第二話「泥と救済」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
泥だらけのまま、リリカは笑っていた。
霧の外に子供を連れ出した直後のことだった。
白いジャケットに茶色い泥が跳ねているのに気づき、リリカは少し苦笑した。 また洗わないといけない。
でもそれより先に、腕の中で震えていた男の子が落ち着いてきたことの方が、ずっと大事だった。
霧の中で、男の子が泣いていた。
五歳か六歳だろうか。
ハザードレイヤー——街を蝕む“感情の枷”。その浸食を受けて足が動かなくなり、路上にしゃがみ込んでいた。
周囲の大人たちは霧を避けて遠巻きにしているだけで、誰も近づこうとしない。
リリカには、それが不思議でならなかった。
子供が泣いているのに。
目の前で、子供が泣いているのに。
体が動いていた。
考えるより先に、足が霧の中へ向かっていた。
「大丈夫だよ」
声をかけながら近づく。
レイヤーが肌に触れる。重い。
冷たさではない。濡れるわけでもない。もっと別の、胸の内側に泥を塗り込まれるような重さだ。
誰かの悲しみ。誰かの孤独。名前も知らない誰かの沈んだ感情が、霧の形をして全身に絡みついてくる。
足首が少しだけ重くなった。
呼吸も浅くなる。
それでもリリカは止まらなかった。
「怖かったね。もう大丈夫」
男の子の隣にしゃがみ込む。目線を合わせる。
怯えた瞳が涙で揺れていた。
リリカは右手をその小さな背中に当てた。
意識を集中する。自分の中にある熱のようなものを、ゆっくりと流し込む。
乱れて渦を巻く霧を、なだめるように、ほどくように、押し返すのではなく、少しだけ退いてもらうように。
完全には消えない。
リリカの力では、この規模のレイヤーを消滅させることはできない。
でも、薄くすることはできる。
この子が動けるくらいには。
「立てる?」
男の子がおそるおそる足を動かした。
最初はふらついたが、次の瞬間にはちゃんと体を起こした。
リリカは笑った。
「えらい。じゃあ、行こう」
男の子の手を取り、霧の外まで連れ出す。
遠巻きにしていた大人の一人が駆け寄ってきて、男の子を抱き上げた。
母親だろうか。子供の名前を呼びながら泣いている。
リリカはその場面を少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
救えた。
今日も、救えた。
その感覚だけは、何度経験しても薄れない。
けれど。
振り返ると、霧はまだそこにあった。
薄くなっただけで、消えてはいない。
このままではまた誰かが飲み込まれる。
リリカには、これ以上できることがない。
その事実が、遅れて胸に染みてきた。
「おい」
低い声で呼ばれて顔を向けると、霧の外で待機していた地元の自警団員がこちらへ歩いてくるところだった。
がっしりした体格の、四十代くらいの男。顔に深い皺が刻まれている。
その表情を見た瞬間、リリカは、あ、怒られるな、と思った。
「あんた、また勝手に入ったのか」
「子供が泣いてたので」
「だから何だ」
即座に返ってきた声は、怒鳴るというより押し殺した苛立ちに近かった。
「管理局に連絡すれば来てくれる。素人が無闇に入るな」
「でも間に合わなかったら」
「管理局が来るまで待てばいいだろうが」
リリカは少し黙った。
間に合わなかったら。
その言葉を、もう一度心の中で繰り返す。
待っている間に、誰かが完全に飲み込まれたら。
それでも待つべきなのだろうか。
「……すみません」
謝りはした。
けれど、納得はしていなかった。
自警団員は大きく息を吐き、まだ言いたいことがありそうな顔をしたが、
結局それ以上は何も言わずに霧の方へ戻っていった。封鎖線の確認でもするのだろう。
リリカは、その背中を見送ったあと、もう一度霧に視線を向けた。
管理局が来るまで、あと何分かかるだろう。
そのあいだに、また誰かがここへ来たら。
封鎖なんて気づかずに子供が走り込んだら。
ポケットの中の小石を、指先で触れた。
琥珀色の、小さな石。
幼い頃に拾った石。
子供のころに拾ったきり、ずっと持ち歩いている。
丸くて、少しだけいびつで、陽に透かすと飴みたいに柔らかい色を返す石。
いおりちゃんと一緒に拾ったんだっけ。
そう思った瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
あの日も、二人で泥だらけだった。
雨上がりの川原を歩いて、靴をぐちゃぐちゃにして、服の裾まで跳ねを作って、それでも楽しくて仕方なかった。
リリカが「これ、きれいだよ」と差し出したら、いおりちゃんは少し考えてから笑った。
--リリちゃんが持ってて。
なんでそんなことを言ったんだろう。
あの時は深く考えなかった。今でも、よく分からない。
でも、手放せなくなった。
持っていてよかったと、何度も思った。
管理局の担当者が到着したのは、それから三十分後だった。
支局の紋章が入った車両が路地の手前に止まり、制服姿の二人組が降りてくる。
