第12話「お母さんの、術式だ」
朝の光が、廊下の窓から差し込んでいた。
リシェルはディルヴァルトと並んで、城の奥へと歩いていた。
昨夜は思ったより眠れた。
母のことが頭から離れなかったのに、不思議と穏やかな眠りだった。
泣くかと思っていた。
でも、泣かなかった。
代わりに、胸の中に静かな決意が積み重なっていた。
「準備はいいか」
ディルヴァルトが聞いた。
「はい」
「無理はするな」
「しません。ただ見るだけです」
「見るだけで終わらない予感がするが」
「……バレてましたか」
「お前が『ただ見るだけ』と言うとき、大抵そうではない」
リシェルは苦笑した。
「そんなに読まれてるんですね、わたし」
「一ヶ月以上、毎日見ていれば」
封印された部屋の前に着いた。
見張りの使用人が二人、扉の前に立っていた。
ディルヴァルトの顔を見て、無言で脇に退く。
重厚な黒い扉。
幾重もの術式が刻まれた、あの扉だ。
リシェルはゆっくりと近づいた。
手を伸ばして、封印の外側に触れてみる。
ざわり、と術式が反応した。
でも今日は違う感覚があった。
まるで、懐かしいものに触れたような。
「……開けていいですか」
「俺が先に入る」
「わかりました」
ディルヴァルトが封印の鍵となる術式を展開した。
複雑な光のパターンが空中に描かれ、扉の術式が応答する。
重い音がして、扉がゆっくりと開いた。
◆
冷たい空気が流れ出てきた。
リシェルは目を細めた。
部屋の中は暗かった。
ディルヴァルトが魔術灯を展開すると、少しずつ内部が見えてきた。
狭い部屋だった。
壁に術式が刻まれている。
床にも、天井にも。
部屋全体が、一つの封印装置になっている。
中央に、台座があった。
その上に、呪具が置かれていた。
黒い金属でできた、手のひらほどの大きさのもの。
見た目は地味だが、近づくだけで、強烈な魔力の圧を感じる。
「これが……」
「ディルヴァルト家に代々伝わる、封印の要だ。これが正常に機能していれば、王家の呪術庫の外側の守りは完全だ」
「五年前の侵入者が、これを壊そうとした」
「完全には壊せなかったが、術式に亀裂が入った。それがお前の呪いの一因でもある」
「ならここを修復すれば、呪いの進行が止まる可能性が」
「可能性がある」
リシェルは一歩、部屋に踏み込んだ。
台座の前に立ち、呪具を見る。
水晶片を取り出して、術式の状態を確認する。
そして。
「……っ」
息が止まった。
◆
術式が、見えた。
いや、正確には以前から見えていた。
でも今日は違う。
封印の術式の中に、別の術式が織り込まれていた。
まるで、後から誰かが書き加えたような。
それは。
(これは)
リシェルの手が、かすかに震えた。
「どうした」
ディルヴァルトが近づいてきた。
「……少し待ってください」
リシェルは目を閉じた。
魔力を研ぎ澄ます。
もう一度、術式を丁寧に読んでいく。
封印の術式。
それに重なるように織り込まれた、別の術式。
その術式の組み方が。
構造が。
「リシェル」
「……これ」
声が、かすかに揺れた。
「この術式の組み方……わたしの修復術と、同じです」
「何?」
「全く同じじゃない。でも、根本的な組み方が。同調する性質の術式で、相手の波長に合わせて構造を読む組み方で」
リシェルは目を開けた。
「……これを書いた人は、わたしと同じ術式の特性を持っていた」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「お前の母親が、この城を訪れたことがある」
「え?」
「二十六年前だ。王家の修復士として、定期的にこの封印を確認していた。その記録が、城の文書庫にある」
「二十六年前……わたしが生まれる前」
「ああ」
「お母さんが、ここに来ていたんですか」
「何度も。封印の状態を確認し、劣化した部分を補修していた。この術式の一部も、お前の母親が書いたものだ」
リシェルは台座の前に膝をついた。
呪具に触れるのではなく、ただ、その術式を間近で見る。
複雑に織り込まれた光の糸。
その一本一本が、二十六年以上前に、見知らぬ誰かの手で書かれた。
でも見知らぬ誰かじゃない。
(お母さんが、ここにいた)
リシェルは術式に手をかざした。
触れているわけではない。
でも、この術式から、温かいものが伝わってくる気がした。
「……綺麗な組み方をしてる」
思わず声に出た。
