回想第三話「空白の始まり」
■ 登場キャラクター紹介
【01】いおりとゆめ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662171/
【02】ななみとリリカ
https://syosetu.com/userblogmanage/view/blogkey/3662784/
■前作「銀色の結晶」すずの記録室
※前作の登場キャラクター情報も含まれています。
https://ncode.syosetu.com/n7557ma/1/
すずの記録には、こう残っている。
「二人の喪失の記録。ななみとリリカ、それぞれの視点から。記録者:すず。協力:もか」
もかが、珍しく何も付け加えなかった。
すずが、静かに記録を始めた。
その日は、普通の日の顔をしていた。
少なくとも、朝のななみにはそう見えていた。
あれから数年後、親戚の集まりがある日だった。
いおりに会える日だった。
ななみは朝から少し浮かれていた。
今のななみからは想像もつかないくらい、ちゃんと浮かれていた。
鏡の前で、服を二回選び直した。
別に誰に見せたいわけでもない、と思いながら、それでも少しだけ気に入っている服を選んだ。
出かける前に、いおりへの土産も買った。
包みの小さなお菓子だった。甘すぎないものの方がいいような気がして、少しだけ迷って、それを選んだ。
いおりはきっと笑うだろうと思った。「ありがとう」と言うだろうと思った。
そのあとで、たぶんすぐ包みを開けようとして、大人に「あとでね」と言われるだろうと思った。
そんなふうに、会ったあとのことまで考えていた。
それくらい、その日は最初から良い日になるはずだった。
だから、親戚の家に着いた時、空気の違いがすぐに分かった。
玄関先にいた大人たちの顔が、いつもと違っていた。
笑っていない。声が低い。ひそひそと何かを話していて、ななみを見るとそこで止める。
言葉の内容は聞き取れなかった。
けれど、「聞かせたくない話をしている」ということだけは、子どもでも分かった。
ななみは靴を脱いで上がりながら、家の中を見回した。
いおりの姿がない。
縁側にもいない。居間にもいない。
庭にも、あの明るい声がない。
「いおりは?」
ななみが聞くと、近くにいた大人が一度だけ目を伏せた。
「今日は来られなかったの」
「なんで?」
「ちょっと、体の具合が悪くて」
「どんな具合が?」
大人は少しだけ困った顔をした。
「ちょっとね」
曖昧に笑った。
その笑い方が、ななみは嫌だった。
ちゃんと答える気がない時の笑い方だと思った。
「熱?」
「ううん、そういうのとは少し違うかな」
「じゃあ何」
大人はまた黙った。
それから、ななみの頭を撫でようとした。
ななみは、少しだけ後ろに引いた。
撫でられたくなかった。
誤魔化されたくもなかった。
でも、それ以上は聞かなかった。
聞いても、ちゃんとした答えが返ってこないと分かったからだった。
その日の集まりは、何も楽しくなかった。
ごちそうは並んでいたし、大人たちはいつも通りにふるまおうとしていた。
誰かがテレビをつけていたし、台所からは良い匂いもした。
けれど、ななみには全部が少しずつずれて見えた。
いおりがいないだけで、家の中の形が変わってしまったみたいだった。
ななみは庭に出た。
いつもなら、いおりが先に見つけそうなものを先に見つけても、今日は誰にも言えなかった。
池のそばにカエルがいた。少し大きくなった草花もあった。風で鳴る風鈴の音もした。
誰かに教えたかった。
「見て」と言いたかった。
でも、教える相手がいなかった。
そのことが、やけに胸に残った。
静かだった。
家の中に人はたくさんいるのに、ななみにとって大事なものだけがきれいになくなっていた。
持ってきたお菓子は、鞄の中に入ったままだった。
渡せなかった。
帰り際、玄関の近くで大人たちの話し声が耳に入った。
「施設に入ることになったらしい」
「大変ね」
「いつから?」
「もうすぐみたい」
「急だったの?」
「前から話はあったみたいだけどね」
