第十八話「夜明け前のいおり」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
目が覚めたのは、空がまだ夜の名前を残している時刻だった。
何かに呼ばれた気がした。
声だったのか、風だったのか、それとも自分の身体の奥底に沈んでいた記憶になり損ねたものだったのか、いおりには分からない。
ただ、気づいた時にはもう、暗がりの中で静かに目を開いていた。
部屋の空気は冷たく、深く沈んでいる。
木枠の窓の向こうでは、地平の端だけがわずかに白み始めていた。
夜と朝のあいだにだけある、青く薄い時間だった。
いおりはしばらく仰向けのまま、天井の木目を見つめていた。
眠気はもう戻ってこない。心だけが、妙に澄んでいる。
隣から、かすかな気配が届く。ゆめが眠っている。
静かな寝息。衣擦れの小さな音。穏やかな呼吸の間隔。
その全部が、この部屋がまだ壊れていないことを教えてくれていた。
いおりはその気配を確かめてから、音を立てないようにゆっくり身体を起こした。
左手が、少しだけ疼いていた。
痛みと呼ぶには曖昧だった。
熱でもなく、痺れでもなく、もっと深いところで、骨の芯に小さな圧力がかかっているような感覚だった。
何かがそこにいて、黙ったまま存在を主張している。
いおりは白い手袋に視線を落とした。
左手だけ、いつもこの特注の手袋をしている。
理由は知っている。ゆめが教えてくれたからだ。
けれど、知っていることと、感じることは違う。
頭で理解した事実は、身体に触れた瞬間にまるで別の意味を持つ。
いおりは右手を伸ばし、少しためらってから、ゆっくりと手袋を外した。
布の擦れる音が、ひどく大きく聞こえた。
薄闇の中に、六本の指が現れる。
本来の並びに割り込むように存在している六本目の指は、他の指よりわずかに青みを帯び、硬質な光を宿していた。
肌でありながら、どこか結晶そのもののようでもある。
右手の指先で、そっと触れる。体温はある。生きている手だ。
それなのに、表面にはひんやりとした異質さが残っていた。
恐ろしいとは思わなかった。
ただ、不思議だった。
この歪な左手が、かつて自分の知らないどこかで、確かに誰かのために使われていたということ。
この形になるまで、何かを守ろうとしていたということ。
その事実だけが、記憶ではなく傷跡として、今の自分の上に残っていること。
覚えていない。何ひとつ、思い出せない。
それなのに六本目の指を見つめていると、胸の奥の空白が静かに揺れた。
悲しい、というのとも違う。後悔しているわけでもない。
もっと言葉の届かないところで、忘れられた誰かがこちらを見ているような感覚だった。
そしてその誰かは、たぶん昔の自分だ。
こんなふうに結晶に蝕まれるまで戦ったのに。
こんな身体になるまで、大切な誰かのために自分を削ったのに。
その記憶のすべてを、今の自分は持っていない。
それが、少しだけ申し訳なかった。
過去の自分に対して。
アムネシアという場所で、たしかに生きて、たしかに苦しみ、たしかに選んだはずの「私」に対して。
いおりは左手を胸の前へ持っていった。
六本の指が、薄い寝衣越しに心臓の鼓動に触れる。
とく、とく、とく。
身体が、何かを知っている。
記録としての記憶ではなく、もっと曖昧で、もっと消えにくいかたちで。
言葉にはならないけれど、確かにそこにあるものとして。
昨夜のことを思い出す。
みんなで食べたピザ。
形はいびつで、端は少し焦げていて、チーズも思ったほど伸びなかった。
それでも、おいしかった。
いや。味より先に思い出すのは、温かかった、という感覚だった。
焼きたての料理が温かいのは当然だ。
でも、あの時いおりの胸に広がっていた熱は、きっとそれだけではない。
誰かと同じものを囲むこと。誰かが笑っていて、自分もそこにいていいと思えること。
あの食卓には、目には見えない別の温度があった。
そして、食べながら確かに思ったのだ。
――誰かが、これを食べたかったと、ずっと言っていた気がする。
誰だったのだろう。
顔は浮かばない。名前も、声も、思い出せない。
ただ、その「誰か」がひどく嬉しそうにしていた気配だけが、身体のどこかに残っている。
それは記憶ではないのかもしれない。
