回想第八話「銀糸の通過・黒い印の場所へ」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
すずの記録には、こう残っている。
「リナとミナの記録。アムネシア崩壊後の旅より。黒い印の場所にて。記録者:すず。協力:もか」
その横に、もかが小さく書き足していた。
「この回は、聞き終わったあと、しばらく二人とも何も言えなかった」
すずは、その感想をそのまま受けている。
「それほどの記録でした」
黒い印の場所へ向かったのは、みくと別れた翌日のことだった。
地図に印をつけた時から、いつかは行かなければならないと思っていた。
けれど、リナは一人では来なかった。
一人で来ても、意味が薄いと分かっていたからだ。
必要なのは、縫う力だけではない。
そこに何が溜まり、何が滞り、何が泣いているのかを感じ取る目と手が要る。
ミナと一緒でなければ、この場所に来る意味はない。
リナはそう判断していた。
街道の脇に三輪車を止め、二人は廃墟へ続く道を歩いた。
風が、妙に冷たかった。
晴れているのに、空気だけが湿ったように重い。
近づくほど、景色の色が少しずつ鈍くなっていく。
石も、壁も、枯れた草も、どこか生気を薄く削られているように見えた。
「昨日、少し触れた時と同じ重さがします」
歩きながら、ミナが言った。
「近づくほど、重くなりますか」
リナが訊く。
「なる。でも、昨日よりずっと重い」
「昨日は表面に触れただけでしたから」
「今日は、もっと深いところに来てるってこと?」
「そうだと思います。場所が、核心に近いです」
リナは地図を開き、現在地を確かめた。
黒い印の場所は、街のさらに奥。
かつて何かの施設があったらしい、崩れかけた建物の残骸だった。
人の手が長く入っていないのが、一目で分かる。
それでも、リナの針は迷いなくここを指していた。
廃墟の前に立った瞬間、ミナの足が止まる。
「リナ」
「何ですか」
「これ、普通じゃない」
リナも、その言葉を軽くは受け取らなかった。
「どういう意味ですか」
ミナは、目の前の壁ではなく、その奥にある何かを見ているような顔で言った。
「ここまで見てきた綻びと、全然違う。重さの種類が違う」
「どう違いますか」
ミナは、少し考えてから言葉を選ぶ。
「今までの綻びは、誰か一人とか、二人とか、強い想いが一つの場所に残ってる感じだった」
「はい」
「でも、これは違う。何百人とか、何千人とか……もっとかもしれない。数えられないくらいの想いが重なってる」
リナは、静かに廃墟を見上げた。
「アムネシアで、何人の少女が戦いましたか」
ミナが、その問いにすぐ答える。
「数万人、とすずの記録にあったと思う」
「その想いが、ここへ流れ込んでいるとしたら」
ミナは壁の黒ずみを見つめた。
「崩壊してから、行き場をなくしたものが、ここに集まってきた?」
「可能性はあります」
「なんで、ここに」
リナは、少しだけ目を細めた。
「土地が引き寄せたのかもしれません。かつて、多くの人が閉じ込められていた場所へ、残された想いが戻ってきた」
ミナはゆっくりと息を吐いた。
「……触れてみます」
「無理はしないでください」
「少しだけ」
ミナが廃墟の壁に手を当てる。
触れた瞬間、その表情が変わった。
痛みではない。
けれど、それより深い何かが流れ込んできている顔だった。
目を閉じ、じっと息を止める。
壁の向こうにあるものを、ミナの感覚が一気に引き受けていく。
「ミナ」
「……大丈夫。でも、重い」
「どんな重さですか」
ミナは、壁に触れたまま答えた。
「悲しい。すごく悲しい」
それだけでは終わらなかった。
「でも、悲しいだけじゃない。誰かを想ってる。守りたかった。置いていきたくなかった。そういう気持ちが、いっぱいある」
リナは、何も挟まなかった。
ミナが続ける。
「誰かのために戦った人たちの想いが、たくさん、たくさん重なってる」
そこでようやく、ミナが手を離した。
息をつく。
それだけで、身体の芯から力が抜けていくのが分かった。
「ラヴァだった頃の私が持っていた重さと、根っこは同じだと思う」
ミナは自分の手を見る。
「でも、比べものにならないくらい大きい」
「ラヴァだった頃のミナより大きい」
「比べたら失礼なくらい、大きい」
リナは小さく頷き、針を取り出した。
「触れてみます」
「リナ」
「少しだけです」
ミナが止めるより先に、リナは針先を壁へ向けた。
触れた瞬間、右腕が反応する。
これまでの綻びとは、明らかに違う反応だった。
結晶化した右腕が急速に光を帯び、内部から震えるような振動が走る。
針が、まるで何か巨大な流れに呑まれかけているように微かに軋んだ。
「リナ!」
「大丈夫です」
声は落ち着いていた。
でも、顔色は明らかに違った。
「大丈夫じゃない、顔が」
「少し……待ってください」
リナは針を動かそうとする。
だが、動かない。
いや、正確には動かせない。
縫い始める以前のところで、何かに押し返されて止まる。
針は届いているのに、手順が成立しない。
縫えない。
その感覚は、リナにとって初めてだった。
技術が足りない、という感じではない。
力が弱い、という感じでもない。
もっと根本的に、この場所は「縫う」という行為を拒んでいる。
「リナ、離して」
ミナがすぐに腕を取る。
リナも無理を続けなかった。
針を壁から離す。
その瞬間、右腕の光がすっと弱まった。
けれど、結晶化した境目は、さっきよりわずかに広がっていた。