施設。
その言葉だけが、強く引っかかった。
意味はよく分からなかった。でも、病院とも、学校とも、家とも違う場所なのだと分かった。
そして、その言葉が出る時の大人たちの顔は、誰も明るくなかった。
帰り道、ななみはほとんど何も話さなかった。
家に着いてから、両親に聞いた。
「いおりって、施設に入るの?」
両親が、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。
その短い沈黙で、ななみは答えの半分を知った。
本当のことを知っている。でも、全部は話さないつもりだ。
「……そうみたい」
「どんな施設?」
「ちょっと特別なところ」
「何が特別なの」
「色々と事情があってね」
「どんな事情?」
また、少しだけ間があいた。
ななみは、その間が嫌いだった。
その間にはいつも、「子どもには言えないこと」が入っていた。
「ななみには、まだ難しいかな」
「じゃあ、いつなら分かるの」
両親は答えなかった。
代わりに母親がやわらかい声で言った。
「心配しなくて大丈夫よ」
ななみは、その言葉がいちばん信用できなかった。
大丈夫なら、どうして誰もちゃんと説明しないのだろう。
「いつ帰ってくるの?」
その質問には、父親が答えた。
「それは……分からない」
分からない。
その言葉は、ななみにとって思っていたより冷たかった。
来週ではないかもしれない。来月でもないかもしれない。
もしかしたら、もっとずっと先かもしれない。
もしかしたら、もう今までみたいには会えないのかもしれない。
子どもだった。
でも、そのくらいのことは分かった。
ななみはそれ以上聞かなかった。
聞けば聞くほど、曖昧な言葉ばかり増えていくと分かったからだった。
部屋に戻って、鞄の中からお菓子を出した。
いおりに渡すつもりで買ったお菓子だった。
包みはきれいなままだった。
朝の自分の期待まで、そのまま包まれているみたいだった。
次に渡せばいい、と思おうとした。
でも、次がいつ来るのか分からない。
次が本当にあるのかも分からない。
そういうことだと、ななみには分かった。
引き出しを開けて、お菓子をしまった。
すぐに食べる気にはなれなかった。捨てることもできなかった。
渡せる日が来るかもしれないから。
来ないかもしれない。
でも、来るかもしれない。
その「かもしれない」に、すがるしかなかった。
その夜、ななみは泣いた。
声は出さなかった。壁の向こうに聞こえるのが嫌だった。
誰かに気づかれて、「大丈夫」と言われるのも嫌だった。
だから、布団の中で静かに泣いた。
なんで、と思った。
なんで急に。なんで教えてくれなかった。
なんで、もう会えないかもしれないのに、みんな普通の顔をしていたんだろう。
どうして自分だけ、何も知らされないのだろう。
どうして、自分は何もできないのだろう。
暗い部屋の中で、ななみは心の中で何度もいおりを呼んだ。
いおり。
いおり。
声には出なかった。
出したら、本当にいなくなってしまう気がした。
だから、心の中だけで呼び続けた。
返事は来なかった。
来ないと分かっていても、やめられなかった。
翌朝、ななみは決めた。
泣くのは、昨夜だけにする。
泣いても、何も変わらない。施設がどこにあるのかも分からない。
大人たちは教えてくれない。今の自分には、会いに行く方法がない。
ないなら、作るしかないと思った。
もう少し大きくなれば、自分で調べられる。
自分で動ける。誰かに隠されても、自分で見つけにいける。
それまでは、準備しようと思った。
泣いている時間がもったいない、と本気で思った。
その日から、ななみは少しずつ変わった。
浮かれなくなった。
余計なことを喋らなくなった。期待しすぎることをやめた。
感情を外に出すと、取られる気がした。
傷つく場所を見せると、そこから全部崩れる気がした。
だから、必要なことだけをするようになった。
必要なことだけを言うようになった。
そうしていれば、前に進める。
そうしていれば、いつか辿り着ける。
子どもなりに、それがいちばん強いやり方だと決めた。
