第二十話「明日のための戦記」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
別れは、霧が晴れた翌朝に来た。
あれほど濃かった空気は嘘みたいに澄み、村の上には静かな青空が広がっていた。
けれど、だからこそ出発の気配ははっきりしていた。
ここに留まり続けることはできない。
管理局からの増援が到着し、後処理の引き継ぎも始まっている。
次の任務の連絡も、もう入っていた。
守れたから終わり、ではない。
守れたからこそ、また次へ行かなければならない。
ななみは荷物をまとめながら、そのことを淡々と確認していた。
感傷に浸っている暇はない。
そう自分に言い聞かせるように、装備を一つずつ点検する。
それでも、昨夜の感触だけは消えなかった。
四人で手を繋いだこと。いおりの六本指の左手を、自分の手で包んだこと。
そして、記憶ではなくもっと深いところにある何かが、たしかにあの場で応えたこと。
もう、記憶が戻ることだけを願ってはいなかった。
戻らなくてもいい、とは思わない。
けれど、戻らなければ意味がない、とも、もう思っていない。
今のいおりがここにいる。
それを受け取れたことのほうが、ななみにとっては大きかった。
扉が、軽く叩かれた。
「ななみさん」
リリカの声だった。
「開いています」
扉が開く。リリカはもう出発できる格好をしていた。
荷物を背負っているのに、部屋へ入ってきてすぐには喋らなかった。
いったん窓の外を見る。
朝の光の中で、村が静かに息をしている。
それから、ななみのほうを向いた。
「準備、できました?」
「できています」
「じゃあ、いおりちゃんたちに挨拶してから行きましょう」
「はい」
少しの沈黙のあと、リリカが言う。
「ななみさん、またここに来ますか」
ななみは答える前に、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
「来ます」
「即答ですね」
「約束したので」
リリカが、少しだけ笑う。
「そっか」
「リリカさんは」
「私も来ます」
「約束は」
「……まだしてません」
「してきてください」
「今からですか」
「今からです」
その真顔がおかしくて、リリカは声を立てずに笑った。
「ななみさんって、そういうところ、ほんとに几帳面ですよね」
「当然のことです」
「そういうところ、ちょっとかわいいです」
「評価は不要です」
「否定が弱いですね、今日は」
ななみは答えず、先に扉へ向かった。
けれど、その背中が少しだけ急いでいることに、リリカは気づいていた。
広場には、いおりとゆめがいた。
朝の光の中で、二人は並んで立っている。
それだけの光景なのに、ななみは数歩手前で足を止めた。
いおりがこちらに気づき、手を振る。
白い手袋をした左手だった。
ななみはその手を見る。
あの手袋の下に、六本指の左手がある。結晶化し、傷跡のように、証のように残った手だ。
いおりはそれを誇るでも隠すでもなく、ただ自分の一部としてそこに置いている。
ななみは知っている。
知ったうえで、今ここに立っている。
それで十分だと思えた。
「行くんですね」
いおりが言った。
「はい。また来ます」
「約束ですか」
「約束です」
いおりが、少し目を細める。
「ななみさん、その言い方、もう何回目でしたっけ」
「三回目です」
「ちゃんと数えてたんですね」
「守るつもりの約束は、数えておくべきなので」
「なんか、ななみさんらしい」
いおりはそう言って、やわらかく笑った。
その顔を見て、ななみは思う。
今のこの顔を、ちゃんと覚えていたい。
次に来る時にはまた違う表情をしているかもしれない。
何かを思い出しているかもしれないし、思い出していないかもしれない。
でも、今日ここで見たこの笑い方は、今しかない。
リリカが一歩前に出る。
「いおりちゃん」
「はい」
「一つだけ、言っていい?」
「はい」
リリカは、まっすぐにいおりの目を見る。
ふざけた調子に見えて、その実、息を整えてから言葉を選んでいるのが分かった。
「また言うね」
「何をですか」
「ばか」
いおりが目を丸くした。
「またですか」
「またです。一昨日も言ったけど、今日も言う。
自分のことを後回しにして、誰かのために全部使って。そういうところ、ほんとにばか」
いおりは困ったように笑った。
「怒られてるのか、褒められてるのか、難しいです」
「両方です」
リリカは少しだけ声を落とす。
「でもね」
それから続けた。
「そういうところが、やっぱり好き。友達として、すごく誇りに思ってる」
いおりは、すぐには返事をしなかった。
覚えていない。過去の全部は、今も戻っていない。
でも、目の前の言葉が本気で、自分に向けられていることは分かった。
「……ありがとう、ございます」
「敬語」
リリカがすぐに言う。
「え」
「友達なんだから、敬語やめて」
「でも、まだちょっと」
「二回も“ばか”って言わせたんだから、それくらいは譲って」
いおりが、小さく吹き出した。
「理屈がよく分からない」
「分からなくていいです」
「……ありがとう、リリカ」
その瞬間、リリカの表情がほどけた。
「よし」
満足そうに頷く。目の縁は少し赤い。
けれど、今は泣かないと決めているみたいに、しっかり笑っていた。
ゆめが、そのやり取りを静かに見ていた。
覚えておこう、と思う。いおりが「リリカ」と呼んだ瞬間を。
失われたものの代わりではなく、新しく置かれたものとして、この朝のことを。
