第十二話「ゆめの告白」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
朝、ななみは一人で村の外れに立っていた。
昨夜は、ほとんど眠れなかった。
眠れないこと自体は珍しくない。
務の前後、処理の記録が頭の中で反復するときや、レイヤーの感触が体に残っているときは、浅い眠りのまま朝を迎えることもある。
でも、今朝の眠れなさは、それとは少し違っていた。
考えすぎていたわけではない。
むしろ、考えようとすると、途中で止まった。
頭の中が静かになれなかった。
目を閉じると、いおりの顔が浮かんだ。
穏やかな目。
礼儀正しい返事。知らない人を見る、静かな視線。
あの目に責める色がなかったことを、ななみは何度も思い返していた。
覚えていない。
その事実は、想像していたよりずっと重かった。
ずっと会いたかった。ずっと見つけたかった。ずっと、守れなかった相手として心の中に置いてきた。
それなのに、実際に会ってみると、自分の中にあった言葉のほとんどが役に立たなかった。
力をつければいいと思っていた。
探す力。守る力。辿り着く力。
それさえあれば、足りると思っていた。
でも本当は、あの子がどこかに生きていると信じることで、ずっと自分を動かしていただけなのかもしれない。
いおりは、いた。
生きていた。
手の届く場所にいた。
でも、ななみのことは覚えていない。
その事実が何を意味するのか、まだうまく言葉にできなかった。
背後に、気配がした。
振り返ると、ゆめが立っていた。
いつの間に来たのか、足音はしなかった。
昨日と同じだった。
でも、ななみは驚かなかった。
この人は、そういうふうに現れるのだと、もう知っていた。
「眠れませんでしたか」
ゆめが言った。
「少し」
ななみが答える。
「そうですか」
ゆめは、ななみの隣に並んだ。
同じ方向を見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
朝の空気はまだ冷たく、畑の土の匂いが薄く流れている。
遠くで鳥が鳴いた。風は静かで、この村の朝はどこまでも穏やかだった。
その穏やかさが、かえって言葉を選ばせた。
「話があります」
先に口を開いたのは、ゆめの方だった。
「聞きます」
ななみはそう答えた。
ゆめは少しだけ間を置いた。
「いおりに何を言うかは、あなたが決めてください。私が決めることではないので」
「はい」
「でも、その前に伝えておいた方がいいことがあります」
ななみは、ゆめを見た。
ゆめの表情は大きく変わらない。
穏やかなままだった。けれど、その穏やかさの下に、長く抱えてきたものがあるのだと分かる声だった。
「あなたの匂いを、私は知っています」
ななみは、すぐには意味を飲み込めなかった。
「……私の」
「はい」
ゆめは前を向いたまま続けた。
「親戚の家の庭で、一緒にいた時の匂いです。
いおりのそばに、いつもいた人の匂い。私は、ずっと前から知っていました」
ななみの胸の奥で、何かが静かに動いた。
親戚の家の庭。芝生の匂い。夏の光。
いおりの声。小さな足音。
あの頃の景色の隅に、確かにいつもいた、小さくて白い影。
「あなたは」
声が少しかすれた。
「……あの頃から」
「はい」
「ずっと」
「ずっとです」
その答えは短かった。
でも、ななみにとっては、それだけで十分すぎるほどだった。
あの庭で、いおりが笑っていた頃。転んで、すぐに立ち上がろうとしていた頃。
誰かが困っていたら、自分より先にそちらを見ていた頃。
その全部のそばに、ゆめもいた。
そして、ななみのことも見ていた。
「昨日」
ななみはゆっくり言った。
「あなたの名前を呼びました」
「はい」
「気づいていましたか」
「気づいていました」
ゆめが少しだけ目を細める。
「あの瞬間、あなたが私のことを分かってくれたと思いました」
ななみは視線を落とした。
目の奥が少し熱くなった。
けれど、泣くほどではないと思った。泣くべき場面でもないと思った。
だから、こらえた。
