第10話「辺境公爵の妻は、凄腕の修復士らしい」
噂というものは、恐ろしい速さで広まる。
リシェルが辺境に来てから、一ヶ月が経っていた。
その間に、王都では何かが変わり始めていた。
グレインから届く手紙の内容が、回を重ねるごとに変化していた。
最初は「調査が進んでいます」という報告だった。
それが「工房長への聴取が始まりました」になり、「師団内でリシェル・フォーン氏の名前が話題になっています」になった。
そして今日届いた手紙には、こう書かれていた。
『王都では今、奥様のことが噂になっています。辺境公爵の妻が、三年間誰も手をつけられなかった結界を一日で直したと。貴族の間でも、話が広まっているようです』
リシェルはその手紙を、朝食のテーブルで読んでいた。
「……どうした」
向かいに座ったディルヴァルトが、リシェルの顔を見て言った。
「グレインからの手紙です。王都で噂になってるって」
「お前のことか」
「そうみたいです。辺境公爵の妻が凄腕の修復士、みたいな感じで」
ディルヴァルトが、かすかに眉を動かした。
「それで、どんな顔をしているんだ」
「どんな顔してますか、わたし」
「困っている顔だ」
「困ってるというか……慣れてなくて」
リシェルはパンを手に取った。
「褒められることに、慣れてないんです。工房では、成果を出すほど嫌われていたので」
ディルヴァルトが、静かにリシェルを見た。
「慣れろ」
「簡単に言いますね」
「事実だからだ。お前は腕がいい」
「……ありがとうございます」
「礼を言うな。事実を言っているだけだ」
リシェルは少し笑った。
この人は、褒めているのに「褒めていない、事実だ」と言う。
それがかえって、どんな褒め言葉より重く感じる。
「でも、噂になると面倒なことも増えますよね」
「増えるだろう」
「アンセル卿も、気にすると思います」
「それでいい」
ディルヴァルトが、紅茶のカップを置いた。
「アンセルを焦らせることが、今は重要だ。余裕を持って動かれるより、こちらの都合で動かしたほうがいい」
「なるほど。噂も、計算のうちですか」
「一部はな。グレインにも少し動いてもらった」
「グレインさんに?」
「師団内で、お前の評判を意図的に広めるよう頼んだ」
リシェルは少し呆気にとられた。
「……それは聞いてませんでした」
「事後報告になったな」
「事前に言ってください」
「すまない」
謝った。
ディルヴァルトが謝るのは珍しい。
リシェルが驚いていると、男が続けた。
「お前に関わることを、勝手に動かすべきではなかった」
「いや、方針としては正しいと思うんですが……ただ、わたしも当事者なので、一緒に考えたかったです」
ディルヴァルトが、少し間を置いた。
「……今後は相談する」
「ありがとうございます」
リシェルはパンを一口食べた。
本当に、この人は変わった。
最初のころは、全部一人で抱えて、全部一人で決めようとしていた。
でも今は、少しずつ、こちらの言葉を聞こうとしてくれる。
呪いの進行が緩やかになったせいもあるかもしれない。
感情が少しずつ戻ってきているせいもあるかもしれない。
でも、それだけじゃない気がした。
◆
食後、リシェルは今日の仕事に向かおうとした。
城内の呪具台帳の整備と、補修が必要なものの修復だ。
地道な作業だが、城の防衛力を底上げするには欠かせない。
廊下に出たとき、マーゴに呼び止められた。
「奥様、少しよろしいですか」
「はい、何でしょう」
「あの、これを」
マーゴが差し出したのは、一枚の招待状だった。
「近隣の領主の方から届きました。奥様に、ぜひご挨拶に、とのことで」
リシェルはそれを受け取った。
バルデン男爵、とある。
辺境の隣の領地の領主だ。
「……来客の対応って、どうすればいいですか?」
「通常は奥様がお受けになります。ただ、閣下にもお伝えしたほうが」
「そうですね。あとで相談してみます」
マーゴが、少し嬉しそうな顔をした。
「奥様、すっかりここに慣れてくださいましたね」
