第十七話「決戦前夜」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
決戦の前夜らしくない朝だった。
村には、焼きたてのパンの匂いがしていた。
井戸の水は冷たく、畑の葉先にはまだ露が残っていた。
空は高く、風は穏やかで、昨日あれほど村を呑み込もうとした赤い霧の気配が、嘘みたいに遠のいていた。
だからこそ、ななみは落ち着かなかった。
静かな朝ほど、壊れるときは一瞬だと知っている。
守れなかった記憶は、いつもこういう何でもない顔をして近づいてくる。
朝食が終わったあと、いおりが不意に言った。
「なんか、ピザが食べたいんですよね」
リリカが顔を上げる。
ゆめも、手を止めていおりを見た。
「ピザですか」
「はい。理由は分からないんですけど……食べなきゃいけない気がして。夢で、誰かと食べた気もするんです」
いおりは困ったように笑った。
記憶はない。けれど、感覚だけが残っていることがある。
そのことを、いおり自身ももう隠さなくなっていた。
リリカの目が、少しだけ強くなった。
「じゃあ、作りましょう」
「作れるんですか」
「作れます。たぶん」
「たぶんなんですね」
「大丈夫です。こういうのは勢いです」
ななみはそのやり取りを見ながら、黙って湯呑みを置いた。
昨夜、ようやく同じ場所に立てた気がした。
なら今日は、その続きを壊さない日にしたい。そう思った。
「材料を集めます」
ななみが言うと、リリカが振り向いた。
「手伝ってくれるんですか」
「いおりさんが食べたいと言ったので」
「優しいですね」
「違います。合理的です」
いおりが、くすっと笑った。
その小さな笑い声だけで、ななみの胸の奥の硬いものが、少しだけほどけた。
村の厨房を借りると、四人は手分けして材料を探した。
小麦粉、塩、水。油の代わりになりそうなものも見つかった。
問題はトッピングだった。
「トマトがありません」
棚を覗き込みながら、リリカが真剣な顔で言う。
「ないですね」
ゆめが静かに補足する。
「トマトなしのピザは」
ななみが言いかけると、リリカが即座に遮った。
「ピザです」
「まだ何も乗っていませんが」
「乗せればピザです」
ゆめが近くの籠に顔を寄せた。
「これは使えます。甘い匂いがします」
「こっちは?」
「少し酸味があります。煮れば、代わりになります」
「チーズは」
「少しだけあります」
「少しでもあれば十分です」
その言い方が妙に力強くて、いおりがまた笑った。
「リリカさん、今日はずいぶん強気ですね」
「今日の私は、成功する気しかしません」
「その台詞、今のうちに覚えておきます」
ななみは薪を抱えて戻ってきた。
厨房に散っている材料を見て、短く息を吐く。
「進んでいますか」
「順調です」
「順調には見えません」
「見た目です」
リリカが胸を張る。
ななみは反論しなかった。ただ、リリカの顔色を一瞬だけ確認する。
昨日より明らかに血色がいい。
それだけで、自分でも気づかないうちに詰めていた呼吸が緩んだ。
最初の問題は、生地づくりで起きた。
リリカが小麦粉を量ろうとして、盛大にこぼしたのだ。
白い粉が床に広がる。
「あ」
「リリカさん」
ななみの声が低くなる。
「大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「まだ救えます」
「床に落ちたものを救済対象に含めないでください」
ゆめが粉の広がりを見下ろした。
「かなり減りました」
「薄いピザになりますね」
いおりが言うと、リリカは即答した。
「薄くてもピザです」
ななみは何も言わず、追加の小麦粉を探しに行った。
その背中を見送りながら、いおりが小さく言う。
「やっぱり、優しいですね」
「優しくありません」
戻ってきたななみが、袋を差し出す。
「次はこぼさないでください」
「確実に努力します」
「曖昧です」
「誠実ではあります」
ななみはため息をついた。
いおりが声を立てずに笑い、ゆめの口元もわずかにやわらいだ。
生地をこねる作業は、自然と四人の分担になった。
リリカが力を入れる。ゆめが匂いと感触で具合を見る。
ななみが厚みと形を整える。そして、いおりが少し離れて見ていた。
「いおりさんも、やってみますか」
リリカが手招きする。
「私、こういうの得意じゃない気がします」
「気がするだけです。やってみないと分かりません」
「失敗したら」
「そのときは私が何とかします」
いおりは少しだけ迷ってから、右手を伸ばした。
そっと生地に触れて、恐る恐る押す。
「こう?」
「そうです。もう少しだけ、力を入れて」
「こう?」
「上手いです」
「本当に?」
「本当に」
いおりが、子どもみたいに少しだけ目を丸くした。
その表情を、ゆめが静かに見つめていた。
覚えておこう、とゆめは思った。
いおりが嬉しそうに笑った顔を。
自分の手で何かを作って、少しだけ誇らしげだった顔を。
失われなかった今として、確かに残るように。