こういう時に崩れるのは、自分の流儀ではない。
少なくとも、ななみはずっとそうしてきた。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
「いおりは、今、幸せですか」
問いにしてから、それが思っていたよりずっと単純な言葉だったことに気づいた。
でも、他に聞きたいことはたくさんあるはずなのに、最初に出たのはそれだった。
ゆめは、少し考えた。
「幸せかどうかは、いおり自身も分からないと言います」
「……そうですか」
「でも」
ゆめの声は変わらなかった。
「安心しています」 「毎日、安心して生きています」
その一言で、ななみの中に張っていた何かが、少しだけ緩んだ。
安心して生きている。
その事実は、ななみがずっと欲しかった答えの、いちばん中心にあるものだった。
記憶が戻っていなくてもいい。
自分を覚えていなくてもいい。
少なくとも今、いおりが怯えながら生きているわけではない。
痛みばかりの場所にいるわけではない。
それが分かっただけで、十分だった。
視界が少し滲んだ。
今度は、こらえきれなかった。
それでも声は出さなかった。
ただ、朝の空気を吸い込んで、静かに吐いた。
「ありがとうございます」
ななみが言うと、ゆめは首を横に振った。
「いいえ」
「教えてくれて」
「あなたが聞いたからです」
それは、ゆめらしい答えだと思った。
必要以上に恩に着せず、でも誤魔化しもしない。
二人はまた、しばらく並んで立っていた。
ななみは黒い手袋の背で、一度だけ目元をなぞった。
それを見ても、ゆめは何も言わなかった。
見ないふりでも、同情でもなく、ただそのまま置いておいてくれる沈黙だった。
やがて、ゆめがもう一度口を開いた。
「一つだけ、私からも言っていいですか」
ななみは、ゆっくりゆめを見る。
「はい」
「あなたと、こうして話せて嬉しいです」
ななみは少しだけ目を見開いた。
ゆめは続ける。
「言葉が通じる形で、話せたことが」
朝の光の中で、その声はあまりに静かだった。
だからこそ、まっすぐに届いた。
「ずっと、あなたのことを知っていました。でも、あの頃の私は言葉を持っていなかった」
ゆめは少しだけ間を置く。
「あの庭で、あなたが来るたびに、伝えたいことはたくさんありました。
いおりのそばにいてくれてありがとうとか。
あなたが来ると、いおりが嬉しそうだったとか。…そういうことを」
ななみは、何も言えなかった。
「でも、言葉がなかったから」
ゆめが、小さく息をつく。
「だから、今こうして話せることが。嬉しいんです」
ななみは返す言葉を探した。
ありがとう。こちらこそ。
いろいろな言葉が浮かんで、でもどれも少し違う気がした。
結局、ななみは小さくうなずいた。
それだけだった。
でも、ゆめには伝わったようだった。
それで十分だとでも言うように、ゆめも小さくうなずいた。
宿に戻ると、リリカはすでに起きていた。
起きていた、というより、台所の前で何かと格闘していた。
「……何をしているんですか」
ななみが言うと、リリカが振り返った。
「卵を焼こうとしたら、なぜか煙が」
フライパンの上で、卵は焼くというより乾き始めていた。
火加減が明らかに強すぎる。
ななみは黙って近づき、火を弱めた。
「貸してください」
「すみません、助かります」
器具を受け取り、油の量を見て、卵の状態を見て、ななみは手早く立て直す。
その間、リリカは横でおとなしく見ていた。
見ているだけでは手持ち無沙汰なのか、小石を指先で弄んでいる。
「ゆめさんと、話しました」
ななみが言うと、リリカの手が止まった。
「え、いつですか」
「朝、外で」
「何を話したんですか」
ななみは卵を返しながら答えた。
「いおりのことを」
「……はい」
「それから、ゆめさん自身のことも」
リリカの表情が少し真剣になる。
「ゆめさんは、犬だった頃から私たちのことを知っていたそうです」
リリカが固まった。
「……じゃあ、本当に」
「そういうことだと思います」
少しの沈黙があった。
その沈黙の中で、リリカがいろいろなことを受け取っているのが分かった。
