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第二話:深夜二時の打ち合わせ

「今風の異世界モノに転向させろ。ダメなら、次の巻で打ち切りだから」

夕方の編集部。吐き捨てるような編集長の冷酷な言葉が、夜になっても頭の芯にこびりついて離れなかった。

真壁椎名、二十三歳。文芸新報社に入社して二年目。

この春、念願叶ってずっと憧れていた大作家――『朧月夜』先生の担当編集に指名された日の夜のことを、今でも鮮明に覚えている。嬉しさのあまり、誰もいない給湯室に駆け込んで、声を押し殺しながら拳を強く握りしめたのだ。

朧月夜先生の書く怪奇小説は、巷に溢れる安易なホラーとは一線を画していた。とにかく、五感のすべてが粟立つような『リアル』の一言に尽きるのだ。

肌にまとわりつく闇の冷たさ、異形と対峙した瞬間に骨の髄まで凍りつくような本能の恐怖、技術的な精緻ささえ感じる生々しい血の匂い。言葉の端々から立ち上る圧倒的な筆致は、昨今のライトな流行小説には決して真似のできない、歴史の重みと本物の輝きを放っていた。

「分かってない。誰も先生の良さを分かっていないんだ……!」

深夜十一時を回ったオフィス。蛍光灯の白い光だけが寂しく照らすフロアで、私は悔しさに唇を噛み締めながら、私物のトートバッグに荷物を詰め込んでいた。

確かに今の出版界は、ウェブ発の華やかな異世界転生ブーム一色だ。誰もが手軽に爽快感を味わえる、チート能力での無双話を求めている。だけど、だからといって、明治、大正、昭和の激動の裏側を泥臭く生き抜いてきたとファンの間で噂されている伝統ある『朧月夜』の名跡に、そんな安直な流行を当てはめろだなんて、あまりにも先生へのリスペクトが足りなすぎではないか。

しかし、感傷だけで飯が食えないのも事実だった。組織に属する会社員である以上、数字が出せなければ、どれほど高尚な文学であっても容赦なく切り捨てられる。それが現代という歪みのない管理社会のルールなのだ。

私は自分の両頬を両手で強く叩き、皮膚の痛みの感覚で強引に気合を入れた。ここで諦めたら、朧月夜の歴史を自分の代で途絶えさせてしまう。

今夜は、先生との初めての打ち合わせだ。昼間の面会を頑なに拒む先生が指定してきた時間は、驚いたことに『深夜二時』という常識外れの時間帯だった。場所は、先生が隠れ住んでいるという古社の境内裏からほど近い、広大な電子街の外縁部にある二十四時間営業のファミレス。

重い事務作業をギリギリまで片付けた私は、オフィスビルを出てすぐにタクシーを拾い、指定された住所へと直接向かうよう告げた。

腕の中にしっかりと抱え上げているのは、先生の数少ない公開プロフィールに書かれていた唯一の嗜好品。今はもう吸う人も少なくなった、古き良き昭和の面影を残す煙草『ハイライト』のカートンだ。

「まずは先生の創作への熱意をじっくり聞いて、その上で、先生のリアルな描写を活かした新しい切り口を提案する。絶対、打ち切りになんてさせないんだから!」

タクシーの窓の外、巨大なビル群の明かりがまばらに遠ざかっていく。

目的地である電子街の境界線へと近づくにつれ、夜の空気は急速にその色を変えていった。昼間はあれほど無数の人間と電子音が氾濫していた街が、今はまるで巨大なコンクリートの墓標のようにひっそりと静まり返っている。

シャッターの下りた雑居ビル、行く手を阻むように頭上を走る鉄道の高架。都会の喧騒が嘘のように消え去った、深夜の東京特有のシンと静まり返った剥き出しの冷たい空気が、窓の隙間から滑り込んでくるようだった。

「お客さん、指定のファミレスはこの角を曲がったところだけど、手前の道が夜間工事で通行止めになってるね。ここで下ろしても大丈夫かい? すぐそこ、歩いて数十秒の距離だから」

運転手さんにそう声をかけられ、時計を見ると午前一時五十分。ちょうど良い時間だった。

「あ、はい! 大丈夫です、ありがとうございました」

料金を支払い、手土産の『ハイライト』の重みを袋越しに確かめながらタクシーを降りる。

約束の二時までは、あと十分。

遅れるわけにはいかない。私は荷物を大切に抱え直し、ファミレスの看板がすぐ先に見える薄暗い路地へと足を進めた。車道は静まり返り、見上げるビルの隙間の空が、やけに狭く、暗い。

目的地はもうすぐそこだった。だからこそ、その手前にぽつんと佇む時間貸しのコインパーキングの横を通り過ぎようとしたとき、余計にその異変が目についてしまった。

それが、すべての過ちの始まりだった。

「……あれ?」

風の向きが変わった瞬間、鼻腔を突いたのは、雨ざらしの古い鉄棒を握りしめた後の、あの手のひらにこびりつくような嫌な鉄の匂いだった。

ふと足が止まる。パーキングの奥、隣接するビルの壁が落す濃い影に隠れた場所に視線が吸い寄せられた。そこには車ではなく、大きな黒いゴミ袋のような塊が、不自然な形で転がっているように見えた。

