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第七話:暗渠の記憶

遊歩道と化した旧い川の跡を、俺はトレンチコートの裾を激しく翻しながら疾走していた。夕闇は完全に落ち、周囲には人工的な街灯の光だけが寒々と広がっている。

目指すのは、かつて川が流れていた頃の境界線であり、今や遊歩道の脇にモニュメントのように残された古い橋の親柱――かつて、俺が古い眷属である雹一郎と決定的な決別を迎えた因縁の場所だ。

いつもなら咥えているはずのハイライトに火をつける余裕すらない。その場所に近づくにつれ、駆ける俺の脳裏には、あの日二人の間に流れた冷たい亀裂の記憶が、堰を切ったように鮮烈に蘇ってきた。

吸血鬼の組織を作り上げ、圧倒的な力で世界そのものを強引に作り変えようとした、俺の眷属である雹一郎。対して、そんな肥大化した野望へのこだわりなど一切なく、ただ人々の日常の営みに静かに溶け込みながら、変わりゆく未来の景色を見届けたいと願った俺。根本的な思想の相違が、かつて主従であり友であった二人の歩みを少しずつ狂わせていった。

そして、あの最悪の事件。

暴走を続ける雹一郎の野望を誰よりも恐れ、悲しんでいたのは、他でもない彼の愛する人だった。「これ以上、あいつが化け物になっていくのを見たくない。あいつを止めて」と、彼女は涙を流しながら、唯一雹一郎を御せる存在である俺を呼び出し、頭を下げたのだ。

だが、運命は残酷だった。

そこへ現れた雹一郎は、最愛の者が自分を裏切り、俺と密通して自分の命を狙おうとしているのだと、最悪の勘違いを起こして激昂した。対話の余地など、その瞬間に消え失せた。狂おしい殺意の爪を剥き、雹一郎は俺へと襲いかかった。

俺もまた、向かってくる敵に対して容赦をするような甘い性格ではない。相手がかつての眷属であろうと、殺しに来るなら徹底的に叩き潰すのが俺の流儀だ。

まだこの遊歩道に蓋がされる前、水量を湛えた一本の川だった頃のあの鉄橋の上で、始祖と眷属による凄惨な殺し合いが勃発した。

夜の帳が下りた鉄橋の上は、静寂に包まれていた。下を流れる川の冷たいせせらぎと、遠くで響く街の喧騒だけが、かろうじてここが現実の世界であることを示している。

だが、その鉄橋の中央に立つ二人の男の周りだけは、大気が完全に凝固していた。

「……本気なのか、蓮次」

月光を背に受けて立つ雹一郎が、低く絞り出すような声を上げた。その端正な顔立ちは、かつて俺と未来を語り合った頃の面影を残していたが、その瞳の奥には、引き返せない一線を越えた者だけが宿す、暗く濁った狂気が渦巻いている。

「お前なら、俺の理想を理解してくれると信じていた。この脆弱で愚かな人間どもの世界を、我ら吸血鬼の圧倒的な力によって正しい形へと再構築する」

彼の言葉には、盲信的なまでの熱が籠もっていた。彼にとっては、それが絶対の正義であり、救済なのだろう。

だが、俺はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、死んだような目を彼に向けることしかできなかった。

「間違っているかどうかなど、俺には興味がない」

俺は冷淡に言い放った。

「だが、お前のその肥大化した野望のせいで、静かに暮らしたい奴らの日常が壊されるのは見ていて気分のいいものじゃない。……それに、お前の最愛の女が、涙を流して俺に頼んだんだよ。あいつを止めてくれ、とな」

「黙れ!!」

雹一郎の顔が、怒りによる激昂によって一瞬で歪んだ。

「彼女が俺を裏切り、俺のすべてを奪おうとするか、蓮次!」

彼の勘違いを正すための対話の余地など、その瞬間に完全に消滅した。

雹一郎の身体から、地を走るような濃密な殺気が噴き出す。彼の両手の指先から、皮膚を突き破って鋭利な爪が伸長した。

次の瞬間、彼の姿が鉄橋の上から完全に消失した。

人間の動体視力では決して捉えられない、人外の加速。

だが、俺の目は、夜の闇を切り裂いて左側から肉薄する彼の軌道を正確に捉えていた。

俺は上体を僅かに後ろへ反らし、顔面を狙った彼の爪を紙一重で回避した。空気を切り裂く鋭い風圧が、俺の頬の皮膚をかすめる。回避と同時に、俺は右拳を彼の脇腹へと深く突き出した。

