第三話:始祖の血
「……大福。なんか焦げ臭い匂いがしねえか?」
駅前のファミレスへと続く大通り。トレンチコートのポケットに両手を突っ込み、気だるく足を動かしていた俺は、ふと足を止めて鼻を鳴らした。
『蓮次、それは焦げ臭いのではなく、血の匂いです。それもかなり新鮮な』
俺の影に隠れるように歩いていた黒ポメの大福が、脳内に冷徹な念話を響かせてくる。
「血ぃ? 新しい担当編集との待ち合わせはファミレスのはずだろ。ここからすぐそこだぞ」
『匂いの元は高架下の裏手、すぐ近くのコインパーキングの方向です。……待ちなさい、蓮次。この匂い、人間のものだけではありません。鬼人独特の、あの生臭く、錆びた鉄のような血なまぐさい匂いが, 濃密に混ざっています。それと――』
大福が短い鼻をぴくりと動かし、丸い瞳を鋭く細めた。
『ラム酒の香りです。あなたがさっき投げ捨てたものとは違う、未開封のタバコの葉の匂いだ』
「ハイライトか。チッ、まさか……!」
俺は咥えていた煙草の灰をペッと吐き捨て、すぐに地を蹴った。
メールで事前にやり取りしていた、新しい担当編集者の特徴を思い出す。プロフィールに書いてある俺の唯一の嗜好品を調べて、わざわざ手土産に持ってくると書いて寄こした、あの真面目すぎる新人編集者だ。指定した時間は午前二時。今がちょうどその数分前。
他人が死ぬのは勝手だが、せっかくのタバコが血に汚れるのは寝覚めが悪い。なにより、この時代遅れの小説を生き残らせるための知恵を、少しは持っていそうな新しい担当だ。初対面でバケモノの餌にされて、アドバイスを聞きそびれるのは御免だった。
高架下を抜け、闇に沈んだコインパーキングに飛び込むと、絵に描いたような惨劇がそこにあった。
地面に押し倒され、首筋から激しく鮮血を噴き出している若い女――真壁椎名。
その髪を乱暴に掴み、牙を血で染めている黒いワークウェアの男。
外された荷物の隙間には、無残に潰れたハイライトのカートンが転がっている。
置いてある車ではなく、その奥の壁際に、大きな黒いゴミ袋のような、干からびて変わり果てた遺体が見えた。
そしてもう一人、感情の消えた虚ろな赤い目で、床の血溜まりをただ見つめている同じワークウェアの男。
「だめ。今は飲むな。時間がない。早く置いて、次に行く」
立っている方の男が、まったく感情の籠もっていない平坦な声でそれを遮った。
その瞬間、俺の脳裏に、こないだ大吾から回ってきたあの事件の現場写真が鮮烈にフラッシュバックした。
(チッ……また同じだ。防犯カメラの死角に、綺麗に血を抜いた死体をわざわざ置きにきてやがる。あいつら、一体何のためにこんな真似を――)
驚いている暇はなかった。
目の前のバケモノどもは、まるで行列を作るアリのように奇妙な統制の取れた動きを見せている。それなのに、運悪くその現場に迷い込んでしまったこの新人編集者を、まるで衝動を抑えきれなくなった獣みたいに突発的に襲い、血を啜っている。
命令をこなす機械なのか、それともただの飢えた獣なのか。そのどっちつかずの歪な輪郭が、猛烈にキナ臭い。
「おい、そこまでだ。……せっかくのハイライトが、出来損ないの生臭い血の匂いで台無しじゃねえか」
暗がりに響いた俺の声に、二匹のバケモノが同時にこちらを振り向いた。
赤く血走った目が、夜の闇から俺の姿を捉える。
「殺せ」
噛みついていた方の男が、人間の限界を超えた速度で、地を滑るように間合いを詰めてきた。
躊躇なく命を奪いにくるその動きは、確かに普通の人間からすれば脅威だろう。だが、大正の戦火も昭和の闇も潜り抜けてきた不老不死の吸血鬼からすれば、その動きはあまりにも直線的で、お手本通りの退屈な動きに過ぎなかった。
俺は踏み込んできた男の腕を、左の爪で迎え撃つように、ただ真横に薙いだ。
濡れた雑巾でも引きちぎるような、鈍く不快な肉の裂ける音が響く。流れたのは俺の血じゃない。
男が苦悶の声を漏らした。男の右腕は、肘の先から綺麗に消失していた。俺の爪が、一瞬でその肉と骨を消し飛ばしたのだ。切り口から、赤黒い血がアスファルトへ滴り落ちる。
「があああっ……!?」
男が明確に激痛に顔を歪め、傷口を押さえてよろめいた。
本来の鬼人ってのは、脳が壊れたただの動く死体だ。死ねば痛みを感じるはずがない。なのにこいつは今、明確に激痛を感じている。
「随分ときれいに統制されてるようだが、そのせいで動きが台本通りんだよ。誰に飼い慣らされてるか知らねえが、そんなネジの巻き方しか知らねえデク人形の動きが、この俺に通じると思ってんのか」
俺はそのまま、男の胸ぐらを掴み、コンクリートの地面へと垂直に叩きつけた。
