回想第九話「静かな観測者たち」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
すずの記録には、こう残っている。
「セシリアとユウリの記録。アムネシア崩壊後より。記録者:すず。協力:もか」
もかが、その横に書き足していた。
「セシリアさんって、どんな人なんですか、って聞いたら」
すずは、短くこう答えている。
「いおりを守り続けた人だと思います」
もかは、その返答を読んで言った。
「それ、すごく正確な気がする」
すずは、少し間を置いてから補足している。
「正確に記録することが、私の役割なので」
セシリアが情報を掴んだのは、偶然のようでいて、たぶん偶然ではなかった。
必要な情報が、必要な時に、なぜか彼女の手元に届く。
それを運と呼ぶ者もいれば、勘と呼ぶ者もいる。
けれどセシリア自身は、そのどちらの名前も好まなかった。
ただ、来た情報を丁寧に扱う。
それだけだった。
アムネシアが崩壊してから、セシリアとユウリは一緒にいた。
正確には、ユウリがセシリアのそばを離れなかった。
最初のうち、セシリアはそれを不思議に思っていた。
ユウリには、外の世界で好きに動く自由があるはずだった。
閉じた場所から解放されたのだから、誰に気兼ねすることもなく、自分の行きたい方へ進めばいい。
そう言ったことも、一度や二度ではない。
そのたび、ユウリの返事は変わらなかった。
「嫌いじゃないので」
それだけだった。
セシリアは最初、その意味を何度か考えた。
いったい何を、どういう距離感で言っているのかと。
今は、もう考えないことにしている。
言葉の厳密な定義より、その場にいてくれる事実の方が大きかったからだ。
ただ、一つだけ、どうしても気になることがあった。
ある夕方、簡単な食事のあとで、セシリアは何気ないふりをして尋ねた。
「ユウリ」
「何ですか」
ユウリはラスクを持ったまま、前を向いていた。
「嫌いじゃない、という言葉。それは、好きということですか」
ユウリは、すぐには答えなかった。
ラスクを見て、それから空を見て、最後にようやく口を開く。
「……嫌いじゃない、ということです」
「どう違うんですか」
「好きというのは、もっと積極的な感情です」
「はい」
「嫌いじゃない、というのは、そこにいることが自然ということです」
セシリアは少し考えた。
「自然、ということは」
ユウリは、やや面倒そうにしながらも、答えを省かなかった。
「セシリアさんがそこにいると、落ち着くということです」
「それは、好きということでは」
「違います」
「どう違うんですか」
ユウリはラスクを一口かじった。
「……嫌いじゃないです」
その言い直しがあまりにも頑固で、セシリアは小さく笑った。
ユウリは前を向いたままだった。
でも、耳だけ少し赤く見えたと、すずは後の記録に残している。
ある日、セシリアのもとに一枚の報告書が届いた。
管理局の、非公式な情報経路から流れてきたものだった。
セシリアはアムネシアの元管理者として、管理局と一定の情報交換をしていた。
正式な協力関係ではない。
けれど、互いに持っている情報の価値は分かっていた。
報告書に記されていたのは、ある管理局員の情報だった。
名前は、ななみ。
特別執行官、二十一歳。
卓越した人願制御能力を持ち、感情を抑えた精密な処理で知られる。
フリーの調査員と連携し、各地のレイヤーに対処している。
セシリアは、その名前を見た瞬間、手を止めた。
いおりの従姉妹。
その情報だけで、紙の重さが変わった気がした。
セシリアはしばらく報告書を見つめたあと、ユウリを呼んだ。
「見てください」
ユウリは無言で受け取り、内容に目を通した。
表情はほとんど変わらなかった。
でも、目の動きがわずかに止まる。
「いおりの従姉妹ですか」
「そうです」
「知っていたんですか」
「名前だけは。会ったことはありません」
「この人が、いおりを探している」
「おそらく」
ユウリは紙を返した。
「どうするつもりですか」
「まだ分かりません」
セシリアは、報告書を折り畳みながら言う。
「ただ、見ていようと思います」
「見ている、とは」
「動向を把握しておくということです。直接関わるかどうかは、まだ決めていません」
ユウリは少し黙った。
それから、ラスクを一枚口に入れる。
「一緒に行きますか、見に」
セシリアが顔を上げる。
「来ますか」
「嫌いじゃないので」
二人がななみとリリカの動向を最初に確認したのは、ある街の外れだった。
遠くから、双眼鏡で見る。
ななみが霧を処理している。
その隣で、リリカが住人たちに声をかけ、場を整えている。
管理と感情。制御と対話。
種類の違う二人なのに、動きはもう噛み合い始めていた。
「上手いですね」
双眼鏡を覗いたまま、ユウリが言う。
「そうですね」
