第十一話「従姉妹の記憶」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
集落の入り口で、ななみは足を止めた。
小さな村だった。家は十数軒。広場に井戸。外れに畑。
道はよく踏まれていて、庭先には干した布が揺れている。
静かで、穏やかな場所だった。
ハザードレイヤーの気配は薄い。
少なくとも、今この瞬間、この村の呼吸は乱れていない。空気の質だけで、それが分かった。
だからこそ、広場の向こうに見えた二人の姿が、あまりにもはっきり見えた。
一人は、白い手袋をはめた少女。
もう一人は、銀色の髪の少女。
その瞬間、ななみの視界は不自然なくらい狭くなった。
白い手袋。
それだけで、分かった。
あの子が手袋をはめるようになったのは、小さい頃からだと聞いていた。
どうしてなのかは、詳しく教えてもらえなかった。聞いても、大人は曖昧に笑うだけだった。
でも、もし会えたら分かる。
あの手袋を見れば、きっと分かる。
どこかで、ずっとそう思っていた。
いおりだ。
間違いない。
隣で、リリカも息を止めたのが分かった。
けれど、ななみはそちらを見ることができなかった。
目の前にいる。
ずっと探していた相手が、今、広場の向こうに立っている。
それだけなのに、足が動かない。
なぜここまでいおりを探し続けてきたのか、ななみは言葉にしたことがなかった。
従姉妹だから。それは、たぶん間違ってはいない。
でも、それだけでは足りなかった。
いおりは、ななみにとって初めて「守りたい」と思った相手だった。
転んでも、すぐに泣かない子だった。
泣かないのに、痛いことはちゃんと痛いはずで、そういうところが余計に気になった。
誰かが困っていたら、先にそちらを見た。小さいのに、人の不安に気づくのが早かった。
強いように見えて、きっと本当は傷つきやすい子だった。
そういう子が、理由も告げられないまま、ある日いなくなった。
守れなかった。
その事実だけが、長いあいだ心に刺さったままだった。
力をつければ、守れる。
見つける力を持てば、今度はなくさない。
そう思って、ななみは動いてきた。
そう思わなければ、進めなかった。
なのに今、いおりが目の前にいて、ななみは一歩も動けなかった。
会いたかった。
ずっと、会いたかった。
それなのに、会えた瞬間に体が止まった。
守りに来たはずなのに、足が地面に縫いつけられたみたいに動かない。
胸の奥で、何かがきつく締まった。
その意味を、ななみはまだ知らなかった。
「いおりちゃん」
隣で、リリカが走り出した。
止める間もなかった。
「リリカさん」
声は出た。
でも、それだけだった。
リリカには、自分がなぜ走ったのか分からなかった。
ただ、見つけたと思った。
会えたと思った。それで体が先に動いた。
ずっと追いかけてきた背中に、ようやく手が届く気がした。
「いおりちゃん」
名前を呼びながら近づいた、その瞬間だった。
銀色の髪の少女が、音もなくリリカの前に立っていた。
さっきまで広場の向こうにいたはずなのに、もう目の前にいる。
動きが速い。けれど、威圧するための速さではなかった。
必要な距離を、必要なだけ詰めただけの動きだった。
表情は穏やかだった。
でも、その目は静かに鋭かった。
「知り合いですか」
声は落ち着いていた。責めているのでも、怯えているのでもない。
ただ、境界線をはっきり引く声だった。
「友達で――」
リリカが言いかけると、少女は静かに言った。
「いおりは、あなたを覚えていません」
たった一言だった。
でも、その一言はまっすぐに深く刺さった。
「覚えていない、って」
「記憶がありません。以前のことは」
リリカは、その少女の肩越しにいおりを見た。
いおりがこちらを見ていた。
不思議そうな顔だった。
警戒しているわけではない。怖がっているわけでもない。
ただ、本当に知らない相手を見る目だった。
「……いおりちゃん」
呼ぶと、いおりは小さく首を傾けた。
「はい」
答えた声は、穏やかで礼儀正しかった。
でも、そこには過去がなかった。
砂場のことも。地球の反対側まで穴を掘ると言って笑ったことも。
泥だらけになって、三十センチで崩れて、それでも楽しかったことも。
何ひとつ、そこにはなかった。
リリカの中で、何かが静かに崩れた。
大きな音はしなかった。
