回想第四話「記録者の再起動」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
記録者は、アムネシアを出てから三日間、何ひとつ記録できなかった。
見るものが多すぎたのだ。
空が広かった。風が冷たかった。草の匂いがした。
遠くで人が笑っていた。朝と夜で、世界の色が変わった。
アムネシアの中では、記録すべきものは決まっていた。
何を見て、何を残し、何を切り捨てるか。
それは最初から整理され、管理され、与えられていた。
でも、外には境界がなかった。
どこを向いても、何かがある。何もかもが、記録するに値するように見えてしまう。
だから逆に、すずは何も選べなくなっていた。
そんな三日目の午後、もかが言った。
「すずちゃん、記録しないの?」
すずは顔を上げた。
「何を」
「全部」
「全部、とは」
「これからのこと。これまでのこと。みんなのこと」
もかは、お菓子を片手に持ったまま真剣な顔をしていた。
お菓子を持っているのに、驚くほど真剣だった。
すずは少しだけ黙った。
「記録する必要がありますか」
「あると思う」
「理由は」
もかは、少しだけ考えるように瞬きをしてから言った。
「すずちゃんが記録しないと、誰かの匂いが消えちゃうから」
すずは、もかを見た。
その言葉は、理屈としては曖昧だった。
でも、不思議と軽くは聞こえなかった。
アムネシアを出てから、すずは何もしていなかった。
正確には、何もできなかった。
アムネシアの中では、すずには役割があった。
記録者として、観測者として、見たものを残す。
それが、すずがそこにいる理由だった。
けれど外に出た瞬間、その役割は急に形を失った。
あまりにも広くて。あまりにも雑多で。
何を記録すればいいのか、分からなくなった。
「すずちゃん」
もかが、すずの顔を覗き込む。
「何ですか」
「難しい顔してる」
「考えていました」
「何を」
「何を記録すべきか」
「全部でいいんじゃない?」
「全部は無理です」
「どうして?」
「情報量が多すぎます。取捨選択が必要です」
もかは、お菓子をひとつ口に入れてから、また考えた。
「じゃあ、大事なものだけ」
「何が大事かの判断基準がありません」
「あるよ」
「何ですか」
「匂い」
すずが少しだけ首を傾ける。
「匂い?」
「うん。大事なものは、いい匂いがする」
「それは、もかの基準では」
「すずちゃんにも、あると思う」
「私には、もかほどの嗅覚はありません」
「嗅覚じゃなくてもいいよ」
もかは、今度はお菓子を食べずに言った。
「大事だって感じる何か。すずちゃんにも、きっとある」
すずは答えなかった。
けれど、その言葉は残った。
うまく整理できないまま、胸のどこかに引っかかった。
その夜、すずは一人で外に出た。
空を見上げる。
星があった。
アムネシアの中でも、天窓から星は見えた。
けれど、あの時の星は記録対象だった。
光度、位置、継続時間。見た瞬間に分類されるものだった。
今は違う。
今のすずは、ただ星を見ていた。
そのことが、妙に新鮮だった。
見ることと、記録することは違う。
アムネシアの中では、その二つはほとんど同じ意味だった。
見ることが、記録することだった。記録するために、見ていた。
でも外では、順番が逆になる。
先に、見る。
記録は、そのあとでいい。
そう思えた瞬間、胸の奥にあった固いものが、少しだけほどけた。
「すずちゃん」
背後から声がした。
振り返ると、もかがいた。
やっぱりお菓子を持っていた。
「何ですか」
「一人で来たから、持ってきた」
「ありがとうございます」
「食べる?」
すずは少しだけ迷ってから答えた。
「……少しだけ」
もかが隣に座る。
二人で同じ空を見上げた。
しばらく何も言わない時間があった。
でも、その沈黙は重くなかった。
「どうだった?」
もかが訊く。
「何がですか」
「外に出て」
すずは少し考えてから答えた。
「広い、と思いました」
「それだけ?」
「あと」
すずは星を見たまま続けた。
「記録することと、見ることは、違うと気づきました」
もかが、小さく微笑む。
「すずちゃんらしい気づき方」
「おかしいですか」
「おかしくないよ。すずちゃんらしいって言ったの」
すずは、受け取ったお菓子をひとくち食べた。
甘かった。
その甘ささえ、以前のすずなら、味覚情報として処理していたのかもしれない。
今は、ただ甘いと思った。
「もか」
「何?」
「記録を、続けようと思います」
もかはすぐに頷いた。
「うん」
「ただし、以前と同じやり方ではありません」