でも、心の中だけは違った。
誰かと会う時も。勉強する時も。
走る時も。何かを覚える時も。
心の奥の静かな場所に、いおりを呼ぶ声だけは残り続けた。
いおり。
その名前は、消えなかった。
むしろ、何も言わなくなったぶんだけ、内側で形を強くした。
同じ頃、リリカも知った。
朝の教室は、いつも通りの匂いがしていた。
黒板の粉。開けたばかりの教科書。
少し湿った木の机。外から入ってくる風。
その「いつも通り」の中に、いおりちゃんだけがいなかった。
最初は、お休みだと思った。
体調を崩したのかもしれない。
次の日には来るかもしれない。そう思って、一日を過ごした。
でも次の日も、いなかった。
その次の日も、いなかった。
1学年下の教室に何度も行った。
空いた席だけが、毎日そこにあった。
リリカは何度もいおりの席を見た。
もう来るはずがないみたいに、その席は静かだった。
我慢できなくなって、先生に聞いた。
「いおりちゃん、どこ?」
先生は少しだけ驚いた顔をした。
それから、やさしい声を出した。
「転校することになったの」
「転校? どこに?」
「遠いところ」
「遠いところって、どこ?」
先生は少し困ったように笑った。
「ちょっと遠くて、会いに行くのは難しいところかな」
会いに行くのが難しいところ。
リリカは、その言葉を頭の中で何度も転がした。
遠いところ。難しいところ。転校。
どれも意味は分かるのに、並ぶと分からなくなった。
「もう会えないの?」
そう聞くと、先生はすぐに「うん」とも「違う」とも言わなかった。
「会えないわけじゃないけど……しばらく難しいかな」
しばらく。
その言葉も嫌だった。
一週間かもしれない。一か月かもしれない。
それとも、もっと長いのかもしれない。
子どもにとっての「しばらく」は、大人が言うよりずっと長い。
リリカはその頃まだそれを言葉にできなかったけれど、感覚ではもう知っていた。
家に帰って、お母さんに聞いた。
「いおりちゃんがいなくなった」
お母さんは困った顔をした。
先生と同じ顔だった。
「そうみたいね」
「なんで?」
「色々あって」
「色々って何?」
「ちょっと難しいことがあって、お引っ越しすることになったの」
「どこに?」
「遠いところ」
「会いに行けないの?」
「今は難しいかな」
「なんで」
お母さんは、すぐには答えなかった。
リリカは、その沈黙が嫌だった。
答えを探している沈黙ではなく、答えないための沈黙に感じたからだった。
「ごめんね。難しいの」
その言葉で、リリカもそれ以上は聞かなかった。
聞いても、本当のことは出てこない。
子どもでも、それくらいは分かった。
部屋に戻って、ランドセルを下ろして、しばらく動けなかった。
ついこの間まで一緒にいたのに、と思った。
この間まで、砂場で山を作っていた。この間まで、川を掘って、トンネルを作って、崩れて笑っていた。
この間まで、一緒に「地球の反対側まで掘る」と本気で言っていた。
その「この間まで」が、その日いきなり遠くなった。
なくなったわけじゃない。
でも、手が届かなくなった。
その感覚が、リリカにはつらかった。
夜になって、リリカは引き出しの奥から小石を出した。
幼稚園の頃にいおりからもらった、琥珀色の小さな石だった。
川原で拾った石。
光にかざすと少しだけ透けて見える、あの石。
いおりちゃんが、最後の頃に言った言葉を思い出した。
「これ、懐かしいね。リリちゃんがずっと持ってて」
どうして、そんなことを言ったのだろう。
どうして「一緒に持とう」でも、「返してね」でもなくて、「持ってて」だったのだろう。
リリカは石を見つめた。
もしかしたら、知っていたのかもしれないと思った。
自分がいなくなることを。しばらく会えなくなることを。
だから、自分の代わりみたいに石を渡したのかもしれない。
そう考えた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
でも、泣かなかった。
泣いたら、石が濡れる気がした。