ただ、長く持っていた形が、音もなく崩れていく感じだった。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。
泣くのは違うと思った。笑うのはもっと違うと思った。
だから、立ち尽くすしかなかった。
少し離れた場所で、ななみもその光景を見ていた。
やはり、動けなかった。
いおりが、こちらを見た。目が合う。
その目には、何も宿っていなかった。
懐かしさもない。
親しみもない。責める色もない。
ただ、知らない人を見る穏やかな目だけがあった。
それが、ななみにはいちばんきつかった。
怒られた方がよかった。
責められた方が、まだ楽だったかもしれない。
何も覚えていない、という事実よりも、何かしらの痛みを向けられる方が、自分の立ち位置を決めやすかった。
でも、いおりの目は静かだった。
静かすぎて、ななみの中の空白だけを強く照らした。
その時、銀色の髪の少女が、リリカの前から離れ、今度はななみの方へ歩いてきた。
足音がほとんどしない。
近づいてくるまで、気配が薄い。
少女が止まり、ななみを見る。
ななみも、その目を見返した。
銀色の髪。琥珀色の瞳。
その奥に、ひどく深いものがある。
どこかで知っている、と思った。昔の景色そのものではない。
けれど、いおりの隣にあった気配として、その存在を知っている気がした。
「……ゆめ」
声が出た。
自分でも、出すつもりはなかった。
それでも、自然に出ていた。
少女が、少しだけ目を細めた。
「名前を呼んでくれたのは、初めてです」
「あなたが、ゆめなんですか」
「はい」
それだけの短いやり取りなのに、ななみの胸の奥で何かが動いた。
あの小さなチワワ。親戚の家の庭を歩いていた、小さな足音。
いおりのそばにいた、白くて静かな存在。
時間の繋がらない記憶が、そこでひとつの線になった。
「あなたが」
言葉が続かない。
ゆめは、穏やかに言った。
「匂いで分かりました」
「……そうですか」
「ずっと前から、知っていました。あなたの匂いを」
ななみは、ゆめを見たまま黙った。
驚くべきことのはずなのに、不思議と大きくは驚かなかった。
この少女なら、それができてもおかしくないと思ってしまった。
ゆめは、さらに続ける。
「いおりに何を言うかは、あなたが決めてください。私が決めることではないので」
その言い方で、ななみは少しだけ理解した。
この子は、いおりを守っている。でも、閉じ込めるように守っているのではない。
いおりが自分で選べるように、その周りを整えている。
支配ではなく、見守りに近い。
けれど、必要なら間に立てる強さもある。
「今日は」
ななみは、自分でも意外なほど静かな声で言った。
「今日は、何も言いません」
ゆめがまっすぐに見る。
「どうしてですか?」
「準備ができていないからです」
「誰のでしょうか」
「私の、です」
言い切ってから、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ゆめは少しだけ目を細めた。
怒っているのではなかった。何かを確かめて、認めたような目だった。
「分かりました」
リリカはまだ、いおりの前に立っていた。
言葉がうまく出てこない。
いつもなら、知らない相手にでも何かしら話しかけられるのに、今日はそれができなかった。
その沈黙を破ったのは、いおりの方だった。
「あの」
リリカが顔を上げる。
「私のこと、知ってるんですか?」
「……はい」
「どこで」
リリカは、ゆっくり息を吸った。
「幼稚園の頃から。ずっと、友達でした」
いおりは、少し困ったような顔をした。
「ごめんなさい。覚えていなくて」
その謝り方が、いおりらしいと思ってしまって、余計に胸が痛んだ。
「謝らなくていいです」
「でも」
「謝らなくていいです」
もう一度言う。
声が震えそうになったけれど、なんとかこらえた。
ここで泣いたら、いおりが困る。
それだけは分かった。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「はい」
「今、安心していますか」
いおりは少し考えた。
「安心してるかどうか、よく分からないですけど」
「うん」
「ゆめがいるから、大丈夫です」
リリカは、その答えに小さくうなずいた。
「そっか」
それだけでよかった。
覚えていてくれなくてもいい、とはまだ思えない。
思えないけれど、今、いおりが不安だけの場所にいないのだと分かった。
