第13話「式典が、一週間早まった」
急使が城に来たのは、早朝だった。
リシェルが封印された部屋での作業を終えて、道具を片付けていたときだ。
廊下の外で、慌ただしい足音がした。
カルロスが息を切らして走ってくる。
この城で三十年働いているカルロスが、走っているのをリシェルは見たことがなかった。
「奥様」
「カルロスさん、どうしたんですか」
「王都から急使が。閣下にもお伝えしたところですが、奥様にも早急にお知らせしたく」
「何があったんですか?」
「式典が、一週間早まりました」
リシェルは、手の動きが止まった。
「……一週間、早く?」
「はい。王家より正式な通達が届きました。急ぎの事情があるとのことで、予定を前倒しにすると」
「急ぎの事情」
「詳細は通達に記されていませんが……」
カルロスが、声を潜めた。
「急使の顔色が、よくありませんでした。何かよくないことが王都で起きているのかと」
リシェルは道具袋を掴んだ。
「ディルヴァルトはどこですか」
「書斎に」
「行きます」
◆
書斎に飛び込むと、ディルヴァルトは机の前に立っていた。
通達の書類を手に持ち、無言で読んでいる。
「ディルヴァルト」
「来たか」
「式典が早まったのは、アンセルの動きですか」
「おそらく」
男が書類をテーブルに置いた。
「第二王子からも別の書状が来た」
「何が書いてありましたか」
「アンセルが、呪術庫への入場申請を出したらしい。式典の前日、儀式の準備という名目で」
リシェルは息を吸った。
「式典の前日に呪術庫に入って、何かをする。そして式典当日に実行する、ということですか」
「そうだ。式典を早めたのも、俺たちの準備を整えさせないためだと思う」
「封印の修復が……」
リシェルは頭の中で計算した。
現在の進捗。
残りの作業量。
新しい式典の日程。
「間に合うか」
ディルヴァルトが、静かに聞いた。
「……ギリギリです」
「正直に言え」
「ギリギリ、と言ったのが正直です。一週間あれば、修復を終えて呪術庫に行く時間もある。でも余裕はない」
「無理をすれば?」
「無理はしません。無理をして修復の精度が落ちたら、意味がないので」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「俺も、できることをする」
「何をしますか?」
「お前の作業を補助する。城の封印全体の魔力を安定させれば、お前の修復作業の負担が減る」
「……そうですね、それは助かります」
「他に必要なことは」
「グレインさんに連絡を。呪術庫への入場申請を、王子殿下経由で取ってもらいたい。アンセルの申請より前に」
「すぐに手配する」
「あと」
リシェルは少し迷ってから、続けた。
「わたしの体の話になりますが」
「言え」
「今の状態で、封印の修復と呪術庫の強化を続けると、かなり魔力を消耗します。施術との並行は、少しペースを落とさないと」
「施術を後回しにしろ、ということか」
「そうは言ってません。でも毎夜の施術を、隔日にさせてほしい」
「それでは、俺の術式が」
「現状維持くらいは保てます。進行が止まっているから、一週間ならそれほど変わらない」
「お前の体を優先しろ、ということか」
「どちらかといえば、封印の修復を優先したいということです」
ディルヴァルトが、少しの間リシェルを見ていた。
「……わかった」
「本当に?」
「約束しただろう。お前の判断に従うと」
「はい。でも、無理をしているように見えたら、言ってください」
「言う。お前も同じにしろ」
「します」
男が頷いた。
「では、準備を始める。王都へは五日後に出発する」
「五日後」
「式典まで二日、その前日に呪術庫に入る。移動に一日かかるから、逆算してそうなる」
「わかりました」
リシェルは深く息を吸った。
「やれます」
「ああ」
「絶対に間に合わせます」
「信じている」
その一言が、リシェルの背中を押した。
◆
その日から、リシェルは作業の密度を上げた。
封印された部屋で、朝から夕方まで修復を続ける。
ディルヴァルトは約束通り、毎日立ち会って城全体の魔力を安定させてくれた。
それだけで、リシェルの消耗が目に見えて減った。
「……やっぱり、一緒にいると違いますね」
二日目の夕方、リシェルが呟いた。
「何が違う」
「魔力の流れが安定するので、無駄な消耗がない。ディルヴァルトがいると、術式を読むのが楽です」
「それは施術の効果か」
「それもありますが……なんというか、落ち着くんですよね。だから集中できる」
ディルヴァルトが、少し黙った。
「俺も同じだ」
「え?」
「お前が作業しているとき、俺も落ち着く」
「わたしが何かしてますか?」
「何もしていない。ただいる」
「ただいるだけで?」
「それで十分だ」
リシェルは手を動かしながら、その言葉を心の中に仕舞った。
ただいるだけで、十分だと。
工房では、いるだけでは足りなかった。
成果を出さなければ、認めてもらえなかった。
それ以前に、いるだけで疎まれていた。
でもここでは。
(ただいるだけで、十分だって言ってくれる)
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
◆
三日目の朝。
グレインから返信が届いた。
『呪術庫への入場申請、第二王子殿下が承認を取ってくださいました。式典前日、午前中に入場可能です。ただしアンセル卿の申請も通っており、午後に彼らが入場します。時間的な余裕はありませんが、午前中だけでも使えます。お気をつけて』
リシェルは手紙をディルヴァルトに渡した。
「午前中だけですが、入れます」
「十分か」
「状態確認と最低限の強化はできます。完璧にはできないかもしれませんが」
「最低限で十分だ」
「午後にアンセルが入ってくる。でも、午前中に強化してあれば、そう簡単には破れない」
「ああ」
「破れないように、強固にします」
ディルヴァルトが頷いた。
「もう一つ、グレインが別紙に書いていた」