「丁寧で、強くて……わたしより、ずっと上手い」
「そうか」
「この部分、見てください」
リシェルがディルヴァルトを振り返った。
「封印の第三層と第七層を、独自の糸で繋いでいます。こうすることで、外からの干渉に対して自動的に補修される仕組みになっている。これ、すごく頭いい」
「お前の母親の発明か?」
「たぶん。わたしは思いついたことがなかった。でも確かに、この組み方なら……あ」
リシェルが、別の部分に気づいた。
「ここが、五年前の侵入者に壊された箇所ですね。第三層と第七層の繋ぎ目が、切られている」
「そうだ」
「つまり、ここを直せば、自動補修の機能が戻る。封印全体の強度が、大幅に上がる」
「できるか」
「できます。でも」
リシェルは術式を読み続けた。
「少し時間がかかります。お母さんの術式の組み方を、全部理解してから修復したい。力任せにやって、別の部分を壊したくないので」
「急がなくていい」
「式典まで五週間ありますね。三週間あれば、できると思います」
「一人でやるな」
「一緒にいてくれますか?」
「毎日来る」
「ありがとうございます」
リシェルは、もう一度術式を見た。
母が書いた術式。
母が守ろうとしたもの。
(お母さん、わたしが続きをやります)
声に出さずに、心の中だけで言った。
◆
その日の午後から、リシェルは封印された部屋に通い始めた。
最初の数日は、ただ読むだけだった。
術式を読んで、記録して、構造を把握する。
母が何を考えてこの術式を組んだか。
どんな意図で、第三層と第七層を繋いだか。
読めば読むほど、母の思考が見えてくるようだった。
丁寧で、慎重で、でも大胆なところもある。
(あ、ここ面白い)
思わず笑ってしまう瞬間もあった。
普通なら絶対にこう組むはずの術式を、意図的に逆から組んでいる。
そのほうが、干渉を受けたとき崩れにくいからだ。
誰に教わったのだろう。
それとも、自分で気づいたのか。
「また笑っているな」
ディルヴァルトが、壁際に立ったまま言った。
「母の術式が、面白くて」
「面白い?」
「修復士的に、という意味です。独創的で、頭がいい。わたしにはない発想がある」
「お前も十分独創的だが」
「そうですか?」
「外の結界の修復も、お前のやり方は他の修復士とは違う。師団の記録にも、そう書いてある」
「師団の記録まで見たんですか」
「調べた。お前を雇う前に」
「……徹底してますね」
「当然だ」
ディルヴァルトが近づいてきて、リシェルの手元を覗いた。
「どこまで読めた」
「全体の七割くらいです。残り三割が、一番複雑な部分で」
「時間がかかるか」
「明後日くらいには全部読み終えられると思います。そこから修復に入れます」
「無理をするな」
「してません。でも、早くしたい気持ちはあります」
「なぜ」
「早く直して、ディルヴァルトの呪いも楽にしてあげたいから」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「俺のためか」
「もちろん、アンセルの計画を崩すためでもありますが。でも、一番はそれです」
「……お前は」
「何ですか?」
男が、言いかけて止まった。
「……何でもない」
「また言いかけてやめた」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないです。最近、増えてますよ。言いかけてやめること」
ディルヴァルトが視線を逸らした。
リシェルはそれ以上追及しなかった。
追及したら、きっとこの人は困る。
でも、いつか。
全部聞ける日が来ると、思っていた。
◆
三日後の夜。
リシェルはようやく、母の術式の全体像を把握した。
記録を見返しながら、ランプの前で図を描く。
「……お母さんは、何を見つけたんだろう」
独り言が漏れた。
ライナーは言っていた。
母は、呪術庫の中で何かを発見した、と。
その発見が、母の命を奪った。
何を見つけたのか。
リシェルは封印の術式の記録を眺めた。
母が書いた部分に、普通の封印術式ではない何かが混じっている。
読んでいたときから気になっていたが、後回しにしていた部分だ。
「……これは」
目が止まった。
封印の術式の中に、まるで暗号のように织り込まれた、別のメッセージ。
修復士でなければ気づかない。
術式を読める人間でなければ、ただの模様に見える。
