」
ゆめは、はっきりと答えている。
「自分の意志で、誰かに向かって出す声のことです」
それから、少しずつ言葉を重ねた。
「守られるだけではなく、守りたいと思って出す声。受け取るだけではなく、自分から与えようとして出す声。そういう声のことです」
もかが、そこでゆめを見たとある。
「それが出たのは、いつ?」
ゆめは少し考えた。
「小さなものなら、何度かあったと思います」
そう前置きしてから、続ける。
「でも、いちばん大きかったのは」
もかが促す。
「いつ?」
「いおりが、自分の六本目の指を見た時です」
その一文のあと、記録には少し長い空白がある。
もかが息を止めたからだと、すずは後から追記していた。
「手袋を外して?」
「はい。夜明け前に、一人で」
「それを、ゆめちゃんは見てたの?」
「見てはいません」
ゆめはそう訂正した。
「眠ったふりをしていました。でも、分かりました。匂いで」
ここから先、すずの筆跡はややゆっくりになっている。
「いおりは長い間、あの手を見ませんでした」
ゆめの言葉が続く。
「見るのが怖かった、というより、見てどう受け取ればいいのか分からなかったんだと思います。
知らないはずの自分に触れることになるから」
もかが小さく書き添えている。
「でも、見たんだね」
「はい」
ゆめの答えは短い。
けれど、その短さの中に、長く待っていたものが含まれていた。
「そして、受け取ったんです。この手は、かつて誰かのために戦った手だということを。
記憶はなくても、体はちゃんと覚えていたということを」
もかは、その先を急かさなかった。
ゆめが言葉を選ぶのを待って、次の問いを置いた。
「その時、いおりちゃんの匂いはどう変わったの?」
ゆめは、そこで少しだけ目を伏せたと記録されている。
「今までのいおりは、受け取る匂いでした」
ゆめはゆっくり言った。
「差し出されたものを抱えて、そこから生きようとする匂い。でもあの時、初めて、前を向き始めたんです」
すずが確認するように問い返した。
「前を向き始めた、とは」
「守ってもらっている人の匂いではなくなりました」
ゆめははっきり答えた。
「誰かのために、もう一度立ち上がろうとしている人の匂いになったんです」
その記述の横に、もかが小さく書いている。
「ここで泣いた」
さらに下に、すずがきちんと補足していた。
「記録者も同様」
もかが、その場で言ったことも残っている。
「それが、産声なんだね」
「そう思います」
ゆめは答えた。
「記憶がなくても、自分の足で立って、自分の意志で誰かに手を伸ばそうとした。
その時、いおりは初めて、本当の声を出したんだと思います」
すずが、ここでまた記録帳から顔を上げた。
「ゆめさんは、その瞬間をどこで見ていましたか」
「隣で、眠ったふりをしながら」
もかがくすっと笑った跡が、文字にも残っている。
「眠ったふりしながら、泣いてた?」
「泣いていません」
「目が潤んでただけ?」
そこで、ゆめは珍しく少し長く黙った。
そして、小さく答えている。
「……すずちゃんの言い方を借りれば、目が潤みました」
そのすぐ下に、すずの短い記録がある。
「記録します」
もかがまた笑って、それから少しだけ優しい文字で書いている。
「ゆめちゃん、よかったね。ちゃんと聞けて」
ゆめの返答は短かった。
「よかったです」
「いおりちゃんのこと、ずっと見てきたんだよね」
「はい」
「それって、すごいことだよ」
ゆめは少し考えてから答えた。
「当然のことです」
もかが、そこで少しだけゆめの隣に近づいたことを、すずは観察として残している。
「当然じゃないよ」
もかはそう言った。
「でも、ゆめちゃんなら、そう言うと思った」
そのあと、しばらく誰も喋らなかった。
静かな時間の中で、すずは記録帳の最後に一文を書き足した。
「記録者注:ゆめという存在が、いおりの産声を最初に聞いた。その事実を、ここに残しておく」
もかが覗き込んで言う。
「いい記録だね、すずちゃん」
「正確に残すことが、私の役割なので」
「でも、今回はちょっと違う感じがする」
「何がですか」
「なんか、それ、すずちゃんの言葉みたい。記録者の言葉っていうより」
すずは少し間を置いた。
その沈黙も、今ではもう記録の一部みたいだった。
「……どちらでも、いいのかもしれません」
もかが笑った。
それにつられるみたいに、すずの口元も少しだけ動いたとある。
数日後、もかとすずが村を出る時、ゆめはいおりと並んで二人を見送った。
もかといおりは、その短い滞在のあいだに、すっかり打ち解けていた。
「またね、いおりちゃん」
「うん。また来てください」
「来るよ。絶対」
すずが、すぐに言う。
「もからしいですね。根拠もなく絶対と言う」
「あるよ」
もかは胸を張るみたいに書かれている。
「また来たいって思ってるから」
「それは根拠になりません」
「なるよ。私が来たいと思ったら、絶対来るから」
少し間が空いてから、すずが記録している。
「……記録します」
もかが笑った。
いおりも笑った。
その様子を見ながら、ゆめは思っていた。
また、きっと来てくれるだろう。
もかが来たいと思ったら来る。
それは理屈ではないけれど、たしかに根拠になる気がした。
すずの記録には、最後にこう残っている。
「ゆめという存在を、どう記録すべきか迷ったが、ゆめはゆめとして記録することにした。
記録者注:正確な言葉が見つかるまで、この注は空欄にしておく」
その横にもかが付け加えた。
「次の記録が区切りだね」
すずが答えている。
「区切りです。でも、終わりではありません」
「続きってこと?」
「はい」
少し間があって、最後にこう記されていた。
「記録は、終わらないので」
回想第十二話:ゆめが聞いた産声――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■専用Xアカウント
https://x.com/gin_no_sakura_y?s=21