夢の残骸かもしれないし、消えた記録のあとに残った感情の層なのかもしれない。
けれど、偽物ではない気がした。
いおりはそっと目を閉じた。
暗がりの向こうに、ぼんやりした温度だけがある。
ゆめが前に言っていた。
――覚えていなくても、大丈夫。身体が知ってることは、消えないから。
その言葉が、今になって胸の中で静かに形を変えていく。
消えない。そうだ。
記憶はなくなっても、事実はなくならない。
この手が、その証拠だ。
覚えていなくても、私はそこにいた。覚えていなくても、私は戦った。
覚えていなくても、私は誰かを守ろうとした。
そのことだけは、もう疑わなくていい。
そう思えた瞬間、胸の奥にずっと沈んでいた重さが、夜明けの霧みたいに少しだけ薄くなった。
いおりは、ななみのことを考えた。
従姉妹。ゆめから聞いた、その関係の名前を心の中でゆっくりなぞる。
ななみの口調はいつも整っていて、隙がない。
何を言う時も冷静で、感情を外に漏らさないようにしているのが分かる。
でも、その張り詰め方は、いおりにはどこか痛々しく見えた。
守れなかった、と彼女は言った。
あの時の声を思い出す。
抑えていたものが、ほんの一瞬だけひび割れたような声だった。
でも、違う、といおりは思う。
記憶はない。けれど、この左手を見ていると確信できる。
昔の自分は、ただ守られるだけの存在ではなかったはずだ。
自分で選んで。自分で踏み出して。
その結果として、この手になった。
なら、それは自分の選択の痕跡だ。
ななみが自分を責め続けるための理由にはならない。
そう伝えたかった。昨夜も伝えようとした。
でも、うまく言葉にならなかった。
「これは私が選んだことです」
それは事実だった。
けれど、本当に届けたかったものは、もっと別のところにある。
見つけてくれて、嬉しかった。諦めないでここまで来てくれて、嬉しかった。
私のためにそんなに長く歩き続けてくれた人がいることが、嬉しかった。
その一番大事なところが、まだななみには届いていない気がする。
次に会った時には、もう少しちゃんと言えるだろうか。
あの生真面目な人が、自分を責めるためではなく、ここまで来てよかったと思えるように。
いおりは小さく息を吐いた。
今度は、リリカのことを考える。
「ばか」
昨夜、そう言われた。
笑っていたのに、あの声は少しだけ泣きそうだった。
怒っているようで、許しているようで、どうしようもなく大事に思っている声だった。
――自分のことを全部後回しにして、誰かのために全部使って。ばか。
その言葉が、まだ胸の中に残っている。
幼馴染。幼い頃から一番仲が良かったと、ゆめは言っていた。
覚えていない。砂場で何を作ったのか。
どんなふうに笑い合ったのか。何を約束したのか。
今のいおりは何も思い出せない。
それなのに、リリカはここまで来た。
琥珀色の小石を今も握りしめたまま、長い時間を越えて、自分を探し続けてきた。
過去を取り戻すためだけではない。
記憶のない今の自分まで含めて、ちゃんと見つけようとしてくれている。
その事実が、申し訳なさより先に、少しずつ温かく胸に広がっていく。
嬉しい、と思った。
何も覚えていない自分でも。昔のままではない自分でも。
それでも会いたかったと言ってくれる人がいる。
「そういうところが、やっぱり好きです」
まっすぐに言われたその言葉を思い出す。
過去の自分ではなく、今の自分を見て言ってくれた言葉だ。
それが、たまらなく嬉しかった。
怖いくらいに、嬉しかった。
それから、ゆめのことを考えた。
ゆめは、ずっと覚えていると言った。
いおりが忘れてしまった時間を、ひとつ残らず、自分の中に持ち続けている。
初めて笑った日のこと。初めて痛みに耐えた日のこと。
泣きたいのに泣かずに、星だけを見上げていた夜のこと。
いおりの過去は、ゆめの中にある。
その非対称さは、ときどき胸を刺す。
ゆめはこんなにも自分を知っているのに、自分はゆめのことをまだほとんど知らない。
けれど、そのことを不幸だとは思わなかった。
ここ最近の村での暮らしの中で、いおりは少しずつ知っている。
ゆめが困った時、ほんの少しだけ言葉の間が長くなること。
嬉しい時は目が細くなること。匂いを辿っている時の静かな集中の仕方。
