第11話「あなたの過去を、全部知っている」
バルデン男爵は、想像していたより気さくな人物だった。
五十代くらいの、恰幅のいい男性で、太い眉と人のよさそうな目をしている。
ディルヴァルトに対しては礼儀正しく、リシェルには「若い奥方だ、辺境へようこそ」と屈託なく言った。
「結界が直ったと聞いて、領内がどれほど安心したか」
バルデンが紅茶を手に言った。
城の応接室。
ディルヴァルトとリシェルが並んで座り、向かいにバルデンと、その副官らしき男が座っている。
「先月の魔獣の群れの後、ずっと不安だったんです。修復士が来てくれないと聞いて、うちの領民も怖がっていた。それが今は、結界がぴかぴかで」
「大げさですよ」
リシェルが言うと、バルデンが目を丸くした。
「謙遜される必要はありません。三年ぶりに完全な光が見えたと、領民みんなが言ってます」
「それは……よかったです」
「辺境の人間にとって、結界は命綱ですから。奥方が来てくださって、本当によかった」
バルデンが、ディルヴァルトを見た。
「閣下、いい奥方を連れてこられました」
ディルヴァルトが短く「ああ」と答えた。
それだけだったが、その一言に何かが込められている気がして、リシェルは思わず横を見た。
ディルヴァルトは前を向いていた。
だが、その耳が少し赤い。
(また赤い)
リシェルは視線を前に戻した。
◆
歓談が続く中、リシェルはふと、部屋の隅に視線が引き寄せられた。
バルデンの副官が、ずっとリシェルを見ていた。
最初は気のせいかと思っていた。
でも違う。
明らかに、こちらを観察している目だった。
(誰だろう)
バルデンの副官と紹介されたが、来たときから何か違和感があった。
バルデンとの馴染み方が、長年仕えた部下の空気ではない。
リシェルは修復士として、相手の魔力の色を無意識に読む癖がある。
その男の魔力は、バルデン領のものではなかった。
もっと、都会の、研ぎ澄まされた魔力だ。
(王都の人間?)
リシェルは悟られないように、会話を続けながら観察を続けた。
男は三十代くらい。
整った顔立ち。
笑ってはいるが、目が笑っていない。
何者だろう。
◆
一時間ほど歓談した後、バルデンが「城内を少し見てもいいか」と言い出した。
ディルヴァルトがカルロスに案内を頼み、バルデンと共に立ち上がる。
リシェルも立ち上がろうとしたとき。
「奥方は、少しよろしいですか」
副官の男が、静かに言った。
リシェルは笑顔のまま、男を見た。
「何でしょう?」
「二人でお話ししたいことがあります」
ディルヴァルトがリシェルを見た。
その目が、少し鋭くなっている。
「リシェル」
「大丈夫です」
リシェルはディルヴァルトに頷いた。
護符が首にある。
何かあればすぐに伝わる。
ディルヴァルトが一瞬だけ間を置いてから、バルデンと共に部屋を出た。
応接室に、リシェルと男の二人が残された。
◆
「単刀直入に申し上げます」
男が、先ほどの穏やかな表情から一変して、真剣な目をした。
「わたしはバルデン男爵の副官ではありません」
「知ってます」
「……気づいていましたか」
「魔力の色が違います。辺境の人間じゃない。王都出身ですよね?」
男が、少しだけ目を細めた。
「さすが修復士ですね。隠せなかった」
「どちらの方ですか?」
「第二王子殿下の、側近を務めております。ライナーと申します」
リシェルは少し驚いた。
第二王子。
ディルヴァルトが繋がりを持つと言っていた人物だ。
「第二王子殿下が、なぜわたしに?」
「あなたのことを、殿下が知りたがっていらっしゃいます」
「なぜですか?」
「ディルヴァルト公爵の呪いを、唯一制御できる修復士として。そして……アンセル卿が、あなたを追放した理由を知ったから、です」
リシェルは背筋を正した。
「聞かせてもらえますか」
「その前に、一つ確認させてください」
ライナーがリシェルを見た。
「あなたは今、ここに留まることを望んでいますか? それとも、名誉回復の後、王都へ戻ることを?」
「留まります」
即答だった。
「理由は?」
「仕事があるからです。それと、ここにいたい理由がある」