ミナの顔が強張る。
「リナ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないって言ってるの」
「少し進みました。右腕の結晶化が」
リナは事実だけを述べた。
「でも、止まっています。今は」
ミナはその右腕を見たまま、すぐには何も言えなかった。
リナが針をしまう。
「縫えませんでした」
「……うん」
「初めてです」
「うん」
「技術の問題ではありません。規模が、私の届く範囲を超えています」
ミナは、静かに首を振った。
「私も、無理だったと思う」
「ミナの力でも?」
「ラヴァだった頃の全部を使っても、表面を揺らすことすらできなかったと思う」
二人は廃墟の前に立っていた。
風が吹く。
ひび割れた壁が、小さく軋む。
何もしていないのに、そこにあるだけで世界の側が削られていくような場所だった。
しばらくして、ミナが言った。
「これ、このままにしておいていいんでしょうか」
「よくないと思います」
リナの返答は迷いがなかった。
「臨界点、ってあると思う?」
「あると思います」
「どこかで、溢れる?」
「はい。溢れた時は、これまで見てきた綻びとは比べものにならない規模のレイヤーになるはずです」
ミナが空を見上げた。
「止められる人、いるのかな」
「いると思います」
「なぜ」
リナは、黒い印の場所をもう一度見た。
「いなければ、記録する意味がないので」
ミナが少し笑う。
笑ったというより、呆れと救いが半分ずつ混じった顔だった。
「リナって、そういうとこあるよね」
「どういうところですか」
「信じてるから動く。動くから、残す」
「当然のことです」
「当然じゃないよ」
ミナは、まだ少し白い顔のまま言う。
「縫えなかったのに、諦めてない」
「縫えないことと、諦めることは違います」
「どう違うの」
「縫えないのは、今日の話です」
リナは静かに答えた。
「誰かが縫えるかどうかは、これからの話です」
ミナは、廃墟を見た。
「その人たちって、どんな人だろう」
「分かりません」
リナはそこで一拍置いた。
「でも、来ると思います」
「どこから来るの」
「どこからでも。必要な人は、必要な時に来るものだと思っています」
ミナは少し考えてから、ぽつりと訊いた。
「リナって、いつからそんなふうに考えるようになったの?」
リナは少しだけ目を伏せる。
「ミナと旅をするようになってからです」
「私と?」
「はい」
「なんで?」
「ミナは、来ると思っていなかった場所に来てくれました」
リナは真っ直ぐに答える。
「そして、触れられないと思っていたものに触れた。
だから、来ると思っていなかった人が来ることも、あると思えるようになりました」
ミナは、自分の手を見た。
さっきまで壁に触れていた手。
熱を壊すためではなく、感じ取るために使った手。
「私が、そう思わせたの」
「はい」
ミナは少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう」
「お礼は不要です」
「でも、言いたいから言う」
リナは返さなかった。
その代わりに地図を開き、黒い印の横に小さな文字を書き加えた。
来る人へ。
ここに大きな綻びがあります。
私たちには縫えませんでした。
でも、縫える人が来ると思っています。
待っています。
「何を書いたの?」
ミナが覗き込む。
「来た人へのメモです」
ミナは、その文字を目で追った。
「待っています、って書いたんだ」
「はい」
「リナが待ってるの?」
「地図が、待っています」
「同じことじゃないの?」
「違います」
「似てるよ」
リナは地図を閉じた。
「帰りましょう」
「うん」
「みくに、また会いに来ます」
「うん」
「その前に、もう少し力をつけます」
「いつになるかな」
「分かりません」
リナは少しだけ前を見た。
「でも、続けます」
ミナが三輪車の後ろに乗る。
リナが漕ぎ始める。
廃墟は、少しずつ遠ざかっていった。
でも、黒い印は地図の中に残る。
まだ誰にも処理できない場所として。
そして、いつか来る誰かへ向けた、小さな待機点として。
すずの記録には、最後にこう残っている。
「リナの右腕の結晶化が、この日わずかに進んだ。リナは特に言及しなかった。
ミナもその場では言及しなかったが、この後しばらく、会話の切れ目ごとにリナの右腕を見るようになった。
記録者注:この点を残すか迷ったが、残すことにした。
また、この綻びが後に消えたのは、『縫った』からではなく、『受け取った』からだと記録する。
当時のリナが縫えなかったのは、力の不足だけではなく、方法そのものが違っていた可能性が高い」
もかが、その記録のあとに書き足している。
「残して正解だよ、すずちゃん」
すずは、短く答えていた。
「そう思いました。だから残しました」
少し間があってから、もかがまた訊く。
「ねえ、次の記録は誰の話?」
すずは、記録帳を閉じながら答えた。
「別の視点から、この時期を見ていた人たちの話です」
「どんな人たち?」
「ユウリさんと、セシリアさんです」
もかが少し目を見開く。
「あの二人が、見てたんだ」
すずは静かに頷いた。
「遠くから、ずっと」
回想第八話:銀糸の通過・黒い印の場所へ――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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