焼く段階では、別の問題が起きた。
火が強すぎたのだ。
「焦げてきました」
ゆめが静かに告げる。
「もう少しでいけます」
「いける前に焦げています」
「でも中がまだ生で」
「外が焦げて中が生は、失敗です」
「難しいですね……」
リリカが真顔で落ち込む横に、ななみが並んだ。
火床を見て、薪の位置を少しずらし、鉄板の向きを変える。
動きに迷いがない。
「ななみさん、料理できるんですか」
いおりが尋ねる。
「最低限です」
「最低限以上に見えますけど」
「見えるだけです」
リリカが、ななみの手元を見つめた。
「ななみさんって、こういう細かいこと丁寧ですよね」
「当然のことをしているだけです」
「私はその当然が苦手なので、すごいです」
ななみは返さなかった。けれど作業の速度は少しも落ちなかった。
それが、否定しないという返事なのだと、リリカはもう知っていた。
やがて、どうにか焼き上がった。
形は少しいびつで、端はほんのり焦げている。
具は均等とは言い難く、チーズも想像したほどは伸びなかった。
しばらく四人で見つめたあと、リリカが言った。
「ピザです」
「ピザですね」
ゆめが首を傾げながら同意する。
ななみは完成品を見たまま、静かに告げた。
「……ピザです」
いおりが吹き出した。
「判定が厳しいんだか甘いんだか分かりません」
「最終的に認めたので問題ありません」
リリカが胸を張る。
いおりが一切れ取って、口に運ぶ。
噛んで、飲み込んで、それから少しだけ目を伏せた。
「……美味しいです」
「本当に?」
「本当に。すごく上手、とは言えないんですけど」
「正直ですね」
「でも、美味しいです」
いおりはもう一口食べて、それから遠くを見るような顔になった。
「温かいです」
「焼きたてですから」
リリカが言うと、いおりは首を振った。
「それだけじゃなくて。もっと別の……何か」
うまく言葉にできないまま、いおりは唇を閉じた。
その横顔を見て、ゆめがそっと言う。
「その人も、どこかで食べてると思います」
いおりが、ゆめを見る。
「そう思っていいですか」
「はい」
短い返事だった。けれど、その声には揺るがないものがあった。
いおりはもう一切れ取り、小さく言った。
「いただきます」
それは今ここにいない誰かへ向けた、静かな挨拶のようだった。
食事のあとは、村はゆっくり夜に沈んでいった。
四人は外へ出て、焚き火の前に並んで座った。
火の音が乾いた枝を弾き、暗い空にはまだ星が少し残っている。
最初は誰も話さなかった。 昨日の激しさはまだ身体に残っていた。
それでも、不思議と重さだけではなかった。
温かいものを分け合ったあとの沈黙は、傷を隠すためのものではなく、同じ場所にいることを確かめるためのものに近かった。
やがて、いおりが口を開いた。
「あの、聞いてもいいですか」
「何ですか」
ななみが応じる。
「ななみさんとリリカさんは、私のために来てくれたんですよね」
火がぱちりと鳴った。
ななみはすぐには答えなかった。リリカも黙っていた。
いおりはその沈黙から目を逸らさなかった。
「……そうです」
先に言ったのは、ななみだった。
「私もです」
リリカが続ける。
「会いたかったから、来ました」
いおりは二人を見て、それからゆめを見た。
「ゆめは、知ってたんですね」
「知ってました」
「どうして教えてくれなかったの」
「いおりが自分で感じるのを待ちたかったからです」
いおりはしばらく黙っていた。責めているわけではない。
ただ、その答えを自分の中に落としているようだった。
「私、記憶がないのに」
いおりがゆっくり言う。
「こんなに大切にしてもらって……なんだか、申し訳ないです」
「申し訳なくないです」
リリカがすぐに言った。
「でも」
「覚えていなくても、私は覚えてます。
いおりちゃんがいなくなったことも、また会いたかったことも、会えて嬉しいことも。だから十分です」
いおりが、じっとリリカを見る。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
リリカは少しだけ笑ったが、その目は赤くなりかけていた。
いおりは今度は、ななみを見る。
「ななみさんも、ありがとうございます」
ななみは少し間を置いた。
答え方を選ぶように、一度だけ視線を落とす。
「……いおりが元気でいることが、十分です」
飾りのない言葉だった。
けれど、それ以上に本当のことはなかった。
いおりは何かを言いかけて、結局言わず、静かに頷いた。
しばらくして、いおりは左手を見た。
白い手袋に包まれた手を。
「あの」
その声はさっきまでより低かった。
「この手袋の中のこと、二人は知っていますか」
ななみとリリカは、同時に顔を上げた。
「知っています」
ななみが言う。
「私も」
リリカが続けた。
「ゆめから聞いたんですか」
「はい」
いおりは少しだけ手袋を見つめ、それから留め具に指をかけた。
「いおり」
ゆめが小さく呼ぶ。
「大丈夫」
いおりははっきり答えた。