拳が彼の腹にめり込み、肉と骨がひしゃげる重い手応えが伝わる。だが、雹一郎も俺の血を分けた強力な眷属だ。彼は吐血しながらも、その強靭な肉体で衝撃を無理やりねじ伏せ、俺の右腕を自らのleft腕で強引に挟み込んで拘束した。

「捕まえたぞ、蓮次!」

自由を奪われた俺の胸元へ、雹一郎が至近距離から右手の爪を開いて深く突き立ててきた。

衣服の繊維を断ち切り、俺の胸の皮膚を、肉を、筋肉の繊維を容赦なく左右に押し広げて指先が食い込んでいく。生々しい激痛が脳髄を駆けたが、俺は顔色一つ変えず、空いている左手で彼の右の手首を掴み、力任せに逆方向へとねじ切った。

骨が原型を留めずに回転し、皮膚を引き裂いて内側から白く尖った骨幹が飛び出す。雹一郎が苦悶に顔を凄惨に歪め、拘束が僅かに緩んだ。

俺はその隙に胸から彼の爪を引き抜くと、一歩も退かずにさらに間合いを詰めた。

頭部、喉元、心臓。互いの指先が、相手の致命的な部位をただひたすらに破壊せんと交錯する。

鉄の欄干に彼の手が触れるたび、頑丈な構造物がまるで紙細工のように容易く引き千切られ、歪んでいく。剥き出しになった鉄の破片が、二人の攻防の余波で夜空へといくつも弾け飛び、互いの顔や身体を深く切り裂いた。

肉が削げ、血が鉄橋の路面にどくどくと溢れ、激しい運動の熱によって生温かい鉄の匂いが周囲に立ち込める。主従の絆などとうに消失し、そこにあるのは、どちらの生存本能が相手を上回るかという、生々しく泥臭い削り合いだけだった。

戦いが進むにつれ、戦況は次第に傾き始めていた。

雹一郎の攻撃は狂気に満ち、破壊力こそ凄まじかったが、怒りに囚われるあまり、その軌道には僅かな大雑把さが生じていた。対して、俺は痛覚を完全に麻痺させ、ただ彼を無力化することだけに集中していた。始祖としての圧倒的な出力の差が、少しずつ、だが確実に彼の肉体をすり潰していく。

激しい乱戦の中、雹一郎が大きく右腕を振りかぶった。必殺の威力を籠めた、大振りな一撃。

(――そこだ)

俺はその隙を逃さなかった。彼の懐へと深く潜り込み、放たれた右腕の内側を、俺の左手で強引に抑え込む。

雹一郎の瞳に、初めて明確な動揺が走った。

俺の右手――五本の指が、鋭い爪とともに一本の槍のように研ぎ澄まされる。目指すのは、彼の胸の中央。始祖である俺の血が流れる彼の生命の核、心臓だ。

これを確実に破壊すれば、いかなる不死の肉体を持つ眷属といえど、確実に物言わぬ肉塊へと変わる。

一切の容赦を捨て、俺は右腕を全力で突き出した。

肉を貫き、胸骨を粉砕する、確かな抵抗感が右手に伝わるはずだった。

だが、その刹那、俺の視界に飛び込んできたのは、雹一郎の絶望に染まった顔ではなかった。

「……やめて……!」

聞き覚えのある、か細い声。

俺の右腕が深く貫いていたのは、雹一郎を殺してほしかったわけではなく、ただ狂気から救ってほしかっただけの、彼の最愛の女性の胸元だった。

彼女は、二人の戦いを止めるために、自らの命を賭してその決定打の前に割り込んだのだ。

「あ……、あ……」

雹一郎の口から、言葉にならない掠れた声が漏れ出た。

彼の瞳から狂気が急速に退き、代わりに底なしの絶望と喪失感が満ちていく。彼は崩れ落ちる彼女の身体を抱きとめ、その生気の一切が失われていく顔を見つめながら、夜空に向かって獣のような絶叫を響かせた。

彼女の胸から右腕を引き抜いた俺は、自らの両手に付着した生温かい血を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。

「蓮次……! お前を……お前を絶対に許さない……!」

彼女を抱きしめたまま、雹一郎が俺に向けて放った、血を吐くような呪詛の視線。あの夜、俺たちの間に流れていた友情は完全に瓦解し、二度と修復することのできない、永遠の決裂を迎えたのだ。

――あの忌まわしい記憶の残照を振り払うように、俺は強く瞬きをした。

視界が現在の景色へと戻る。

その因縁の場所――石造りの親柱だけが残る古い橋の跡地に、俺は今、滑り込むようにして到着した。



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