「管理と解放を、自然に組み合わせている」
「教えたわけでもないのに」
「必要だから、そうなったんでしょう」
セシリアは双眼鏡を下ろした。
「ユウリ」
「何ですか」
「あの二人は、いおりに会いに行くと思います」
「いつ頃ですか」
「近いうちに」
「根拠は」
「感じるので」
ユウリが、少し考える。
報告書の文字よりも、目の前で動く二人の方を信じようとしている顔だった。
「止めますか」
「止めません」
セシリアはきっぱり言った。
「でも、準備は必要です」
「何の準備ですか」
「会った時に、必要な言葉を届けられるかどうかの準備です」
ユウリが双眼鏡を下ろす。
「どういう意味ですか」
セシリアは、遠くのななみを見たまま答えた。
「あの子は、いおりを取り戻しに行くつもりでいる」
「違うんですか」
「違う、とは言いません。でも、それだけでは届かない」
「届かない、とは」
セシリアは静かに言った。
「人願は、後悔を動機にしているあいだ、本当の力を出せません」
その声音には、経験があった。
机上の理論ではなく、何度も見てきた失敗の記憶があった。
「アムネシアで、何度も見てきました。
守れなかった、取り戻したい、それだけで動く願いは強いようでいて、どこかで必ず歪みます」
ユウリは何も挟まない。
セシリアの言葉を、そのまま受け止めていた。
「あの二人が、正しい動機で動けるように、誰かが伝える必要があります」
「セシリアさんが、ですか」
「私が直接関わるのは、まだ早い」
セシリアは首を振る。
「あの二人は、私を知りません。知らない相手から急に核心だけを渡しても、届かない可能性が高い」
「では」
セシリアはそこで、ユウリを見た。
「あなたに、頼めますか」
ユウリは少し間を置いた。
ラスクを持ったまま、双眼鏡越しにリリカを見る。
元気よく動き、感情のままに人へ近づき、けれど傷つくことも躊躇わない子。
「あの人に、ですか」
「リリカという子は、あおぞら幼稚園の出身です」
ユウリの目が、わずかに動いた。
「あなたも、同じ幼稚園にいたはずです」
「……おぼろげに」
「接点があります。管理局のデータベースにも記録が残っているはずです。そこから連絡は取れます」
ユウリはしばらく何も言わなかった。
双眼鏡を外し、肉眼でリリカを見る。
小さくてもよく動いて、よく笑って、よく傷つきそうな子だと思った。
「やってみます」
「ありがとうございます」
翌日も、二人はななみとリリカを追った。
この日は別の街だった。
小規模なレイヤーを処理している場面を、やはり遠くから観察する。
ユウリが先に気づいた。
「あの人、昨日より動きが変わっています」
「どう変わりましたか」
「昨日は霧に触れながら住人に声をかけていた。今日は、霧に触れる前に、まず住人の顔を見ています」
セシリアが双眼鏡を受け取る。
「一日で、変わった」
「ななみという人の動きを見て、自分のやり方を調整しているみたいです」
セシリアは、しばらくリリカを見ていた。
「吸収が早い」
「はい。でも」
「でも?」
「感情が先に動いています。論理より先に」
「それが、あの子の強さです」
「弱さにもなりませんか」
「なります」
セシリアは、そこで一度肯定した。
「でも、あの強さは論理では出ない」
ユウリは少し考える。
「アムネシアで、そういう人を見てきましたか」
「見てきました」
「どんな人でしたか」
セシリアは少しだけ目を伏せた。
「いおりが、そういう子でした」
ユウリが双眼鏡を下ろす。
「そうですか」
「だから、リリカという子がいおりに会いに行くのは、自然なことだと思っています。似ている部分があるから、引き合う」
「ななみという人は?」
セシリアは、今度はななみの方を見る。
「あの子は、違う種類の強さを持っています」
「どんな種類ですか」
「感情を制御することで精度を上げる強さです」
「それは悪いことですか」
「いいえ。でも、制御しすぎると届かなくなる」
セシリアは報告書で読んだ数行以上のものを、もう感じ取っていた。
「あの子の課題は、そこだと思います」
ユウリは再び双眼鏡を向ける。
「いおりに会えば、変わりますか」
「変わると思います」
「なぜ」
「いおりは、そういう子だから」
その答えは、理屈というより確信に近かった。
しばらくして、ユウリが不意に訊いた。
「セシリアさん」
「何ですか」
「いおりに、会いたいですか」
セシリアはすぐには答えなかった。
遠くの景色を見るみたいに、少しだけ目を細める。
「会いたいです」
「でも、会いに行かない」
「今は、まだです」
「いつなら」
セシリアは、ゆっくり言った。
「あの子が、必要としてくれた時に」
ユウリは双眼鏡をしまう。
「セシリアさんらしいですね」
「そうですか」
「自分の都合で動かない」
セシリアは、小さく息を吐いた。
