第十六話「名前を呼ぶ夜」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
その日の朝は、いつも通りのはずだった。
ななみとリリカが村を出たのは、夜明け前だった。
東の空が白み始めたばかりで、風はまだ冷たく、荒野の土は夜の温度を少し残している。
次の任務に向かう途中、二人は並んで歩いていた。
しばらく無言が続いたあと、リリカが空を見上げて言った。
「今日、なんか空気が重くないですか」
「そうは感じません」
ななみは即答した。
「そうですか。なんか、胸のあたりがざわざわして」
「気のせいでは」
「ななみさんって、そういうところありますよね」
「どういうところですか」
「感覚より数字を信じる」
「正確だからです」
「でも感覚が当たることもありますよ」
「今まで何回外れましたか」
リリカが少し考えた。
「……言わなくていいです」
ななみが、小さくため息をついた。
その瞬間だった。
遠くの空の色が、変わった。
赤みを帯びた色だった。銀色ではない。もっと暗く、もっと重い。
以前見た大規模レイヤーの兆候と似ている。けれど、あの時よりも濃く、あの時よりも沈んでいた。
ななみは足を止めた。
リリカも止まった。
二人は、同時に同じ方角を見た。
北西だった。
「ねえ、ななみさん」
リリカの声が、かすかに揺れていた。
「見えています」
「あの感じです。前に言ってた、西から広がってくる感じ。ついに来た」
ななみは、空を見たまま言った。
「村の方角です」
その一言で十分だった。
リリカが、ななみを見る。
次の瞬間、二人は同時に走り出していた。
村に戻った時、すでに霧は外縁に達していた。
白ではない。
赤みを帯びた霧だった。
動きが速い。見ている間にも、じわじわと広がっていく。
低く這うように進むのに、重さだけが異様に速い。
住人たちが逃げ惑っていた。子どもの泣き声が聞こえる。
呼び合う声、足音、戸を叩く音。静かな村の朝は、もうどこにもなかった。
ゆめが村人を誘導していた。落ち着いた声で、一人一人に方向を示している。
その声には焦りがない。焦りがないからこそ、人が従える。
その隣で、いおりが動いていた。
転びそうになった子どもの手を取って立たせ、泣いている子の背を押している。
記憶がなくても、困っている誰かに手が伸びる。
それが、いおりだった。
「ななみさん」
ゆめがこちらに気づき、すぐに状況を渡してきた。
「規模は」
「大きい。私には分からないくらい大きい」
「発生源は」
「東側。でも、一点ではない気がします」
ななみは、すぐにオペレーターへ接続した。
位置、拡大速度、色調、複数発生の可能性、避難状況。必要な情報だけを短く投げる。
増援を要請する。
返ってきたのは、到着まで一時間以上かかるという返答だった。
一時間。
ななみは霧を見た。
一時間、この速度で広がり続けたら、村の中心部まで飲み込まれる。
「リリカさん」
「はい」
「行きます」
「はい」
二人は同時に霧へ踏み込んだ。
霧の中は、これまでとは別物だった。
浸食速度が通常の三倍以上ある。密度が高い。
一歩踏み込むたび、重さが肌に絡みついてくる。
ただの冷たさではなかった。
誰かの悲しみ。誰かの後悔。誰かの諦め。
それが幾重にも折り重なって、重力みたいに体に乗ってくる。
ななみは、即座に制御を始めた。
一箇所を押さえる。
すると別の場所が膨らむ。
押し返したはずの流れが、横から回り込んでくる。
複数の発生源が同時に動いている。一つの中心を潰せば終わる霧ではない。
「中心部が分かりますか」
ななみが聞く。
「探します」
リリカが霧に触れた。目を閉じる。
感情の流れを読む時の、あの静かな集中の顔になる。
「深い……すごく深い。複数の場所から、同時に来てる」
「方向は」
「東より少し南。でも、ななみさん」
「何ですか」
リリカの表情が強ばった。