でもリシェルには、読めた。
それは言葉だった。
◆
『この封印の下に、真実がある。
解いてはならない、けれど、知らなければならない。
わたしの後を継ぐ者へ――』
リシェルは固まった。
わたしの後を継ぐ者へ。
震える手で、続きを読んだ。
『呪術庫の核心は、封印の中にはない。
本当の鍵は、公爵家の血と、修復士の術が交わる場所にある。
百五十年前、二つの家が選んだ方法を、忘れないこと。
愛が、すべての封印の根拠だ』
それで、メッセージは終わっていた。
「……愛が、封印の根拠」
リシェルは声に出してみた。
意味が、すぐにはわからなかった。
百五十年前、二つの家が選んだ方法。
公爵家の血と、修復士の術が交わる場所。
「何が書いてあった」
扉の方から声がした。
ディルヴァルトが、部屋の入り口に立っていた。
「読んでいたのか?」
「……いや、お前の顔が変わったから」
リシェルは記録をディルヴァルトに向けた。
「ここです。術式の中に、メッセージが隠されていました」
ディルヴァルトが近づいて、記録を見た。
読んでいる間、その顔が少しずつ変わった。
「……知っていましたか、これ」
「知らなかった。初めて見る」
「お母さんが書き残したんだと思います」
「百五十年前、二つの家が選んだ方法……」
ディルヴァルトが、静かに呟いた。
「ディルヴァルト、心当たりがありますか?」
「……一つだけ、家に伝わる話がある」
「どんな話ですか?」
男が、記録から顔を上げた。
その目が、何かを考えている色をしていた。
「百五十年前、禁忌の呪術を封印した際、王家の術士とディルヴァルト家の術士は、単に術式を組んだだけではなかった、という話だ」
「どういう意味ですか?」
「二人は……夫婦だった、と言われている」
リシェルは目を見開いた。
「夫婦?」
「王家の術士と、公爵家の術士。二人の魔力が交わることで、封印に特別な強度が生まれた。愛を誓った二人の間にしか生まれない、特殊な魔力の共鳴が」
「……それが、封印の根拠、ということ?」
「古い話だ。信じるかどうかは別として」
リシェルは黙った。
頭の中で、点と点が繋がっていく。
公爵家の血と、修復士の術が交わる場所。
わたしの術式は、ディルヴァルトの魔術と同調する。
それは偶然じゃなかったのかもしれない。
「……ディルヴァルト」
「何だ」
「一つ、馬鹿みたいなことを言ってもいいですか」
「言え」
「もしかして、わたしがここに来たのって、偶然じゃなかったのかもしれないですね」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「どういう意味だ」
「お母さんは、この封印を守っていた。そしてメッセージを残した。わたしの後を継ぐ者へ、って」
「ああ」
「ディルヴァルトは、三年前からわたしを探していた。わたしの術式の特性を知って」
「そうだ」
「百五十年前と、今が……似てる気がして」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
「都合よく考えすぎかもしれませんが」
「都合よくはない」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「俺も、同じことを考えていた」
「え?」
「お前がここに来た日から、ずっと」
リシェルは息を吸った。
「ずっと?」
「お前の術式が、俺の魔術と噛み合ったとき……これは偶然ではないと思った」
「それは」
「修復士とディルヴァルト家の術士の組み合わせ。百五十年前と同じだ」
ランプの炎が、揺れた。
二人の影が、壁に重なった。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「今、わたしに言いたいことがありますよね」
男が、リシェルを見た。
「……ある」
「言ってもいいですよ」
「今は言わない」
「なぜですか」
「式典が終わってから言う。それまでは」
「それまでは?」
「混乱させたくない」
リシェルは少し笑った。
「ディルヴァルトが、わたしのことを混乱させないようにしてくれるんですか」
「お前が混乱すると、仕事の精度が落ちる」
「それが理由ですか?」
「……それだけではない」
「正直ですね」
「嘘をつかないと言った」
「そうでしたね」
リシェルはランプの光を見た。
式典が終わったら、聞ける。