「そうですか?」
「ええ。最初のころは、もう少し遠慮がちでいらっしゃいましたよ。最近は城の中を、すごく自然に歩いていらっしゃる」
リシェルは少し考えた。
「マーゴさん、正直に教えてください」
「何でしょう」
「わたしが来る前と後で、城の雰囲気は変わりましたか?」
マーゴが、すぐに答えた。
「変わりました」
「どんな風に?」
「……明るくなりました」
リシェルは少し驚いた。
「閣下の呪いが進行するにつれて、城全体が重くなっていたんです。術式的な意味でもそうですし、気持ちの意味でも。でも奥様が来てから、少しずつ変わって」
マーゴが、目を細めた。
「昨日、閣下が廊下で使用人に声をかけていらっしゃいました」
「え? ディルヴァルトが?」
「ええ。何でもないことを、ひと言。でも、みんなびっくりして。閣下がご自分から声をかけられるなんて、久しぶりで」
リシェルは何も言えなかった。
「奥様のおかげです、きっと」
「そんな、わたしは何も」
「何もしていないことはありません」
マーゴが、にっこりと笑った。
「ただそこにいてくれるだけで、変わることがあります。人も、術式も」
◆
午後、城の倉庫で呪具の整備をしていると、ディルヴァルトが顔を出した。
「バルデン男爵の招待状を見た」
「マーゴさんから聞きましたか」
「ああ。来週、ここで会うことにした」
「わかりました。わたし、貴族との挨拶って慣れていないんですが」
「普通にしていれば問題ない」
「普通にしていると、失礼なことを言いそうで」
「それでいい」
「よくないと思います」
ディルヴァルトが、棚に並んだ呪具を眺めた。
「バルデンは気のいい人間だ。辺境では数少ない、信用できる領主の一人だ」
「そうなんですか? なら安心です」
「式典前に、近隣の領主たちに顔を売っておくのも悪くない。お前の評判が上がれば、王都での動きやすさも変わる」
「なるほど。これも計算ですか」
「半分は」
「半分は?」
「……お前に、辺境の人間を知ってほしかった」
さらりと言われた。
リシェルは手を止めた。
「知ってほしかった?」
「ここに来て一ヶ月、城の中ばかりだった。辺境には、魔獣の被害に苦しみながらも頑張っている人間がたくさんいる。お前に、そういう人たちを見てほしかった」
リシェルは、ゆっくりとディルヴァルトを見た。
この人は、いつもこういうことをする。
計算と、本音が、半々で混ざっている。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「いります。そういうことを、考えてくれているなんて思わなかったので」
「考えている」
「いつも?」
「……お前に関することは」
最後の一言は、少し小さかった。
リシェルの胸が、また騒いだ。
呪具を手に取って、集中しようとしたが、なかなか難しかった。
「この呪具、かなり古いですね」
「三代前のものだ」
「使えますか?」
「判断できるか?」
「やってみます」
リシェルは呪具の状態を確認し始めた。
ディルヴァルトは邪魔をせず、ただ横に立っていた。
この人がいるとき、作業がはかどるのはなぜだろう。
気が散りそうなのに、逆に集中できる。
「……問題ないです。術式は生きてます。少し補強すれば、まだ使えます」
「そうか」
「あ、でも三十年以上経ってますね。基底術式が少し古い様式で組まれてます。現代の様式に書き直したほうが効率がよくなります」
「どれくらいかかる?」
「この一つなら半日くらい。ただ、倉庫に同じくらいの年代のものが他にもあるなら、まとめて見直したほうがいいかもしれません」
「他にもある」
「じゃあ、今週中に全部確認してリストを作ります。優先順位をつけて、順番に書き直していきます」
「一人でやるには多いか」
「多くはないです。やりがいがある量です」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「やりがい、か」