「この霧、普通じゃないです。中にいる人の感情が、一人一人じゃなくて、全部重なって、一つになってる感じがする」
「どういう意味ですか」
「数万人分くらいの感情が、同じ場所に集まってる感じ。こんな霧、初めてです」
ななみは、その言葉を頭の中で転がした。
数万人分。
あの夜、支局付近の廃墟の足元で見た亀裂を思い出す。
あの重さが、ついにここまで来たのかもしれない。
「やれるだけやります」
「はい」
二人は動いた。
ななみが広がる流れを圧縮し、通路を作る。
リリカが取り残された住人へ声をかけ、動きを引き戻す。
「こっちです、急いで」
「足が動かない……!」
「大丈夫。ななみさんが道を作ってます。見て。前だけ見て、こっち来て」
声に引かれるように、人が霧から抜けていく。
だが、終わらない。
三十分が過ぎた。
住人の大半は避難できていた。
でも霧は一向に薄くならない。
ななみが一箇所を処理するたび、別の場所が膨らむ。
まるで呼吸しているみたいに、形を変えながら広がり続けていた。
ななみは消耗を感じていた。
これほど早く消耗したのは初めてだった。
リリカを見た。
リリカも消耗していた。額に汗がにじみ、呼吸が浅い。
それでも止まらない。霧に触れながら、住人一人一人に声をかけ続けている。
ななみは処理を続けながら、その動きを観察した。
おかしい。
リリカの動きが、少しずつ遅くなっていた。霧に触れる時間が長くなっている。
普段は触れてすぐ離すのに、今日は触れたまま動かない場面が増えていた。
「リリカさん」
「大丈夫です」
返事は早かった。早すぎた。
「顔色が」
「大丈夫です。まだ行けます」
ななみは一瞬、強制的に外へ出そうかと考えた。
でもその瞬間、広場の方で住人が一人、霧に飲み込まれかけた。
ななみはそちらの処理に戻る。
止めるタイミングを、逃した。
そして、それから十分後だった。
リリカが、突然動きを止めた。
霧の中で、直立したまま止まっていた。
「リリカさん」
ななみが声をかける。
返事がない。
近づいた瞬間、リリカの体が前に傾いた。
ななみが駆け寄った。
間に合った。
腕の中で受け止めた瞬間、リリカの体が小刻みに震え始めた。
痙攣していた。
「リリカさん!」
ななみの声が、自分でも驚くほど高くなった。
「リリカさん、聞こえますか!」
リリカの目は半開きだった。焦点が合っていない。
唇が少し開いているのに、声が出ていなかった。
ななみは、リリカを地面に下ろした。
頭を支え、呼吸を確認する。
呼吸はある。でも浅い。
体の震えが止まらない。
「リリカさん!」
何度も呼んだ。
返事はなかった。
その時になって、ななみは自分の手が震えていることに気づいた。
何年もこの仕事をしてきた。何度も危険な現場に入った。
仲間が消耗する場面も見てきた。
でも、こんなに怖いと思ったのは初めてだった。
「リリカさん!」
また呼んだ。
今度は、命令でも報告でもなかった。
ただ、名前を呼んでいた。
ゆめが来たのは、その時だった。
霧の外から飛び込んできた。いおりも一緒だった。
「ななみさん?」
「リリカさんが――」
「見えています」
ゆめがリリカの隣にしゃがみ込む。
手を取り、何かを確かめるように触れた。
「受け取りすぎたんです。この霧の中の感情が、全部流れ込んできた」
ななみは、喉がひどく乾いたのを感じた。
「……助かりますか?」
聞いた直後、自分で驚いた。いつもなら「状態は」と聞く。
「助かりますか」と聞いたのは、初めてだった。
ゆめは、はっきり答えた。
「外に出れば回復します。…霧の中にいる限り、続きます」
「撤退します」
ななみは立ち上がった。
でも、足が思ったより震えていた。
「撤退します」
今度はオペレーターに向けて言う。
声が低い。感情を押さえようとして、押さえ切れていなかった。
「全員、外に出てください」
霧の外に出るまでの時間が、異様に長く感じた。
ななみはリリカを背負って歩いた。