いおりが無理をしそうになると、何も言わずに隣へ来ること。
それらは過去の記憶ではない。
今、この場所で、新しく知ったことだ。
そこで、いおりはふと気づく。
記憶がなくても、関係は終わらない。
過去を思い出せなくても、ここから新しく知っていくことはできる。
昨日知らなかったゆめを、今日知る。 今日知らなかった気持ちを、明日また知る。
その積み重ねがあればいい。
元通りになれなくてもいい。同じではなくてもいい。
これからの時間の中で、新しい形で重なっていければ、それで十分だ。
その考えは、暗い部屋の中で小さな灯りみたいに胸にともった。
そして、霧のことを考えた。
今日、またあそこへ向かう。
昨日の霧は完全には消えていない。ななみの地図と、リリカの匂い。
二人の力を重ねてもなお、取り切れなかったものがあった。
あの白く濁った世界の向こうに、誰かの想いがまだ滞っている。
いおりは昨夜から、ずっと気になっていた。 聞こえた気がするのだ。 声というほど明確ではない、けれど確かに「呼ばれている」と感じる何かが。
助けて、と言っているのかもしれない。見つけてほしい、と願っているのかもしれない。
ただここにいると、誰かに気づいてほしいだけなのかもしれない。
今の自分に、戦える力があるのかは分からない。
人願をどう扱っていたのかも覚えていない。
過去の自分ならできたことが、今はできないかもしれない。
それでも。
いおりは、むき出しの左手をもう一度見つめた。
この手は、誰かの痛みのために使われた手だ。誰かを見捨てたくないと願った手だ。
ならきっと、今の自分にもできることがある。
押し返すことではなく。消し去ることでもなく。
受け取ること。
悲しみがそこにあると認めること。声が届いていると伝えること。
ひとりではないと、静かに差し出すこと。
それなら、今の自分にもできるかもしれない。
記憶を失ったからこそ。
余計な形を持たずに、ただまっすぐ痛みに触れられる今の自分だからこそ。
理由は分からない。確かな根拠もない。
けれど身体の芯が、そのやり方を知っている気がした。
窓の外の藍色が、少しずつ薄まっていく。
夜明けが近づいていた。
いおりは視線を横へ向けた。
ゆめがまだ眠っている。
銀色の髪が、差し込んできた淡い光を受けてほのかにきらめいていた。
この人が、ずっとそばにいてくれた。
自分が自分だった頃も。その記憶を全部なくしてしまった後も。
変わらず隣にいてくれた。
過去の私を知っている人が、今の私の隣にいる。
それは、とてもすごいことだと思う。
今のいおりには、過去へ戻る鍵がない。
でも、ゆめが覚えていてくれる限り、自分の過去は世界から消えない。
それでいい、と今は思える。
思い出せなくても。急がなくても。
今日も明日も、一緒にいられるなら、それで十分だ。
いつかゆめの知っている自分の話を、物語を聞くみたいに少しずつ教えてもらえばいい。
そのたびに、自分はまた新しく自分になっていける気がする。
いおりは右手で手袋を取り上げ、ゆっくりと左手にはめ直した。
一本ずつ指を収めていく。六本目の指も、白いレースの下へ静かに隠れる。
外はまだ夜明け前の冷たい色をしている。
けれど、その向こうには確かに朝が来る。
いおりはもう一度横になった。
眠るためではなく、出発の時まで身体を落ち着かせるために。
怖さはある。
霧の中へ行くことが、怖くないわけではない。
でも、震えはしなかった。
ひとりじゃないから。
ななみがいる。リリカがいる。そして、ゆめがいる。
四人で行く。
それならきっと、どんな霧の中でも、もう前みたいにひとりで消えていくことはない。
北西からの風が、窓を小さく揺らした。
遠くで、ハザードレイヤーがまだ静かに息を潜めている。
その向こうにある声を思いながら、いおりはゆっくり息を吸い、そして吐いた。
受け取りに行こう、と思った。
忘れてしまった過去ではなく。
今ここで、まだ届いていない誰かの声を。
すべての始まりの、その先へ向かうために。
第十八話「夜明け前のいおり」――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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