やがて、ゆめがななみのほうへ歩み寄った。
「一つだけ」
「何ですか」
「いおりは、記憶が戻らなくても大丈夫です」
ななみは、ゆめを見る。
その声音には、慰めでも、予防線でもない、はっきりした確信があった。
「今のいおりは、今のいおりとして、ちゃんとここにいます」
ゆめは続ける。
「記憶がなくても、あなたたちが来てくれたことは残ります。形は違っても、ちゃんと残る」
「はい」
「だから、また来てください」
ゆめの瞳が、静かにななみを映す。
「いおりが待っています」
ほんの一拍置いて、さらに言った。
「私も、待っています」
ななみは短く息を吸った。
この少女がどういう存在なのか、言葉だけで説明するのは難しい。
全部を覚えていて、全部を受け止め、それでもいおりのそばにいようとする人だ。
眩しい、と、ななみは思う。
たぶん、自分にはまだそこまで徹底してはなれないから。
「ゆめさん」
「何ですか」
「いおりを、よろしくお願いします」
「言われなくても」
ゆめはそう返してから、少しだけ目を細めた。
「でも、言ってくれてありがとうございます」
出発の時間は、思っていたよりあっさり来た。
村を出てしばらく歩いたところで、リリカが立ち止まる。
振り返ると、朝の光の中に村が小さく見えた。
広場のあたりに、二つの人影がある。いおりとゆめだろう。
まだこちらを見ているのかもしれないし、もう戻るところかもしれない。
「ななみさん」
「何ですか」
「来て、よかったです」
「はい」
「最初は、取り戻しに来たつもりでした」
「そうですね」
「でも今は違います」
リリカはポケットから琥珀色の小石を取り出した。
朝日に透かすと、その中に閉じ込められたような光が揺れる。
「また会いに来たい、って思ってる」
ななみは、その石を見る。
「それが正しい気がします」
リリカが小さく頷く。
「いおりちゃん、覚えてなかったけど、変わってなかった」
「はい」
「ばかなところも、誰かのために笑えるところも、変わってなかった」
「そうですね」
「よかった」
リリカは石をポケットに戻す。
その上から、形を確かめるようにそっと手を当てた。
いつか返せる日が来るかもしれない。
でも今はまだ持っていよう、と思う。
返すためではなく、また会いに行くための約束として。
二人は、また歩き出した。
その背中を、いおりはゆめと並んで見送っていた。
「行っちゃったね」
「そうだね」
「また来てくれるかな」
「来ます」
ゆめが即答する。
「約束しましたから」
いおりが少し笑う。
「ななみさんって、約束を守る人なんだね」
「守ります、必ず」
「ゆめ、知ってるんだ」
「知ってるよ」
いおりは空を見上げた。
朝の風が少し温かい。
「不思議な数日間だったな」
「どんなふうに?」
「覚えてないのに懐かしくて、知らないはずなのに安心できて」
いおりは言葉を探すみたいに少し間を置いた。
「なんか、ずっとこういう人たちだった気がする」
「ずっと、そういう人たちでした」
ゆめの返事は静かで、迷いがなかった。
いおりが、ゆめを見る。
「やっぱり、全部知ってるんだね」
「知ってます」
「じゃあ」
いおりは少しだけ照れたように笑った。
「教えてくれる? 少しずつでいいから」
ゆめは、その顔を見つめる。
「教えるよ」
「少しずつ?」
「少しずつね」
「ありがとう」
「お礼はあとで」
「またそれ言う」
「いつも本気だから」
いおりが笑い、ゆめも笑った。
南東からの風が吹く。
遠ざかっていく二人の背を、やわらかく押すような風だった。
その夜。
どこか遠くの部屋で、すずは記録を続けていた。
赤いRECのランプが、静かに点っている。
小さな機材の駆動音だけが、部屋の空気を細く震わせていた。
隣では、もかがお菓子の袋を開けながら、半分飽きた声で言う。
「まだ終わらないの?」
「終わりません」
すずは記録から目を離さずに答えた。
「始まったばかりなので」
「何が始まったの」
すずは少しだけ考える。
それから、言った。
「明日を愛するための物語が」
もかが、きょとんとする。
「難しいこと言うね」
「難しくないです」
すずは淡々と続けた。
「続く、ということです」
「続くって、そんなに大事?」
「大事です」
今度の答えは早かった。
「終わらなかったこと。途切れなかったこと。
また会いに行けること。そういうものが、たぶん、明日を作るので」
もかは少し黙ってから、手にしていたお菓子を差し出した。
「食べる?」
「……少しだけ」
すずが受け取る。
もかが目を丸くした。
「今の、珍しい」
「何がですか」
「すずちゃんが、素直に受け取った」
「変わったのかもしれません」
「いい意味で?」
すずは手の中のお菓子を見て、それから小さく頷いた。
「いい意味で、だと思います」
もかが笑う。
その笑いにつられるみたいに、すずの口元もほんの少しだけ動いた。
RECのランプは、変わらず点り続けている。
記録は続く。物語も続く。
明日へ向かう足取りも、きっと続いていく。
戦いの記録でありながら、それはもう、ただ傷を数えるためのものではなかった。
失ったものを悼み、それでもまた会いに行くための、明日への手紙みたいなものになっていた。
それで十分だと、すずは思う。
十分だから、続けられる。
第二十話:明日のための戦記――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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