驚き。納得。それから、どこか温かいもの。
「なんか……ゆめちゃんらしい気もします」
「会ったことがないのに」
「でも、いおりちゃんのそばを離れない感じが。たぶん昔からそうだったんだろうなって」
ななみは、焼き上がった卵を皿に移した。
「それと」
「はい」
「いおりは今、安心して生きているそうです」
リリカの指が、小石を握りしめる。
「そっか」
それだけ言って、少し黙る。
「……そっか」
二回目の方が、小さかった。
「はい」
「それだけで、十分だね」
ななみは一度だけ考えるように間を置いた。
「今は」
「うん、今は」
リリカが顔を上げる。
目が少し赤かった。でも、泣いてはいなかった。
「ありがとうございます」 「話してくれて」
「ゆめさんが、伝えてもいいと言ったので」
「それでも、です」
それ以上は言わなかった。
二人とも、今朝はそれ以上言葉を増やさない方がいいと分かっていた。
朝食を向かい合って食べた。
卵はちゃんと焼けていた。
リリカは一口食べて、「やっぱりななみさんがやると違いますね」と言った。
ななみは「火加減の問題です」とだけ返した。
そのやり取りが妙にいつも通りで、少しだけ救いになった。
同じ頃、いおりは家の中で、ゆめが戻ってくるのを待っていた。
朝早くに出かけたことには気づいていた。
どこへ行ったのかは、聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく分かる気がしたからだった。
昨日来た二人のことを、今朝も考えていた。
ななみという人。
リリカという人。
覚えていない。記憶にはない。
なのに、気になる。
初めて会った人たちなのに、そう思えない瞬間がある。
懐かしい、という言葉がいちばん近い気もするけれど、記憶の裏付けがないぶんだけ、不思議な感覚だった。
嫌な感じはしない。
怖くもない。
ただ、胸の奥のどこかが、静かに引っかかっている。
扉が開いて、ゆめが戻ってきた。
「おかえり」
「ただいま」
いおりは、ゆめの顔を見た。
「どこ行ってたの」
「少し話をしてきました」
「あの二人と?」
「一人と」
いおりは、それ以上すぐには聞かなかった。
でも、ゆめの顔を見ているうちに、やっぱり聞きたくなった。
「話してもいい?」
「何を」
「あの人たちのこと」 「ちゃんと」
ゆめは、いおりの隣に座った。
「いおりが聞きたいなら」
「聞きたい」
答えは、思っていたより早く出た。
「なんか……聞かなきゃいけない気がするの」
窓の外に、朝の光が広がっていた。
村はいつも通り静かで、誰かが遠くで水を汲んでいる音がした。
それなのに、今日だけは何かが動き始めている気がした。
「全部話すよ」
ゆめが言う。
「でも、聞いたあとで、いおりはどうしたい?」
いおりは少し考えた。
窓の外を見る。
空は明るく、風は穏やかだった。
待つだけではなく、自分で決める時が来ている。
そんな気がした。
それから、ゆめを見る。
「会いに行きたい」
言ってから、自分でも少し驚いた。
でも、間違ってはいないと思った。
「また来てくれるのを待つんじゃなくて。私から」
ゆめが、いおりを見つめる。
その視線は、確認するようでもあり、待っていたものを見るようでもあった。
「分かった」
いおりは、少しだけ笑った。
「ゆめは、いつから待ってたの」
「ずっとだよ」
「私が、自分で決めるのを?」
「うん」
それは、あまりにも自然な答えだった。
いおりはもう一度窓の外を見た。
遠い空が、今日は少しだけ明るく見えた。
何も思い出していない。
でも、思い出していないからこそ、自分で聞きたいと思った。自分で知りたいと思った。
その気持ちは、たぶん本物だった。
ゆめが、静かに息を吸う。
そして、話し始めた。
第十二話:ゆめの告白――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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