「仕事が山ほどあるのは、修復士として幸せなことです」
「工房では、そうではなかったか」
「工房では、仕事を与えてもらうために、まず気に入られないといけなかったので」
「ここでは?」
「仕事があるから、仕事ができます。シンプルでいいです」
ディルヴァルトが、少し間を置いた。
「……それが、お前のいるべき環境だ」
「え?」
「腕のある人間が、腕を使える場所にいる。当たり前のことだが、そうなっていなかった」
リシェルは少し黙った。
「そう言ってもらえると、救われます」
「事実だ」
「事実でも、言ってもらえると違います」
ディルヴァルトが、視線を逸らした。
その横顔に、何かが浮かんでいた。
リシェルには、それが何かわかった気がした。
でも、確認する勇気は、まだなかった。
◆
翌日。
王都からまた、グレインの手紙が届いた。
今度は少し長い内容だった。
『ギルフォード工房長、ヴェルナー副工房長への正式な調査が開始されました。両名はアンセル卿との関係を否定していますが、工房の記録を照合すると、アンセル卿からの資金提供が複数回確認されています。これは利益相反にあたり、処分は避けられない見通しです。また、アンセル卿の側も、師団の調査に気づいた様子で、王都の動きが慌ただしくなっています。式典まで五週間、何かを仕掛けてくるかもしれません。お気をつけください』
リシェルはその手紙を、ディルヴァルトに渡した。
男が黙って読んでいる。
「アンセルが焦ってますね」
「ああ」
「動きが早まるかもしれない」
「備えはしている」
「封印された部屋の警備は?」
「タイスの件から強化した。常時二人で見張っている」
「タイスは?」
「第二王子の手を借りて、王都の独立した施設に移送した。師団の中立派が管理している」
「じゃあアンセルの手は届かない」
「今のところは」
リシェルは窓の外を見た。
辺境の空に、雲が多かった。
「式典で、何が起きると思いますか」
「アンセルは俺を、式典の場で追い詰めようとするだろう」
「どうやって?」
「公衆の面前で、俺の呪いを悪化させる。感情を失った状態を衆目にさらし、公爵としての資格を疑わせる」
「そんなことが……」
「王家の呪術庫には、血統魔術に干渉できる古い術具がある。アンセルはそれを式典中に使うつもりだと思う」
「それを使われたら」
「俺の呪いが、一気に進行する」
リシェルは息を吸った。
「……させません」
「言うのは簡単だが」
「してみせます」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「お前に、一つ頼みたいことがある」
「なんですか?」
「式典の前に、俺の術式を今より安定させてほしい」
「今もやってますが」
「強度を上げる。お前が毎夜行っている施術を、今より踏み込んだ形で。呪いの根を直接触れる形で」
「それは……危険じゃないですか」
「お前にとっては多少負担がかかる」
「わたしじゃなくて、ディルヴァルトにとって。呪いの根に触れるということは、術式の暴走リスクが上がります」
「お前の術式なら、制御できる」
「それはわかってますが」
「リシェル」
ディルヴァルトが、リシェルを真っ直ぐに見た。
「俺は、式典でお前を守りたい。そのためには、今より強くなければならない」
「……わたしを守るために?」
「アンセルの標的は俺だけではないかもしれない。お前の追放に関係している。お前の存在が、アンセルの計画を崩している。だから」
男が、少し間を置いた。
「お前も、狙われる可能性がある」
リシェルは沈黙した。
考えてみれば、そうだった。
自分を狙った追放。
タイスが来たあの夜、リシェルにも攻撃が向いた。
「……わかりました」
「やるか」
「やります。でも、一つ条件があります」
「何だ」
「無茶な速度でやらないこと。ディルヴァルトの体への負担を見ながら、段階的に進めます。わたしの判断に従ってください」
「……わかった」
「本当に?」
「従う」