それまで、この気持ちをどうしておけばいいのか、少し困ったが。
「わかりました。式典が終わったら、聞かせてください」
「ああ」
「わたしも、そのときに言いたいことがあります」
ディルヴァルトが、わずかに目を見開いた。
「……お前も」
「はい。だから、お互い式典まで取っておきましょう」
男が、少しの間リシェルを見ていた。
「……わかった」
「約束ですよ」
「ああ」
二人は封印された部屋を出た。
扉を閉めながら、リシェルはもう一度だけ振り返った。
お母さん。
あなたが守ろうとしたものを、わたしが続きます。
そして。
(百五十年前と同じかどうかは、まだわからないけれど)
リシェルはそっと、胸の護符に触れた。
ディルヴァルトが作ってくれた護符。
これを受け取ったとき、もしかしてと思った。
今は、もう少し確かな気がしている。
◆
翌日から、本格的な修復作業が始まった。
呪具本体には触れない。
あくまで、周囲の術式を修復する。
母の術式を読み解きながら、リシェルは丁寧に、一層ずつ壊れた部分を整えていった。
ディルヴァルトが毎日、部屋の入り口で立っている。
離れた位置から見守りながら、魔力の流れを安定させてくれる。
その存在が、作業の支えになっていた。
四日目。
「……繋ぎ目が見えてきた」
リシェルが呟いた。
第三層と第七層の繋ぎ目。
五年前に切られた部分だ。
「ここを直せば、自動補修の機能が戻ります」
「どれくらいかかる」
「二日……いや、一日半あれば」
「明後日の午前には終わるか」
「終わります」
ディルヴァルトが頷いた。
「終わったら、俺に言え」
「はい」
「すぐ来る」
「また探しに来てくれるんですか」
「当然だ」
リシェルは手を動かしながら、少し笑った。
当然だ、と言う。
当然にしてくれている、ということだ。
わたしのことを、心配してくれるのが、当然だと。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「今日は帰らなくていいですよ、もうすぐ終わりますから」
「わかった」
男が、壁に背を預けた。
静かに、ただそこにいる。
その存在が。
温かかった。
◆
その夜の施術のとき、ディルヴァルトが言った。
「進んでいるな」
「何が?」
「呪いが。薄くなっている」
「本当ですか?」
「お前には見えないのか」
「自分で感じるんですか」
「感情が、戻ってきている」
リシェルは手を止めた。
「感情が?」
「施術を始めてから、少しずつ。今日は特に」
「封印の修復が進んだからかもしれません。呪いの根に繋がっていた部分が、少し解けてきているのかも」
「そうかもしれない」
ディルヴァルトが、静かに続けた。
「怒りが戻ってきた。喜びも、少しずつ」
「それは……よかったです」
「嬉しいとは言えないのか」
「嬉しいです、とても。ただ」
「ただ?」
「感情が戻ってきたとき、辛くなったりしませんか。長い間感じられなかったものが急に戻ってきたら」
ディルヴァルトが、少し間を置いた。
「……辛いことも、ある」
「何が辛いですか」
「後悔だ」
「後悔?」
「呪いが進行していた間、感じられなかったものがある。感じるべきだったのに、感じられなかった。それが今、少しずつわかってくる」
「それは……」
「ただ」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「お前のことは、最初から感じていた」
「え?」
「呪いの中でも、お前に関することだけは、感情が動いた。不思議だと思っていた」
「それは……施術の効果では?」
「施術を始める前から、そうだった」
リシェルは何も言えなかった。
「……手を、繋いでいいか」
ディルヴァルトが、静かに聞いた。
「施術のためではなく」
リシェルの胸が、強く打った。
「……はい」
大きな手が、リシェルの手を包んだ。
温かかった。
施術のときとは違う、ただの温もりだった。
「式典が終わったら」
「はい」
「全部、話す」
「聞きます」
「それまで待っていてくれるか」
リシェルは、繋いだ手を見た。
それから、ディルヴァルトを見た。
「待ちます」
短く、でも確かに答えた。
男の手が、少しだけ強く握り返してきた。
ランプの光が、二人の間で揺れた。
封印された部屋の奥で、母の術式が静かに光っていた。
第12話 了