体は軽かった。でも、その軽さが怖かった。
いおりが前を歩く。
ゆめが隣につく。
霧の外に出た瞬間、リリカの震えが少し収まった。
ななみは地面に膝をつき、そっと下ろした。
焦点はまだ合っていない。でも、呼吸が少しだけ深くなっていた。
いおりが、ななみの横に来た。
「大丈夫ですか?」
その問いに、ななみは顔を上げた。
いおりが心配しているのは、リリカのことだけではない。
ななみのことも、心配していた。
「……大丈夫ではありません」
そう答えたのは、初めてだった。
増援が到着したのは、それから二十分後だった。
後処理を引き継いでもらいながら、ななみはリリカのそばに座り続けた。
リリカの意識が、少しずつ戻ってくる。
目が開いた。焦点が合い始めた。
最初に見たのは、ななみだった。
「……ななみさん」
「はい」
「声、震えてます」
「震えていません」
「震えてます」
ななみは答えなかった。
リリカが少し笑おうとした。
でも顔が引きつる。
「痛い」
「どこが」
「全部。頭が、特に」
「無理に動かさないでください」
「はい」
リリカがまた目を閉じる。
ななみは、その隣から動かなかった。
霧はまだそこにあった。
増援が対処を続けているが、完全には消えない。
今夜は無理だという報告が来た。
悔しかった。
けれど、今はそれより先に確認しなければならないことがあった。
「リリカさん」
「はい」
「私が止めるべきでした」
リリカが、ゆっくり目を開けた。
「止めようとしてくれましたよね」
「間に合いませんでした」
「でも、止めようとしてくれた」
「それでも私の判断が」
「ななみさん」
リリカが、まっすぐななみを見る。
目はまだ少し霞んでいた。
それでも、言葉だけははっきりしていた。
「私が言うことを聞かなかったんです」 「ななみさんのせいじゃない」
「それでも」
「ななみさんのせいじゃないです」
ななみは、返す言葉を持たなかった。
リリカが少しだけ息を整えてから、続けた。
「でも、怖かったですか。私が倒れた時」
ななみは少し間を置いた。
逃げられない問いだと思った。
そして、逃げたくないとも思った。
「……怖かったです」
「そうですか」
「はい」
「ななみさんが、そんなに怖がるとは思っていませんでした」
「私も、思っていませんでした」
リリカが、また少し笑った。
今度は、さっきより自然に笑えていた。
「良かった」
「何がですか」
「ななみさんが怖がってくれて」 「なんか、嬉しいです」
「嬉しいということの意味が分かりません」
「ななみさんにとって、私は怖がるくらい大事な存在だってことでしょう」
ななみは、答えなかった。
でも、否定もしなかった。
リリカが空を見た。
「明日、また行きますよ」
「無理です」
「行けます」
「リリカさんの状態では」
「ななみさんがそばにいてくれれば、行けます」
ななみは、リリカを見た。
消耗しきっていた。顔色は悪い。
それでも、目だけは前を向いている。
「……今夜は休んでください」
「はい」
「明日のことは、明日考えます」
「はい」
「でも」
ななみは続けた。
「一人で行かせません」
リリカが、ななみを見る。
「約束ですか」
「約束です」
リリカが、今度は本当に笑った。
夜、ななみはリリカの部屋の前に椅子を置いて座っていた。
扉越しに、呼吸の音を確認していた。
規則的か。浅くないか。途中で乱れていないか。
そんなことをしても完全には安心できないと分かっているのに、そこを離れる気になれなかった。
ゆめが来た。
「ななみさん」
「何ですか」
「中に入ってあげてください」
「リリカさんは眠っています」
「だから、そばにいてあげてください」
ななみは、ゆめを見た。
「私がここにいることは分かるはずです」
「分かっていても、伝わらないことがあります」
ゆめは静かに言った。
「リリカさんは、今夜一人で眠ることを怖がっています。匂いで分かります」