いや、違う。ゴミ袋なんかじゃない。あれは、人間の、手足――。

「ひっ……!?」

短い悲鳴が喉の奥で爆発した。慌てて両手で口を塞いだが、身体の震えが止まらない。

暗がりに横たわっていたのは、間違いなく服を着た人間だった。だけど、決定的に何かが狂っていた。まるで古い洋服タンスの奥から何十年ぶりかに引っ張り出してきた革人形みたいに、露出した肌が赤黒く、異常なほどに萎びて干からびているのだ。

「嘘、なんで……何これ……」

奥歯が激しく鳴る。血の気が一気に引き、体感温度が数度下がったような錯覚に陥る。脳の、いや生物としての本能が「ここにいてはいけない」と最大級の警報を頭の中で鳴らし続けていた。

後ずさりし、今来た道を全速力で引き返そうとした、その瞬間。

背後の闇で、鋭く砂利を踏みしめる音が響いた。

「おい。何見てんだよ」

心臓が跳ね上がり、喉が引き裂かれそうになる。

慌てて振り返ると、そこには二人の男が、闇から染み出すようにして立っていた。

二人とも、全く同じメーカーの、ロゴひとつ入っていない無地の黒いワークウェアを身にまとっている。不自然なほど統一されたその衣服のせいで、夜の闇に二人の輪郭が不気味に同化していた。

一見すれば、深夜の街にいる作業員か何かのハズだった。なのに、彼らから漂う空気は、人間とは決定的に異なっていた。

街灯のわずかな光を反射した二人の瞳が、異様にギラギラと、濁った赤色に血走っている。

(あ……赤い、目……?)

恐怖で硬直する私の脳裏に、突如として、朧月夜先生の小説に登場するあの禍々しい怪異の描写が鮮烈にフラッシュバックした。

『鬼人』。理性を失い、衝動のままに人間の血を求めて夜を彷徨う、生ける屍。

目の前の男たちの、だらりと下がった口元から漏れる熱を帯びた荒い呼吸。そして、引きつった唇の隙間から覗く、あり得ないほど鋭く長く伸びた犬歯。それらすべてが、大好きな作品の記述と恐ろしいほどの精度で合致していく。

「あ、あ、あの……私、道を間違えて……」

「いい匂いがする。若い女の、新鮮なやつだ」

一人の男が、ピクリと鼻を鳴らして一歩近づいてくる。その足取りは音もなく滑らかで、まるで獲物を追い詰める肉食獣そのものだった。

「だめ。今は飲むな。時間がない。早く置いて、次に行く」

もう一人の男が、まったく感情の籠もっていない、平坦な声でそれを遮った。

その男は周囲を警戒する様子も、目の前で怯える私を気にする様子も一切ない。ただ虚ろな赤い目を前方へ向けたまま、あらかじめ頭の中に直接覚え込まされた短い言葉を、ただ機械的にそのまま口から吐き出しているだけだった。

それは会話というよりも、あらかじめ決められた手順をただ忠実に実行しているだけの、ロボットのような冷酷さだった。

「いや……来ないで……!」

言葉の通じない化け物と対峙しているのだという現実が、私の理性を完全に塗りつぶした。

恐怖が限界を超え、私は腕に抱えていた重い『ハイライト』のカートンを、目の前の男の顔面に向けて全力で投げつけた。

放たれた煙草の箱が視界を遮った隙に、ファミレスの明かりが見える大通りへ向かって全力で走り出そうとする。

しかし、人間の反射速度を遥かに超えた超常の動きが、私の希望を容赦なく打ち砕いた。

空気が鳴ったと思った瞬間には、黒いワークウェアの男が私の目の前に回り込んでいた。逃げ道を完全に塞がれ、冷たいコンクリートのような硬さと圧倒的な質量を持った手が、私の細い手首を容赦なく掴み取る。

「がはっ……!」

骨がきしむような激痛。抵抗する間もなく、私は硬いアスファルトの地面へと乱暴に押し倒された。衝撃でトートバッグのジッパーが弾け、中身が周囲に激しく散らばる。

男の赤い瞳が、至近距離で私を見下ろした。言葉を発することもなく、ただ呼吸の音だけが、耳元でせわしなく繰り返される。その瞳には、人間への慈悲も、脅しのような感情も一滴も存在しない。本当にただ、目の前の障害を排除して、次の行動へと移るためだけの冷徹な視線だった。

男が私の髪を乱暴に掴み、首筋を露出させるように顔を上向かせる。その口が大きく裂け、不自然に伸びた鋭い牙が、私の脈打つ皮膚へと近づいてくるのが分かった。男の口から漏れる、生暖かい、そして吐き気を催すほどの血の匂いが顔にかかる。

意識が遠のくほどの絶望の中で、私の視界の隅に、散らばった荷物の間に転がっている一通の手紙が映った。

先生に渡すはずだった、私の溢れんばかりの熱意を便箋三枚に詰め込んだファンレター。それが、今から溢れ出るであろう自分の血で汚れていく未来しか、もう想像できなかった。

嫌だ。死にたくない。先生の、新しい原稿を、私はまだ読んでいないのに。

(先生……助けて……!)

心の中で、届くはずのない、憧れの作家の名前を叫んだ瞬間。

私の首筋に、容赦のない、肉を引き裂く鋭い激痛が走った。

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