「途中で『大丈夫だ』とか言って無理しないでください」
「……言わない」
「約束ですよ」
ディルヴァルトが、珍しく少し困ったような顔をした。
「お前は、俺の扱い方をわかってきたな」
「一ヶ月一緒にいましたから」
「一ヶ月でそこまで読まれるとは思わなかった」
「修復士は、相手の構造を読む仕事です。術式も、人も」
「俺は術式ではないが」
「でも、読めます」
ディルヴァルトが、リシェルをじっと見た。
その目が、また少し近くなった気がした。
「……何が読める」
「今、何を考えているか、少しわかります」
「言ってみろ」
「……言いません」
「なぜ」
「恥ずかしいので」
ディルヴァルトが、リシェルを見続けた。
「逃げるな」
「逃げてません、保留です」
「同じだ」
「違います」
リシェルは視線を外した。
頬が熱い。
ディルヴァルトが今考えていることを、たぶん、少しだけわかった。
でも、それを口にするには、もう少し時間が必要だった。
お互いに。
◆
その夜の施術は、いつもより長かった。
踏み込んだ形で術式に触れるために、リシェルは全神経を集中させた。
ディルヴァルトの手を両手で包み、魔力を流し込む。
呪いの根は、思ったより深かった。
でも、確かに触れられた。
少しずつ、少しずつ。
「……痛くないですか」
「ない」
「本当に?」
「……少しある」
「言ってくれてありがとうございます」
「約束したからだ」
「はい」
リシェルは手を止めずに続けた。
集中しているのに、繋いだ手の感触がやけにはっきりと感じられた。
大きくて、温かくて、少し武骨な手だ。
封印術式を組むときも、護符を作るときも、この手が動いていた。
この手が、ずっとこの辺境を守ってきた。
「……リシェル」
「はい」
「今夜は、やりすぎていないか」
「大丈夫です」
「嘘をつくな」
「……少し疲れましたが、問題ないです」
ディルヴァルトが、静かに言った。
「今日はここまでにしろ」
「でも」
「お前が倒れては意味がない」
リシェルは手を離そうとした。
ディルヴァルトが、その手を離さなかった。
「ディルヴァルト?」
「……もう少し」
また、あの言葉だった。
最初に手を繋いだ夜と、同じ言葉。
「もう少し、このままでいろ」
リシェルは動けなかった。
繋いだ手の温もりが、施術を終えてからも続いている。
「……なぜですか」
「お前の魔力が、俺の術式を安定させる。離れると、また揺れ始める」
「それは……施術が終わったからで」
「違う」
ディルヴァルトが、リシェルを見た。
「術式の安定と関係なく、お前がいると、俺は落ち着く」
前にも言ってくれた言葉だ。
でも今夜は、少し違う重さがあった。
「ディルヴァルト……」
「わかっている」
男が、目を伏せた。
「言いすぎた。忘れろ」
「忘れません」
「リシェル」
「忘れないです、こういうことは」
ディルヴァルトが黙った。
繋いだ手が、少しだけ力を増した。
ランプの炎が揺れた。
二人の影が、書斎の壁に重なっていた。
リシェルは、胸の中の何かが、少しずつ形になっていくのを感じた。
まだ言葉にはできない。
まだ確かめるのが怖い。
でも、これは。
確かに、そういうことだと、思った。
◆
深夜。
部屋に戻ってベッドに横になってから、リシェルはずっと天井を見ていた。
眠れなかった。
繋いだ手の感触が、まだ残っている気がした。
「……どうするんだろう、わたし」
声に出してみた。
答えは、もう少しで出そうな気がした。
でも今日じゃない。
式典が終わったら。
アンセルのことが片付いたら。
ディルヴァルトの呪いが、もう少し薄くなったら。
そのとき、ちゃんと向き合おう。
リシェルは目を閉じた。
窓の外で、辺境の風が鳴っていた。
遠くに、結界の光が見えた。
あの光は今、リシェルが直したもので満ちている。
壊れていたものを、直した。
次は。
(次は、もっと大切なものを、直してみせる)
護符を胸に当てながら、リシェルはそっと目を閉じた。
第10話 了