「あの子には、十分すぎるほど迷惑をかけましたから」
ユウリはその言葉には触れなかった。
ただ、セシリアの隣から動かなかった。
数日後、ユウリは通信の準備を始めた。
必要な記録を確認し、接点を洗い出し、どこから言葉を入れれば届くかを考える。
その報告を、セシリアにした。
「準備できました」
「何を言うつもりですか」
「人願のことを」
「具体的には」
ユウリは、言葉をその場で整えるようにゆっくり答えた。
「後悔を動機にしている間は、本当の力は出ないということを」
「どう伝えますか」
「いおりを取り戻したいのか」
ユウリは一度言葉を切る。
「それとも、いおりが愛した今を守りたいのか。その違いを伝えます」
「私が言ったことを、そのまま?」
「言葉は変えます」
ユウリは首を振る。
「私の言葉で言わないと、届かないと思うので」
セシリアは、それを聞いて小さく頷いた。
「ユウリ」
「何ですか」
「あなたに頼んで、良かった」
ユウリは少し間を置いた。
それから、いつもの逃げ道を半分だけ残した声で言う。
「セシリアさんが言うから、やります」
「それだけですか」
「……いおりに、いつか会えると思っているから、やります」
「いつか、会えると思っていますか」
「思っています」
今度は、答えが早かった。
「セシリアさんが、感じると言うなら」
セシリアはまた、小さく笑った。
その夜、二人は簡単な食事をとった。
ユウリが、どこからかラスクを取り出してくる。
「どこで見つけたんですか」
「街で」
「また買ってきたんですか」
「好きなので」
セシリアは一枚受け取った。
「ユウリ」
「何ですか」
「ありがとう。一緒にいてくれて」
ユウリは少しだけ黙った。
それから、いつもの答えを返す。
「嫌いじゃないので」
「それだけですか」
長い沈黙があった。
ユウリはラスクを持ったまま、前を向いている。
けれど、今夜はそれだけでは終わらなかった。
「……セシリアさんがいると、落ち着くので」
セシリアが目を瞬かせる。
「珍しいことを言いますね」
「一回だけです。聞かなかったことにしてください」
「善処します」
「聞いてますよね」
「はい」
ユウリはそれ以上何も言わず、前を向いたままラスクをかじった。
しばらくしてから、今度はユウリの方から別の話題を出す。
「セシリアさん」
「何ですか」
「リナのこと、どのくらい知っていますか」
「よく知っています」
セシリアは迷わず答えた。
「アムネシアで共に戦った仲間です」
「今は」
「各地を旅して、綻びを縫っているはずです」
少しだけ間を置いて、付け加える。
「三輪車で」
ユウリが、珍しくその単語だけを繰り返した。
「三輪車で」
「ええ」
「なぜ三輪車なんですか」
「本人にしか分からないことがあります」
ユウリは、少し考える。
「リナが地図をつけていると聞きました」
「知っています。正確で、丁寧で、諦めの悪い地図です。あの子らしい」
「黒い印の場所も?」
セシリアは窓の外を見る。
「知っています。あそこは、まだ誰にも縫えない」
「リナにも?」
「リナにも」
セシリアは静かに答えた。
「でも、リナはそこに印をつけて、待っています」
「何を待っているんですか」
「縫える人が来ることを」
ユウリはラスクを一枚取り出す。
「来ると思いますか」
「来ると思います」
「根拠は」
「感じるので」
ユウリは、そこで少しだけ口元を動かした。
「セシリアさんって、感じるの多いですね」
「大事なことは、感じるものです」
「アムネシアの元管理者がそれを言いますか」
「元管理者です」
今度こそ、ユウリはほんの少しだけ笑った。
すずはその変化を、見逃さずに記録している。
すずの記録には、最後にこう残っている。
「セシリアという人物は、記録中に何度もいおりの名前を出した。
その時だけ、声がわずかに柔らかくなった。
記録者注:大切な人のことを話す時、声が変わる人がいる。セシリアさんも、そういう人だった」
もかが、その横に書き足している。
「セシリアさんって、いおりちゃんのこと、本当に大切なんだね」
すずは、すぐに答えていた。
「はい。それだけは、最初から分かっていました」
もかが訊く。
「すずちゃん、なんで最初から分かったの」
すずは少しだけ考え、それから記した。
「匂いで、ではないですが。声で、分かりました」
もかは、その一文を読んで少し黙ったあと、また訊いている。
「ユウリちゃん、結局リリカさんに通信したんだよね」
すずの返答は短かった。
「はい」
そして、次の頁へ進むみたいに、こう続けている。
「次の記録で」
回想第九話:静かな観測者たち――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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