リシェルが別の紙を取り出した。
『王都の状況が変わってきています。師団内でアンセル卿への批判が強まり、ルーカス上席魔術師が正式に動き始めました。ただ、アンセル卿の動きも早い。式典当日、何らかの手を打ってくる可能性が高いです。リシェル・フォーン氏は特に狙われる可能性があります。くれぐれも』
「やはり、俺だけでなくお前も標的になる」
「わかっています」
「護符を、もう一つ作る」
「もう十分です」
「足りない」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「昨夜から作っていた。今日中に完成する」
「昨夜から……」
「渡すまで黙っていようとしたが、お前は気づいてしまうから先に言う」
リシェルは少し笑った。
「嬉しいです。ありがとうございます」
「礼は受け取り終えてから言え」
「じゃあ、渡してもらったらもう一度言います」
「…………ああ」
男が、視線を逸らした。
その耳が赤い。
リシェルはそれを見て、胸がまたうるさくなるのを感じながら、作業に戻った。
◆
四日目。
封印の修復が、最終段階に入った。
第三層と第七層の繋ぎ目を、一本ずつ丁寧に繋いでいく。
母が作った繋ぎ方を、正確に再現する。
まるで、母の手の動きをなぞっているような感覚があった。
「……不思議だな」
リシェルが呟いた。
「何が」
「お母さんに会ったことがないのに、なんか、そばにいる気がして」
ディルヴァルトが、静かに答えた。
「お前の術式は、お前の母親と同じ性質を持っている。同じ動き方をする。それが術式の中に刻まれているから、お前が触れるたびに共鳴するんだろう」
「共鳴……」
「呼んでいるのかもしれない。お前を、ここへ」
リシェルは手を止めた。
「お母さんが?」
「わからない。ただ、そう思う」
リシェルは術式を見た。
母が書いた光の糸。
「ありがとう、お母さん」
小さく、声に出して言った。
返事はなかった。
でも、術式がほんのかすかに、温かくなった気がした。
◆
夕方。
繋ぎ目が完成した。
「……できた」
リシェルが手を離した。
台座の上の呪具が、かすかに光を変えた。
ずっと薄暗かった光が、少しだけ明るくなった。
「……修復完了です」
声が、少し震えた。
「自動補修の機能が戻りました。これで、多少の干渉を受けても、術式が自分で整えるはずです」
ディルヴァルトが近づいてきた。
呪具を見た。
「……光が変わった」
「気づきましたか」
「五年前に薄くなってから、ずっとこの色だった。今日初めて、元の色に近い」
その声に、何かが滲んでいた。
リシェルはディルヴァルトを見た。
男の顔が、普段より少しだけ柔らかかった。
「よかったですか?」
「……ああ」
短い返事だったが。
その目が、確かに潤んでいた。
リシェルはそれを見て、胸が締まった。
五年間。
この人は、ずっとこれを見続けていた。
薄れていく光を。
進行していく呪いを。
一人で、誰にも言えずに。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「お疲れ様でした」
男が、リシェルを見た。
「俺が疲れた、ということはない」
「五年間、一人で戦ってたじゃないですか」
「……」
「誰も来なくて、誰にも頼めなくて。それでも辺境を守り続けて」
「それは俺の役目だ」
「役目だとしても。大変だったと思います。誰も来てくれなかったのは、寂しかったと思います」
ディルヴァルトが、何も言わなかった。
「わたしが来るのが遅くなってすみません」
「お前のせいではない」
「でも、もっと早く来られればよかった。この光を、もっと早く戻せれば」
「……リシェル」
「はい」
「来てくれた。それだけで十分だ」
前に一度、言ってくれた言葉だ。
でも今夜は、少し重さが違った。
「……ありがとうございます」
リシェルは目を瞬いた。
泣きそうになるのを、堪えた。
泣くのは式典が終わってからにしよう。
今は、やるべきことがある。
「明日、出発ですね」
「ああ」
「準備は終わっています」
「俺もだ」
「王都に着いたら、色々あると思います」
「ある」
「でも、全部終わったら」
リシェルは、ディルヴァルトを見た。
「式典が終わったら、話しましょう。お互い、言いたいことを」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「……ああ」
「約束ですよ」
「守る」
「わかりました」
二人で封印された部屋を出た。
扉を閉める前に、リシェルはもう一度だけ振り返った。
修復が完了した術式が、静かに光っている。
母が作り、リシェルが続けた、封印の光だ。
(行ってきます、お母さん)
扉が閉まった。
◆
翌朝、出発の準備を終えたリシェルが城の玄関に出ると、使用人たちが見送りに並んでいた。
マーゴが、目を赤くしていた。
「奥様、お気をつけて」
「大丈夫ですよ、マーゴさん」
「王都なんて……奥様には、似合わない場所です」
「失礼ですよ、それ」
「似合わないのではなくて、勿体ないということです」
リシェルは思わず笑った。
「帰ってきます。必ず」
「お待ちしています。カルロスも、城全員が」
カルロスが深く頭を下げた。
「閣下と奥様を、信じております」
「ありがとうございます」
ディルヴァルトが馬車の前に立っていた。
リシェルが近づくと、男は無言で手を差し出した。
乗車を助けるための、形式的なしぐさだ。
でも、リシェルがその手を取ったとき。
ディルヴァルトが、一瞬だけ手を強く握った。
すぐに離した。
何も言わなかった。
リシェルも何も言わなかった。
でも、それだけで十分だった。
馬車が動き出した。
窓から、辺境の景色が流れていく。
結界の光が、朝の空に向かって輝いていた。
リシェルが直した、傷のない光だ。
(帰ってきたら、またここで仕事をする)
そう思いながら、リシェルは王都へと向かう道を、前を向いて見つめた。
第13話 了