ライナーが、リシェルの目をじっと見た。
何かを確かめるような目だった。
「……殿下は、あなたのことを信用してもよいと判断されています。だからわたしをここへ寄越した」
「殿下が直接来られなかったのは?」
「式典まで動きを制限されているためです。アンセル卿の監視が、今は特に厳しい」
「なるほど」
ライナーが、懐から一枚の書類を取り出した。
「これを、ご覧ください」
リシェルはそれを受け取った。
見た瞬間、目が止まった。
◆
書類には、王都の記録が記されていた。
魔術工房の運営記録と、資金の流れ。
そして――リシェルの名前。
「これは……」
「六年前の記録です」
ライナーが静かに言った。
「あなたが工房に入ったとき、工房長ギルフォードはある人物から、あなたの動向を監視するよう依頼されていました」
「監視……?」
「六年前から、ずっとです」
リシェルは書類を持つ手に、力が入るのを感じた。
「誰に依頼されたんですか」
「アンセル卿、ではありません」
ライナーが、目を伏せた。
「アンセル卿より、上の人物です」
「上……」
「王家の、一部の人間です」
沈黙が落ちた。
リシェルは書類から顔を上げた。
「それは、どういう意味ですか」
「あなたの修復術は、特殊です」
ライナーが続けた。
「相手の魔術構造に同調する、あの術式。実は、非常に稀なものです。百年に一人、出るかどうかという才能だ」
「そんな大げさな」
「大げさではありません。その証拠に」
ライナーが、書類を指した。
「あなたの術式の特性は、ディルヴァルト公爵の呪いを唯一制御できる。それだけじゃない」
「……他に何があるんですか」
「王家の呪術庫に眠る、ある封印を解ける可能性があります」
リシェルは息を吸った。
「王家の呪術庫」
「ディルヴァルト公爵から、その話は?」
「少しだけ。アンセル卿が狙っているという話は聞きました」
「アンセル卿が狙っているのは事実です。ただ、真の目的は少し違います」
ライナーが、リシェルを見た。
「アンセル卿は、呪術庫の中にある封印を解きたいのではない。その封印を守っている術式を壊し、中に封じられているものを取り出したい」
「中に封じられているもの……それは何ですか」
「かつて、王国を滅ぼしかけた禁忌の呪術です」
◆
静寂。
窓の外で風が鳴った。
リシェルは、ゆっくりと息を整えた。
「王国を滅ぼしかけた、禁忌の呪術」
「百五十年前に封印されました。当時の国王と、ディルヴァルト家の先祖が協力して」
「……ディルヴァルト家が」
「辺境公爵家は、代々その封印の外側を守ってきた。王家が内側を、公爵家が外側を。二重の守りです」
リシェルは頭の中で、これまでの話が繋がっていくのを感じた。
ディルヴァルト家の血統魔術が封印に特化している理由。
封印された部屋の呪具。
五年前の侵入者が呪具を狙った理由。
「アンセル卿は、その禁忌の呪術を取り出して、何をするつもりですか」
「国の権力構造を、根底から変えるつもりです」
ライナーが静かに言った。
「今の王家を倒し、自分たちの傀儡を立てる。そのために、百五十年前と同じように、国を一度混乱させようとしている」
「そのためにディルヴァルトの呪いを進行させて、辺境防衛を崩そうとしていた」
「そうです。辺境が崩れれば、魔獣が侵入する。国土が荒廃する。そのどさくさで」
「ひどい」
リシェルは思わず言葉が出た。
「人が死ぬじゃないですか。辺境に住んでいる人たちが、魔獣に」
「アンセル卿にとって、辺境の民は計算の外です」
「……最悪だ」
ライナーが、リシェルを見た。
「だから殿下は、あなたに協力を求めたいのです」
「わたしに何ができますか」
「あなたの術式は、王家の呪術庫の封印を強化できる可能性があります。アンセル卿が式典で何かをする前に、封印を二重にしておきたい」
「でも、式典まであと五週間です」
「その間に、殿下が呪術庫への入場許可を取る。あなたに中を確認してもらい、必要なら修復と強化を」
「……できます。やります」
「話が早い」
「でも一つ、確認させてください」
リシェルは真っ直ぐにライナーを見た。