頭骨が完膚なきまでに粉砕される鈍い音が、夜の静寂を揺らす。地面のコンクリートにクモの巣状の亀裂が走り、男はそれ以上の悲鳴を上げることすら許されず、文字通りの肉塊へと変わった。
「……イレギュラー発生。戦闘能力、想定外。撤退する」
もう一匹の男が、仲間の無残な死体を前にしても無表情のまま、あらかじめ決められた緊急ルートへ向けて機械的に踵を返した。
男がパーキングの壁を飛び越えて逃走しようとした瞬間、俺の足元から黒い毛玉が矢のように飛び出した。
大福だ。
ただの黒ポメに見える小柄な身体が、常軌を逸した速度によって一瞬だけ巨大な獣の残像を結び、逃げようとした男の足首へ鋭い牙を突き立てた。骨の砕ける不快な鈍い音が夜の静寂に響く。
男の口から、夜の空気を切り裂くような、生々しい悲鳴が迸った。
間違いない。こいつらには、はっきりと痛覚が残っている。人間の意識と、痛みを感じる神経をあえて残したまま、戦闘能力だけを無理やり上書きして改造されているんだ。
男が激痛にのたうち回りながら地面に転がる。俺はその背中に容赦なく足を乗せ、自重のすべてをかけて踏み抜いた。肋骨がへし折れる嫌な音が響き、男はさらに血の混じった絶叫を漏らす。
「大福、よくやった。……おい、お前らの後ろにいるのは誰だ。何の目的で、この街に死体を置きにきてやがる」
男の胸ぐらを掴み上げ、顔を近づけて問い詰める。
だが、男は問いかけに答えるどころか、一切の感情を排した虚ろな目のまま、ただゴボリと黒い血を吐き出した。その瞬間、男の瞳から急速に光が失われる。尋問を拒むように心臓が停止し、男はただの物言わぬ死体となって、アスファルトの上へどさりと崩れ落ちた。
「チッ……トカゲの尻尾切りか。つくづく胸糞悪いな」
横たわる二つの死体を見下ろし、俺は深いため息をついた。
痛覚も意識も残したまま、ただの兵隊として使い潰されるように仕込まれた連中。正体不明の薄汚い影が、この街の裏で確実に動き始めている――。
「あ……が……あ……っ」
背後から、ねっとりとした不快な水音が聞こえた。
振り返ると、地面に散らばった書類の真ん中で、椎名が首の傷を押さえてのたうち回っていた。驚いたことに、彼女の傷口から流れ出した血の色が、見る見るうちに粘り気のある黒紫色へと変色し、まるで生き物のように彼女の体内へ吸い戻されていく。
椎名の白眼の部分に、不気味な赤黒い毛細血管が急速に広がり、凶暴な獣の輝きを宿し始めた。
(チッ、やっぱりバケモノの血に汚染されてたか)
このまま放置すれば、彼女はあと数分で、理性を失っただけの醜い人食い鬼と化す。
「起きろ。意識を保て!」
俺は椎名の背後に回り、その傷ついた肩を力任せに押さえつけた。
だが、彼女の身体は既に異様な熱を持って硬直していた。喉の奥から獣の唸り声が漏れ、その細い指先が、俺のトレンチコートを容赦なく引き裂く。牙を剥き出しにした彼女の顔が、俺の首筋を求めて迫ってきた。
「先生……う……殺して……」
かろうじて残っていた一瞬の理性が、俺にそう願った。
(殺す……? ああ、確かにそれが一番確実だ。だが――)
この女は、俺の小説を救いに来たんだ。こんな薄暗い駐車場で、正体不明の兵隊バケモノの撒き散らしたゴミみたいに死なせてたまるか。それに、この現場を裏で仕組んだ何者かの意図に、ただ従わされるのも気に食わない。
俺は思い切って自分の手首を牙で突き刺した。
生暖かい、熱い俺の血が溢れ出す。
「いいか、真壁椎名。お前は今、あのバケモノの血に汚染されて理性を失う寸前だ。バケモノになりたくなければ、大人しく俺の血を飲め」
俺は血の滴る手首を、椎名の開いた口へと押し込んだ。
彼女が俺の血を飲み込んだ瞬間、その身体が電流を流されたかのように大きくのけぞった。体内で激突する二つの異物が猛烈な拒絶を起こし、彼女の口から黒い汚血が勢いよく吐き出される。だが、圧倒的な始祖の血がバケモノの毒を力づくでねじ伏せていくに従い、肌に浮き出ていた不気味な黒い血管の跡は急速に引き、元の瑞々しい生身の肌へと戻っていった。
「はあ……はあ……っ、げほっ……!」
椎名は俺の手首を離し、激しく咳き込んだ。
その瞳から獣の赤みが完全に消え、元の知的な黒い輝きが戻るのを確認した。だが、急激な肉体の変異に耐えられるはずもなく、彼女は安堵したように息を漏らすと、そのまま俺の胸の中へ倒れ込んできた。深い気絶だ。
「大福、撤収だ。こいつを連れて帰る」
俺は気絶した椎名を受け止め、トレンチコートで包むようにして軽々と抱え上げると、地面に転がった書類と、潰れたハイライトを拾い上げた。
午前二時過ぎ。見事なまでに滅茶苦茶になった最初の打ち合わせの夜。
俺は腕の中の新しい『眷属』を見下ろし、小さくため息をつきながら、誰もいない駅裏の闇へと足を進めた。