ななみは、扉を見た。
それから、立ち上がった。
扉を開ける。
リリカが、目を開けた。
「ななみさん」
「眠れていませんでしたか」
「少し」
「そうですか」
ななみは、部屋の端に椅子を引いて座った。
「眠れるまで、ここにいます」
リリカが、ななみを見る。
「いいんですか」
「いいです」
「ありがとうございます」
リリカが目を閉じる。
ななみは、椅子に座ったまま暗がりを見ていた。
怖かった、という感情がまだ胸のどこかに残っていた。
消えていなかった。でも、悪いものではなかった。
誰かのことを怖がれる。
失いたくないと思える。
それが、守りたいということなのかもしれない。
今夜だけは、その感情を論理で否定しなかった。
翌朝、リリカが目を覚ました時、ななみはまだそこにいた。
椅子に座ったまま、眠っていた。
いつも張り詰めている顔が、眠っている時だけ少し緩んでいる。
リリカは、しばらくその顔を見ていた。
昨日、自分が倒れた時のことを思い出す。
霧の中で、全部が流れ込んできた。
数えきれない声。数えきれない悲しみ。
受け取りきれなくて、体が限界を超えた。
大丈夫です、と言い続けた。
大丈夫ではなかった。分かっていた。
でも止まれなかった。
止まれなかった自分のせいで、ななみを怖がらせた。
申し訳なかった。
でも、ななみが怖がってくれたことが、嬉しかった。
矛盾していると分かっていた。
でも、その感情は本物だった。
ななみが目を覚ました。目が合う。
少しだけ慌てたような顔をして、それからすぐ、いつもの表情に戻った。
「起きていましたか」
「少し前から」
「気づきませんでした」
「ななみさん、寝てたんですね」
「……仮眠です」
「いつからですか」
「途中から」
リリカは少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
ななみは返答しなかった。
でも立ち上がって言った。
「体の具合を確認します」
それが、ななみなりの返し方だと、リリカには分かった。
朝食の時、四人で座った。
リリカの顔色は昨夜より戻っていた。
まだ万全ではない。でも、自分で歩けていた。
いおりが、リリカを見る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
「心配しました」
リリカが少し笑う。
「いおりちゃんに心配されるのは、なんか不思議な感じがします」
「なんでですか」
「私の方が年上だから」
「関係ないですよ」
いおりが、まっすぐ言った。
「年上とか年下とか関係なく、心配しました」
リリカは、その言葉を受け取った。
「……ありがとうございます」
ゆめが、四人の様子を静かに見ていた。
昨日より、少し変わっている。
傷ついた夜が、何かを変えた。
霧はまだそこにある。
でも今日、この四人が戻る意味は、昨日より深くなっている。
朝食が終わりかけた頃、いおりがふいに言った。
「なんか、ピザが食べたいんですよね」
三人が、いおりを見る。
「どうして?」
リリカが聞いた。
「分からないんですけど。なんか、食べなきゃいけない気がして」
いおりが少し首を傾ける。
「夢で見たのかもしれません。誰かと食べた気がして」
ゆめが、いおりを見た。何も言わなかった。
でも、目が少しだけ温かくなった。
リリカが言う。
「作りますよ」
「作れるんですか」
「作ります。あるものでなんとかします」
「頼もしいですね」
「ななみさん、薪お願いしていいですか」
「……分かりました」
ななみが立ち上がる。
いおりが、くすっと笑った。
その夜のことは、また別の話になる。
第十六話:名前を呼ぶ夜――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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