「殿下はディルヴァルトのことを、どう思っていますか」
ライナーが少し間を置いた。
「……殿下は、閣下に頭が上がりません。命を救ってもらったことを、今も感謝しています。今回の件も、閣下を助けたいという気持ちが一番にあります」
「それが聞けてよかった」
「なぜですか」
「ディルヴァルトを利用するための話なら、協力しなかったので」
ライナーが、目を細めた。
「……あなたは、閣下のことを大切に思っているんですね」
「仕事ですから」
「本当に、仕事だけですか?」
リシェルは少し黙った。
「……仕事だけではないかもしれません。でも、今は関係ない話です」
「そうですね。失礼しました」
ライナーが立ち上がった。
「殿下からの伝言をもう一つ。あなたの過去について、もう少し詳しい話があります」
「過去、とは」
「六年前から監視されていた理由。なぜあなたの術式の特性が、一部の人間に知られていたか」
リシェルは立ち上がりながら、ライナーを見た。
「教えてもらえますか」
「式典で直接、殿下から聞いていただきたい」
「それは……」
「もう一つだけ言えることがあります」
ライナーが、リシェルの目を見た。
「あなたの母親について、殿下はご存知です」
◆
リシェルの体が、固まった。
「……母を、ご存知?」
「詳細は式典で。ただ、一つだけ」
ライナーが静かに言った。
「あなたの修復術の特性は、生まれ持ったものではありません」
「どういう意味ですか」
「受け継いだものです」
「誰から……」
「それも、式典で」
ライナーが深く頭を下げた。
「本日はありがとうございました。バルデン男爵には、今日のことは秘密にしてもらっています。信用できる方ですが、余計な危険を背負わせたくない」
「わかりました」
「では、また王都で」
ライナーが扉に向かった。
「待ってください」
リシェルが呼び止めた。
「最初に、わたしの過去を全部知っていると言いましたね」
「はい」
「何を知っているんですか」
「あなたの工房での六年間。追放の経緯。それから……」
ライナーが、扉の前で振り返った。
「あなたが本当は何者か、ということも」
扉が閉まった。
◆
リシェルは一人、応接室に残された。
頭の中が、情報で溢れていた。
王家の呪術庫。
百五十年前の禁忌の呪術。
アンセルの真の目的。
そして。
(母のこと)
リシェルは、幼いころに母を亡くしていた。
記憶もほとんどない。
父は母について話したがらなかった。
だから、自分の過去については、空白が多かった。
その空白が、王家に関係している?
あなたは本当は何者か。
ライナーの言葉が、頭の中で繰り返された。
「リシェル」
背後から声がした。
振り返ると、ディルヴァルトが扉の前に立っていた。
いつの間に戻ってきたのか。
「バルデン男爵は?」
「帰っていただいた」
「そうですか」
「ライナーと話したな」
「はい。色々と」
「聞いてもいいか」
「全部話します」
リシェルはディルヴァルトを見た。
「一つ、先に確認させてください」
「何だ」
「わたしの過去について、ディルヴァルトは何か知っていましたか」
ディルヴァルトが、少し間を置いた。
「……少しだけ」
「やっぱり」
「怒っているか」
「怒ってません。でも、聞かせてください」
ディルヴァルトが椅子を引いた。
二人で向かい合って座る。
男が、静かに口を開いた。
「お前の母親は、修復士だった」
「……知ってました、それは。父から少しだけ聞いていたので」
「王都で働いていた修復士だ。ただ、それだけではない」
「それだけではない?」
「王家に召し抱えられた修復士だった。二十五年前に、王家の呪術庫の管理を任されていた」
リシェルは息を呑んだ。
「呪術庫の管理を……」
「ある時期から突然、消えた。理由は公式には病死とされているが、実際は違う」
「違うとは、どういう」
「お前の母親は、呪術庫の中で何かを発見した。それを誰かに告げようとして……消された」
◆
沈黙。
リシェルは声が出なかった。
消された。
その言葉の意味が、じわじわと体に染みていく。
「……誰に?」