手袋が外れる。
焚き火の光の中に現れた左手に、ななみもリリカも息を呑んだ。
六本目の指。結晶化したその指先は、炎を受けてかすかに透けて見えた。
話には聞いていた。けれど、実際に見る重みはまるで違った。
いおりは、その手を見ながら静かに言った。
「ゆめから聞きました。これは、私が誰かを守るために戦い続けた証なんですよね」
「そうです」
ゆめが答える。
「覚えてないのに、体だけが覚えてるんです」
いおりは少し笑った。
でも、目の奥は濡れていた。
「変ですよね。自分のことなのに、知らないことばっかりで。
でも……たぶん私は、そのときもちゃんと選んでたんだと思います」
リリカは、その手から目を離せなかった。
幼い頃、泥だらけになって笑っていた手。
一緒に遊んで、一緒に怒られて、それでも明日もまた会えると信じていた、あの頃のいおりの手。
その続きに、こんな傷があるなんて思わなかった。
「いおりちゃん」
リリカの声が震える。
「何ですか」
「ばかです」
いおりが目を丸くする。
「え」
「自分のことを後回しにして、誰かのために全部使って。そんなの、ばかです」
「怒られてます?」
「怒ってます」
リリカは一度息を吸って、それから続けた。
「でも、ありがとう。そういう人が、私の友達でよかったです」
いおりはしばらく黙り込んだあと、少しだけ笑った。
「……ありがとうございます、リリカさん」
「はい」
短く返したリリカの声も、少し掠れていた。
ななみは、まだ言葉を見つけられずにいた。
ただ、右手を伸ばして、いおりの左手をそっと包む。
硬さと冷たさが、掌に伝わってくる。
「ななみさん」
「……守れなくて、ごめんなさい」
思っていたより先に、言葉が出た。
それはずっと胸の底に沈んでいた言葉だった。
誰にも届かないまま、自分だけを削り続けてきた言葉だった。
いおりは、まっすぐにななみを見た。
「守ってくれましたよ」
「でも、こんなになるまで」
「これは私が選んだことです」
いおりの声は、静かだったが揺れなかった。
「記憶はなくても、体が覚えてる。私はきっと、守りたかったんです。
それは、誰かに守ってもらえなかったからじゃない。私がそうしたかったからです」
ななみは何も言えなかった。
ただ、その手を離せなかった。
「来てくれて、ありがとうございます」
いおりがそう言う。
ななみは答えられないまま、小さく頷いた。
その場面を、ゆめが静かに見ていた。
覚えておこう、とゆめは思った。
四人が初めて、本当の意味で同じ場所に立った夜を。
過去を取り戻せなくても、今ここにいることを選べた夜を。
夜が更け、火が小さくなってきたころ、リリカがななみに向き直った。
「ななみさん」
「何ですか」
「昨日、一緒に来てくれてありがとうございました」
「当然のことです」
「当然じゃないです」
リリカははっきり言った。
「ななみさんが来てくれたから、私は戻ってこられました。昨日も、今日も」
ななみは火を見つめたまま、すぐには答えなかった。
「……判断は遅れました」
「でも、来てくれました」
「結果として間に合っただけです」
「それでもです」
リリカは少し笑った。
「ななみさんがいると、大丈夫じゃない日でも、大丈夫にしようって思えます」
ななみは、ようやくリリカを見た。
その顔にはもう、昨日の無理な明るさはなかった。
疲れているのに、ちゃんと立っている顔だった。
守るだけではなく、隣で支えるべき相手の顔だった。
「明日も」
ななみが言う。
「はい」
「一緒に動きましょう」
リリカの表情が、ゆっくりほどけた。
「はい」
その返事は、今まででいちばん素直だった。
気づけば、いおりはゆめの肩にもたれて、うとうとし始めていた。
ゆめは動かない。重さを受け止めたまま、ただそこにいる。
「ゆめさん」
ななみが呼ぶ。
「何ですか」
「明日、いおりさんのことを」
「分かっています」
いつもの静かな声だった。
けれど、その静けさの奥に、誰より強い意志があった。
「頼みます」
「言われなくても守ります」
そう答えてから、ゆめは一拍置いた。
「でも、言ってくれてありがとうございます」
火がさらに小さくなる。
誰も眠ろうとは言わなかった。誰も次の戦いの名を口にしなかった。
それでも全員が知っていた。明日になれば、また何かが壊れようとする。
守りたいものが、試される。
だから今夜は、ただ一緒にいることが必要だった。
温もりを分け合ったこと。名前を呼び合えたこと。
失われた記憶の代わりに、今ここで新しく積み重なったものがあること。
それだけで、戦う理由としては十分だった。
焚き火の最後の火の粉が、夜気の中へふっと消える。
決戦前夜は、静かに更けていった。
第十七話:決戦前夜――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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