それだけで、全部ではなくても、少し救われた。
昼を過ぎる頃には、四人は同じ広場の端に座っていた。
風は穏やかで、井戸のそばでは水を汲む音がした。
畑の方から、土の匂いが薄く流れてくる。
増援の要請はしていない。
戦闘も、処理も、何もない日だった。
それでもななみには、今日ここに来たこと自体が、これまでの任務の続きだったように思えた。
いおりが、ななみの方を見る。
「ななみさんって」
「何ですか」
「どこかで会ったこと、ありますか」
ななみは、少しだけ間を置いた。
嘘をつく必要はない。
でも、全部を言う必要も、まだない。
「……あります」
いおりが少しだけ目を細めた。
「やっぱり。なんか、懐かしい気がして」
その一言で、ななみの胸の奥がまた小さく締まる。
覚えていない。
でも、何も残っていないわけではないのかもしれない。
「覚えていなくても、かまいません」
ななみがそう言うと、いおりは少し首を傾けた。
「でも、気になるんです。なんか、ずっとそばにいてくれた人みたいで」
答えたかった。
昔のことを。
どうして探していたのかを。ずっと会いたかったことを。
でも、言葉が多すぎた。
どれを選んでも、今のいおりに重すぎる気がした。
ななみが黙っていると、視界の端でゆめがこちらを見た。
その目は、何も急かしていなかった。
今はこれでいい、と言っているように見えた。
「ななみさん」
いおりが言う。
「何ですか」
「また来てくれますか」
その問いに、ななみは一度だけ呼吸を整えた。
今なら、はっきり言えることがひとつある。
「来ます」
「約束ですか」
「約束です」
いおりが、少しだけほっとしたように笑った。
「なんか、安心しました」
その顔を、ななみはまっすぐに見た。
今の顔を覚えておこうと思った。次に来た時、違う表情をしているかもしれない。
もっと思い出しているかもしれないし、逆に何も残っていないかもしれない。
それでも、今日ここで見た顔を、自分は忘れないでいようと思った。
夕方になると、光はやわらかくなり、村の影が少しずつ長く伸びた。
リリカは井戸のそばで、ゆめと少しだけ言葉を交わしていた。
ぎこちなさは残っている。でも、さっきまでの一方的な痛みだけではなくなっていた。
ゆめは多くを語らない。それでも、いおりの今を守っていることだけはよく分かる。
リリカにはそれがありがたくもあり、少し悔しくもあった。
自分は、いなくなった後を知らなかった。
ゆめは、その空白の時間を全部いおりのそばで生きてきた。
その差は大きい。
けれど、それでも今ここに来られたのだから、遅すぎるだけで終わらせたくはなかった。
夜、ななみは一人で外に出た。
村を離れる前の夜だった。
明日の朝には、また次の任務に向かわなければならない。
空を見上げる。
星が出ていた。
都会の近くでは見えにくい細かな光まで、この村ではちゃんと見える。
静かだった。静かすぎて、自分の呼吸の音まで聞こえそうだった。
「守れた」
ななみは、小さく呟いた。
その言葉は、いつも任務のあとに使うものと少し違っていた。
レイヤーを処理したわけではない。
誰かを霧から救い出したわけでもない。
ただ、いおりが生きていると確かめられた。
どこか遠い場所で、何も知らないまま苦しんでいるわけではないと分かった。
今、そばにいてくれる誰かがいると分かった。
それだけだった。
でも今夜は、それだけで十分だった。
守る、ということは、奪い返すことと同じではないのかもしれない。
自分の手の中に戻すことだけが、守ることではないのかもしれない。
ゆめのことを思う。
あの小さなチワワが、人の姿になって、いおりのそばにいる。
全部を覚えていて、全部を受け入れて、それでも必要以上には踏み込まない。
あれもまた、守るということなのだろう。
ななみは、自分が今まで考えていた「守る」とは別の形があるのだと、初めて少しだけ理解した。
風が吹いた。
村の明かりが遠くで温かく灯っている。
その光を見ながら、ななみは胸の内で、もう一度だけ言った。
次は、ちゃんと来る。
約束したからではなく、約束したことを守りたいと思ったからだった。
第十一話「従姉妹の記憶」--完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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