「どう違うの?」
「記録のために見るのではなく、見たものを記録します」
もかは少し考えて、それから笑った。
「難しいことを、簡単そうに言うね」
「簡単ではありません」
「でも、できると思う」
「根拠は」
「すずちゃんが、今、ちゃんと空を見てるから」
すずはまた空を見上げた。
さっきより星が増えたわけではない。
でも、見えている星は確かに増えた気がした。
「もか」
「何?」
「最初の記録を、何にすればいいか分かりました」
「何?」
すずは少しだけ間を置いた。
「これです」
「今のこと?」
「はい」
「今夜のこと。もかが来て、お菓子をくれて、一緒に空を見たこと」
もかが、目を丸くする。
「それ、記録する価値ある?」
「あります」
「なんで」
「大事だと感じたからです」
もかは、しばらくすずを見ていた。
それから、ふっと表情を緩めた。
「すずちゃん、ちょっと変わったね」
「変わりましたか」
「うん。でも、いい方に」
すずは、その言葉には答えなかった。
代わりに、頭の中で静かに記録を始める。
アムネシアを出て三日目の夜。もかと二人で空を見た。
お菓子は甘かった。星が多かった。
それが、再起動後の最初の記録になった。
翌朝、すずはもかに告げた。
「記録を続けます」
「急に本格的だね」
「名前も決めました」
「名前?」
「『明日を愛するための物語』とします」
もかが少し笑う。
「長い名前ですね」
「正確な名前です」
「どんなことを記録するの?」
すずは迷わず答えた。
「みんなのこと。外の世界で起きること。これから出会うこと。失われたことと、続いていくこと」
「うん」
「いおりたちのことも、記録します」
もかが頷く。
「ユウリちゃんたちのことも?」
「はい」
少しだけ間を置いて、すずは続けた。
「あと、もかのことも」
もかが目をぱちぱちさせる。
「私のこと?」
「はい」
「なんで?」
「もかの記録は、残しておく価値があります」
「どんな価値?」
「今は、まだ正確には分かりません」
すずは正直に言った。
「でも、役に立つ気がします」
もかは照れたように笑った。
「……ありがとう」
「お礼は不要です」
「でも言いたい」
「では、受け取ります」
もかが、また笑う。
その笑いにつられるように、すずの口元も少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
確認する前に、もかが次の質問をしたので、判定はできなかった。
「じゃあ、どこから記録する?」
「今日からです」
「今日の何から?」
「もかが起きてきた時の顔から」
「それは記録しないでほしい」
「なぜですか」
「寝起きだったから」
「記録的価値があります」
「ないです」
「あります」
「ないです」
すずは、静かに記録帳を開いた。
「記録します」
「すずちゃん」
「もう記録済みです」
もかが笑いながら抗議する。
すずは、その抗議も記録した。
記録とは、こういうものでもいいのだと、すずは思った。
誰かを測るためではなく、失わないために残すこと。
それなら、もう一度始められる。
すずは、記録帳の最初のページをめくった。
まずは、あの頃の話からにしよう。
今へつながる、失われた時間と、失われなかった想いから。
もかが、横から記録帳を覗き込む。
「次は誰の記録をするの?」
「いおりの周りにいた子たちを、順番に」
「どの子から?」
すずは少し考えた。
そして、静かに答える。
「まずは、ゆめの記録から」
もかの表情が、少しだけ変わる。
「ゆめちゃんの?」
「はい」
「どうして最初がゆめちゃんなの?」
「いおりが記憶を失ってからも、ずっとそばにいた時間を知る必要があるからです」
もかは、お菓子の袋を膝の上に置いた。
「ゆめちゃんから直接聞いたの?」
「はい。話してくれました」
「……そっか」
もかは小さく息をつく。
「ゆめちゃんって、あの頃も今も、ずっといおりちゃんのそばにいるんだね」
「そうです」
「いおりちゃんが覚えていない時間も、ゆめちゃんは全部覚えてるんだよね」
「はい」
もかはしばらく黙っていた。
それから、今度は冗談めかさず、静かに言った。
「じゃあ、その話から聞かせて」
すずは、記録帳の次のページを開く。
白い紙の上に、次の物語が始まる余白がある。
「では、始めます」
回想第四話:記録者の再起動――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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