「まだわかっていない。二十五年前の話だ。関係者の多くが、既に死んでいる。あるいは、口を塞がれている」
「アンセル卿と関係がありますか」
「アンセルはまだ若い。二十五年前は、その親の代の話だ。だが、繋がっている可能性はある」
リシェルは、自分の手を見た。
この手で修復術を使うとき、いつも母のことを思い出していた。
同じ仕事をしていた母のことを。
「……母が、呪術庫で何かを発見した。それで消された。その発見が、今のアンセルの行動に関係している?」
「おそらく」
「わたしが監視されていたのは、母の子だから?」
「お前が、母と同じ術式の特性を持っているから。その特性は、呪術庫の封印に干渉できる。使い方によっては、封印を強化することも、解くこともできる」
「だから、アンセルはわたしを追放した」
「お前が辺境に来てしまえば、アンセルは焦る。術式の使い方次第で、計画が崩れるから」
リシェルは深く息を吸った。
「……整理します」
自分に言い聞かせるように、声に出した。
「アンセルは百五十年前の禁忌の呪術を取り出したい。そのためには呪術庫の封印を破る必要がある。ディルヴァルトの呪いを進行させて、外側の守りを崩そうとしていた。わたしの術式は封印を強化できるから、邪魔になると思って追放した。でもわたしはここに来て、ディルヴァルトの術式を安定させ始めた。アンセルにとって、これは計算外だった」
「そうだ」
「だから焦っている。式典での一手を、前倒しにしようとしている可能性がある」
「ライナーがそこまで話したか」
「大体は。詳細は式典で第二王子殿下から聞く、と」
ディルヴァルトが頷いた。
「殿下は信用できる。母上を亡くしてから、王家の腐った部分を変えたいと動いている」
「わかりました」
リシェルは、ゆっくりとディルヴァルトを見た。
「一つだけ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「わたしの母のことを知っていながら、なぜ最初から話してくれなかったんですか」
ディルヴァルトが、少し間を置いた。
「……確信が持てなかった。お前の母親と、お前の術式が繋がるという確信が。それに」
「それに?」
「お前が来てすぐに過去の話をしても、混乱するだけだと思った」
「それは……そうかもしれませんが」
「今は話せる」
「今は、って」
「お前が、ここに根を張り始めているから」
リシェルは、その言葉を飲み込んだ。
根を張り始めている。
「……そう見えますか」
「見える」
「ディルヴァルトには、色々と見えすぎますね」
「お前が、見せているんだ」
リシェルは小さく笑った。
「そうですね。隠せないので」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
その目が、いつになく優しかった。
「リシェル」
「はい」
「今夜は、無理に施術しなくていい」
「でも」
「今日は疲れただろう。話も多かった」
「それくらいでは」
「いい」
また、有無を言わせない口調だった。
でも今日は、その言葉がひどく温かく感じた。
「……わかりました。今日は早めに休みます」
「ああ」
「ディルヴァルト」
「何だ」
「母のことを、また教えてください。知っていることを、全部」
「ああ」
「ありがとうございます」
リシェルが立ち上がると、ディルヴァルトも立ち上がった。
自然に、並んで廊下へ出る。
夜の廊下。
二人分の足音。
「ディルヴァルト」
「何だ」
「わたし、強くなります」
「元から強い」
「もっと強く。式典で、ちゃんと戦えるように」
ディルヴァルトが、前を向いたまま言った。
「俺もいる」
「わかってます」
「一人で戦おうとするな」
「しません。隣にいてもらいます」
「……ああ」
廊下の窓から、結界の光が見えた。
完全に輝く、傷一つない光。
リシェルが直した結界だ。
次は、もっと大きなものを直す。
母が守ろうとして、守りきれなかったものを。
今度は、わたしが。
第11話 了
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