いおりちゃんがくれたものを、悲しいだけのものにしたくなかった。
だから、両手でそっと包んだ。
小さな石は最初ひんやりしていた。
でも、握っているうちに少しずつ温かくなった。
まるで、「ちゃんと持ってるよ」と伝えてくれているみたいだった。
リリカは、そのぬくもりが消えないように、しばらくずっと握っていた。
会いに行けないなら、忘れないでいるしかないと思った。
行き先が分からないなら、こっちが覚えていればいいと思った。
いおりちゃんがいたこと。
笑い方。声。一緒に作った山。崩れた砂。石を渡してきた手。
それをひとつもなくさないようにしようと思った。
リリカの中で、その夜はそういう夜になった。
同じ日。
別々の場所で、二人は同じ子を失った。
ななみは、説明されないことに耐えながら、感情をしまうことを覚えた。
前に進むために、泣くことをやめると決めた。
リリカは、残された小石を握って、待つことを覚えた。
忘れないために、手放さないと決めた。
二人は互いを知らなかった。
ななみはリリカを知らなかった。リリカはななみを知らなかった。
それでも、同じ日に、同じ空白を抱えた。
会えなくなった理由を知らないまま。
何も選べない年齢のまま。大人の曖昧な言葉だけを渡されたまま。
そして、それぞれ違うかたちで立ち上がった。
ななみは、心の中でだけいおりを呼び続けた。
リリカは、小石を握り続けた。
二人が出会うのは、ずっと後のことだった。
でも、ここが始まりだった。
長く遠い回り道の、最初の一歩だった。
すずの記録には、最後にこう残っている。
「この記録を取った日、すずともかは、しばらく何も言わなかった」
もかが、遅れて口を開いた。
「なんか、胸が痛かった」
すずが、静かにうなずいた。
「私も、です」
もかが、すずを見た。
すずが、もかを見た。
二人はまた黙った。
黙っているあいだにも、今読んだ記憶が、部屋の中にそのまま残っている気がした。
少しして、もかが言った。
「ねえ、すずちゃん」
「何ですか」
「この記録を読んで、ななみさんとリリカさんのこと、少し分かった気がする」
「どんな風にですか」
もかは、少しだけ考えてから答えた。
「二人とも、ずっと待ってたんだよね」
すずは何も言わず、その先を待った。
「ななみさんは、会いに行けるようになる日を待ってた。たぶん、そのために自分を固くしてきた」
「はい」
「リリカさんは、いおりちゃんがくれたものを持ったまま、来る日を待ってた」
「はい」
「待ち方は全然違うけど、でも、ずっと同じ方を見てたんだね」
すずは、小さく息をついた。
「そうだと思います」
もかが言った。
「だから、あの二人、会った時にぶつかりながらも離れなかったのかな」
すずは少しだけ考えた。
「理由のひとつではあると思います」
「同じものを失った人って、分かるのかもね」
「言葉にしなくても、形で」
「うん。傷の形で」
すずは、その言葉を否定しなかった。
記録帳のページを、そっと閉じた。
紙の音が静かに鳴った。
もかが、立ち上がる。
「じゃあ、回想はここで一旦終わりだね」
「はい」
「ここから先は、もう昔の話じゃない」
「はい」
もかは窓の外を見た。
風は、止んでいなかった。
「続き、見に行こうか」
すずも同じ方角を見た。
「あの二人が、今どこまで進んでいるのか」
「いおりちゃんに、どこまで近づいてるのか」
すずは、記録帳を鞄にしまった。
「次は、本編の記録です」
もかがうなずいた。
「うん。ここからまた、今の話」
二人は、それぞれの場所で、同じ方角を見た。
待ち続けた者たちが、ようやく動き出した先を。
回想第三話:空白の始まり――完
キャラクターたちのより深い背景や『アムネシア』での誓いを知ることで、物語をより一層深く味わっていただけるかと思います。
もし彼女たちの過去に興味を持っていただけましたら、前作『銀色の結晶』も併せて手に取っていただければ幸いです。
■銀色の結晶――さよならを忘れるための、戦記。
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