片方が周囲を確認し、もう片方が霧へ向かった。
手際よく霧を消していく様子を、リリカは少し離れた場所から見ていた。
速い。そして、無駄がない。
リリカがやれたことの何倍もの規模を、あっという間に処理している。
すごいな、と思う。
素直にそう思った。
でも、何かが違う気がした。
何が違うのかは、うまく言葉にできない。
ただ、子供を抱き上げたときのあの温度と、霧が完全に消えたあとの街の空気が、少しだけ別のものに感じられた。
「あなた」
声をかけられて顔を上げる。担当者の一人がこちらを見ていた。
年齢はリリカより少し上くらいだろうか。表情は穏やかだが、目はよく見ている目だった。
「先ほどレイヤーに入った人ですね」
「はい」
「理由は」
「子供が泣いていたので」
担当者は少し間を置いてから言った。
「次はやめてください。危険です」
「でも救えました」
「今回は、です」
穏やかな口調のまま、言葉だけがまっすぐに刺さる。
「力量を超えた状況で無理に入れば、あなた自身が飲み込まれる可能性がある。そうなれば救助対象が一人増えるだけです」
正論だった。
リリカには反論できなかった。
現にあの霧は、リリカひとりでは消せなかった。
自分にできたのは、子供ひとりを外に出すことだけ。
もし中で足が止まっていたら。もし薄くすることもできなかったら。
今ごろ、自分もあの子の隣でしゃがみ込んでいたかもしれない。
担当者は報告端末に何かを入力し、それ以上は何も言わずに立ち去った。
その背中を見ながら、リリカはまた小石を握り直した。
正しいことは分かってる。
でも、間に合わなかったらって考えたら、体が動いてしまう。
いおりちゃん、と心の中で呟いた。
私、まだ全然だよ。
その夜、リリカは宿にしている安宿の部屋でひとり、窓の外を見上げていた。
古びた木枠の窓。薄いカーテン。少し軋むベッド。
旅を続けるあいだに何度も似たような部屋に泊まってきたが、どこも同じようでやっぱり少しずつ違う。
フリーの調査員という立場は、組織に縛られない自由がある。
どこの街へ行くのも勝手だ。
どの依頼を受けるのも断るのも自由だ。誰の許可もいらない。
その代わり、組織の力も使えない。
管理局のように大規模なレイヤーを処理することはできない。
地道に、一つずつ、小さな綻びを拾っていくしかない。
それで良いと思っていた。
大きな力がなくても、目の前の人を救うことはできる。
届く範囲で、届く人に、届く力で。
そう思っていた。
でも今日の言葉が、頭の中をぐるぐるする。
力量を超えた状況で無理に入れば、あなた自身が飲み込まれる。
分かってる。
そんなこと、最初から分かってる。
リリカはベッドに寝転がり、天井を見た。
幼い頃の記憶が浮かんだ。
幼稚園の砂場。二人でしゃがみ込んで、真剣な顔で穴を掘っていた。
どこまで掘れば地球の反対側に届くか、真剣に話し合っていた。
いおりちゃんは「きっと届く」と言い、リリカは「届くまでやってみよう」と言った。
結局届かなかったけど、泥だらけになって笑っていた。
あの頃は何でもできる気がしていた。
今も、その気持ちだけはある。
でも現実は、子供一人を霧の外に連れ出すのが精一杯だ。
リリカはポケットから小石を取り出し、手のひらに乗せた。
琥珀色の光が、窓から差し込む月明かりに照らされている。
「いおりちゃん」
誰もいない部屋で、呟いた。
「私、諦めないから」
返事はない。当然だ。
「救えなきゃ意味がない。それだけは、ずっと変わらないから」
小石を握り、目を閉じた。
明日も、どこかで霧が出るだろう。
明日も、誰かが泣いているだろう。
それでいい。
泣いている人がいるなら、行く理由になる。
救えるかもしれないなら、動く理由になる。
翌朝、リリカは次の街へ向かった。
擦り切れた地図には、最近確認されたハザードレイヤーの発生記録がいくつも書き込まれている。
赤い印、青い丸、走り書きの補足。旅のあいだに増えていった自分だけの地図だ。
どれから行くか、いつも直感で決める。
今日は東の方角が気になった。
理由はない。
ただ、胸の奥を細い糸で引かれるみたいに、そっちだと思った。
いおりちゃんは昔から、そういうのがよく当たった。
道に迷ったときも、隠したお菓子の場所も、雨が降るかどうかも、不思議なくらい当てていた。
だからリリカも、直感を信じることにしている。
街を出る前に、ふと振り返る。
昨日霧が出ていた路地の前に、花が供えられていた。
誰かが置いたのだろう。小さな白い花。
リリカはそれを見て、少し微笑んだ。
ちゃんと、残るものがある。
救えたものが、ちゃんとある。
それで十分だと思った。
振り返るのはここまでにして、リリカは東へ向かって歩き出す。
朝の空気はまだひんやりとしていて、通りの石畳には昨夜の雨の名残が鈍く光っていた。
第二話:泥と救済--完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/
■専用Xアカウント
https://x.com/gin_no_sakura_y?s=21




